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灰燼の策士と七つの禁忌

第3話 第3話

第3話

第3話

地下水路の闇は、生き物のように濃い。

 カイは腰まで浸かる汚水の中を進みながら、背後に耳を澄ませていた。排水路に入って既に二刻。途中、三度にわたって帝国兵の巡回と遭遇しかけた。灰色外套——ヴェーバーの手の者だろう。地上だけでなく、地下の水路網にまで捜索の手が伸びている。カイが排水路を庭としていることを、ヴェーバーは正確に読んでいた。

 だが読みには限界がある。旧都の排水路は、地上の街路よりも遥かに古い。エルドラ王国以前、さらに遡れば先史の時代に掘られた坑道を基礎としているという。帝国が押収した地図に載っているのは、せいぜい王国時代に整備された主幹水路だけだ。カイが十年かけて見つけた細い枝路や、崩落で半ば塞がれた旧坑道までは記されていない。

 第七水門を目指すには、主幹水路を避けなければならない。そこは帝国の巡回路と重なる。カイは暗号日誌から読み取った「白百合の地下回廊」の位置と、自身が知る水路網の地図を頭の中で重ね合わせた。旧王宮の東翼直下に至るには、旧市街の下を東へ進み、王国時代に封鎖された第三排水渠を経由する経路がある。三年前に一度だけ入り口を確認したが、奥は探っていなかった。崩落の危険があったからだ。

 今はその危険を選ぶしかない。

 分岐路で立ち止まり、水の流れを指先で確かめた。右の水路は流れが速い——主幹への合流路だ。左は淀んでいるが、微かに空気が動いている。崩落で半ば塞がれた旧坑道は、完全には死んでいない。空気の通り道が残っているなら、人一人が通れる隙間もあり得る。

 左を選んだ。水位が膝まで下がり、代わりに天井が低くなった。四つ這いに近い姿勢で進む。指先に触れる壁面の煉瓦が、ある地点から石材に変わった。王国時代の積み方ではない。継ぎ目のない、滑らかな切石。先史の遺構に入りつつある証だった。

 背後で水音がした。

 カイは息を殺した。自分が立てた波紋の反響か、それとも——。

 軍靴が水を蹴る音。一人。いや、二人。主幹水路の巡回が、この枝路に気づいたか。

 考えている暇はなかった。カイは匍匐のまま速度を上げた。肘と膝が石に擦れ、外套が水を吸って重い。背後の足音も速まった。松明の灯りが水路の壁を赤く舐め、カイの影が前方に長く伸びる。

「止まれ!」

 帝国語の怒号。カイは止まらなかった。前方の天井が更に低くなり、崩落した瓦礫の隙間が口を開けている。大人の肩幅では通れない。だがカイの痩せた体ならば。

 瓦礫の隙間に体をねじ込んだ。外套の裾が引っかかり、一瞬動けなくなった。背後で兵士が駆け寄る気配。カイは外套の留め金を引きちぎって身を捻り、瓦礫の向こう側へ滑り落ちた。

 追手の罵声が瓦礫越しに響いたが、隙間はもう彼らの体を通さない。やがて声は遠ざかった。応援を呼びに戻ったのだろう。猶予はそう長くない。

 瓦礫の先は、それまでの水路とは明らかに異質な空間だった。

 天井が高い。暗闇の中でも、頭上に広がる空間の気配が感覚でわかる。空気が乾き、水の流れが消えた。足元は滑らかな石の床で、靴底が触れるたびに微かな反響が返ってくる。広い。そして古い。排水路の湿った腐臭が嘘のように、ここには石と、かすかに金属に似た冷たい匂いだけがあった。

 カイは懐から火打ち石を取り出し、蝋燭の欠片に火を点けた。

 炎が照らした光景に、息が止まった。

 回廊だった。幅は馬車二台が並べるほどあり、天井はカイの身長の三倍はある。壁面には見たことのない文様が彫り込まれ、蝋燭の炎を受けて青白く光った。文様は幾何学的な紋様と、文字とも絵ともつかない記号の連なりで構成されている。父の暗号日誌に記された記号の一部と、似ている。

 白百合の地下回廊。名の由来がわかった。壁面の文様が、確かに百合の花弁に似た形を繰り返しているのだ。

 日誌の記述に従い、東へ歩を進めた。四百歩。数えながら歩く間、壁の文様は途切れることなく続いた。この回廊を造った文明がどれほどの技術を持っていたのか、想像もつかない。エルドラの王たちはこの上に王宮を築き、この遺構を秘匿した。ヴァルトハイム家はその番人だったのかもしれない。

 三百九十八、三百九十九、四百。

 回廊が途切れ、巨大な扉が現れた。扉というよりは壁そのものが意匠を変えた境界面で、中央に掌大の窪みがある。窪みの周囲に刻まれた文様は、他の壁面とは明らかに異なっていた。同心円状の紋様が脈動するように見えるのは、蝋燭の揺らぎのせいだけではない。

「鍵は血統が開く」

 カイは呟き、右手を窪みに当てた。

 何も起こらなかった。冷たい石の感触があるだけだ。血統とは何を意味するのか。血か。カイは小刀で左の掌を浅く切り、血の滲んだ手を窪みに押しつけた。

 石が脈動した。

 指先から腕へ、振動が駆け上がった。壁面の文様が一斉に発光し、回廊全体が青白い光に包まれた。蝋燭の炎が無意味になるほどの光量。地鳴りのような低い音が足元から湧き上がり、扉の中央に亀裂が走った。

 扉が左右に開いた。その向こうに広がっていたのは、回廊を遥かに凌ぐ巨大な空間だった。

 円形の広間。天井は闇に溶けて見えない。床の中央に、それはあった。

 黒い柱のようなものだった。人の背丈の倍ほどの高さで、表面は金属とも石ともつかない素材で覆われている。表面に刻まれた文様が、壁面と同じ青白い光を放ちながら明滅を繰り返していた。それは呼吸のリズムに似ていて——否、カイの呼吸に合わせているのだと気づいたとき、全身の毛が逆立った。

 古代兵器ノクティルカ。父の日誌に、その名はなかった。だがカイには確信があった。帝国が血眼になって探しているのは、これだ。

 柱の表面に浮かぶ文様が変化した。幾何学的な紋様が崩れ、文字列が浮かび上がる。読めない。先史の文字だ。だが日誌の暗号と共通する記号がいくつか見える。「起動」「承認」「血脈」——断片的に読み取れる単語が、カイの脳裏で意味を結んだ。

 承認を求めている。

 柱が反応したのは右手の血ではなく、カイの存在そのものに対してだった。ヴァルトハイムの血を引く者が、四百歩の回廊を歩いて此処に立った。それが起動の条件だったのだ。

 柱の光が強まった。文様が渦を巻き、光の奔流がカイに向かって伸びた。避ける間もなかった。光は左腕に巻きつき、袖を透過して肌に直接触れた。

 灼熱と氷結が同時に走った。

 カイは叫び声を噛み殺した。左腕が燃えている。そう感じたが、見下ろした腕に炎はない。代わりに——皮膚の色が変わりつつあった。手首から先、指の一本一本まで、肌が黒く染まっていく。墨を塗ったのではない。皮膚そのものが変質し、柱の表面と同じ金属めいた質感を帯びていた。黒い表面の下を、青白い文様が脈のように走る。

 痛みは数秒で引いた。だが左腕の感覚は以前と異なっていた。指を動かすと、空気の密度すら感じ取れるほどに触覚が鋭敏になっている。柱との間に見えない糸が繋がったような感覚。ノクティルカがカイの一部となったのか、カイがノクティルカの一部となったのか、その境界は判然としなかった。

 広間の光が徐々に収まり、再び静寂が戻った。柱の文様はなおも明滅を続けているが、先ほどの奔流はない。起動シーケンスは完了したのだ。

 カイは黒く変質した左手を眼前に掲げた。指を握り、開く。動く。だが、これはもう人の腕ではない。

 父はこれを知っていたのか。知っていて、五歳の息子に日誌を託したのか。

 答えは返らなかった。ただ地下深くで、遠い水音だけが響いている。

 そのとき、回廊の奥から声が反響した。帝国語の号令。松明の光が複数、回廊の入口を照らし始めている。瓦礫を迂回する経路を見つけたのだ。時間がない。

 カイは黒い左腕を外套の袖に隠し、広間の奥に目を走らせた。出口がもう一つあるはずだ。この遺構を造った者たちが、入口を一つしか用意しなかったとは考えにくい。壁面の文様を辿ると、広間の反対側に小さな通路が口を開けていた。

 帝国兵の靴音が近づく。カイは走った。左腕が脈打つたびに、意識の隅でノクティルカの鼓動が重なった。手に入れたのか、取り憑かれたのか。その問いに向き合う余裕は、今はない。

 背後で兵士たちが広間に踏み込む怒号が聞こえた。だがカイの姿は既にそこにはなかった。通路は緩やかに上昇し、やがて夜気の匂いが鼻先を掠めた。

 旧都の地上に這い出たとき、左腕の黒い変質は肘の上まで広がっていた。

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