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社畜スキルで異世界成り上がり

第23話 第23話

第23話

第23話

ハインツがギルドの最深部——地下の禁書庫に俺を連れていったのは、使節団滞在五日目だった。

地下三階。空気が冷たく乾いている。壁は分厚い石積みで、外の音が一切届かない。完全な静寂。ランタンの炎が揺れると、影が壁を這う。古い革と紙と蝋の匂い。時間が止まった場所の匂いだ。

「ここには三百年前の一次資料がある。三階の資料室に置いてあったのは写本だ。こちらが原本」

ハインツが鍵のかかった棚を開けた。鍵を回す音が地下に反響した。カチリ。金属と金属が噛み合う確かな音。革装丁の本ではなく、金属の箱。鉛と銀の合金だろうか。持ち上げると重い。箱の表面に酸化の痕があり、緑青が浮いている。中に羊皮紙の巻物が収められている。封蝋が施され、巻物の端にギルド創設者の紋章が押されていた。蝋の色が赤から褐色に変色している。三百年分の時間の色。

「ヴォルフ・ヴァン・エルドヴァイン。本名はヴォルフ・ラングナー。エルドヴァインは帝国名を名乗らされたものだ。元は辺境の農家の息子。十二歳でスキルが覚醒し、帝国の宮廷魔術師団に徴用された」

徴用。志願ではない。強制。十二歳の農家の子供が、国家に力を差し出すことを強いられた。

「帝国暦二百三年から二百二十七年。二十四年間、宮廷魔術師として皇帝に仕えた。記録によれば、ヴォルフは——忠実だった。命令には一度も背いたことがない。どれほど過酷な命令でも」

忠実。一度も背かない。二十四年間。俺の六年間の比ではない。

「西方大陸アルヴェンへの遠征は、帝国暦二百二十七年。帝国とアルヴェンの戦争が膠着状態に陥り、皇帝が最終手段としてヴォルフに命じた。『大陸ごと剥離せよ』」

ハインツが巻物を開いた。古い文字が並んでいる。読めるが、筆跡に感情が滲んでいた。書いた人間が震えている。記録者も恐怖を感じていたのだ。

巻物の一節を読んだ。

『ヴォルフは跪き、命令を受けた。躊躇はなかった。いや——躊躇を見せなかった。彼の目は空虚だった。感情を全て剥離した後の、空の器。彼は大陸に向けて掌を開き、「剥離」と告げた。地面が震え、海が割れ、空が裂けた。三日三晩、光が西方を覆い尽くした。光が消えた後、アルヴェン大陸はなかった。ヴォルフもいなかった。残されたのは、海と、紋章の残滓だけだった』

三日三晩。大陸を消すのに三日かかった。ヴォルフは三日間、力を出し続けた。止められなかったのか。止めようとしなかったのか。

「止めようとした記録はありますか」

ハインツが別の巻物を開いた。

『遠征に同行した魔術師の証言。「ヴォルフは一日目の夜、泣いていた。だが手は止めなかった。二日目、声が出なくなった。三日目の朝、ヴォルフの体が光り始めた。紋章が本体から浮き上がり、ヴォルフの体を包んだ。彼は最後に微笑んだ。解放されたような顔だった」』

解放。壊れることが解放。

俺は——理解できてしまう。

社畜が限界を超えた瞬間、恐怖の代わりに安堵が来る。「もう頑張らなくていい」という解放感。駅のホームで膝が折れた瞬間、俺が最後に感じたのは恐怖ではなかった。安堵だった。体が崩れ落ちるあの一瞬、蛍光灯の白い光が視界を埋め尽くすあの瞬間——「ああ、これで終わる」と思った。恐ろしいほど穏やかだった。

ヴォルフも同じだったのか。光に溶けていく三日目の朝。体が消えていく瞬間に、微笑んだ。もう従わなくていい。もう壊さなくていい。もう——誰かの道具でなくていい。

「ハインツさん。ヴォルフは——命令を拒否する選択肢がなかったんですか」

声が低くなった。自分でも気づいた。この質問は、ヴォルフのことだけを聞いているのではない。俺自身のことを聞いている。

「制度上はなかった。宮廷魔術師は皇帝の所有物だ。スキルは国家のものとされていた。拒否は反逆罪。処刑される」

所有物。前の世界で「人材は会社の資産」と言った経営者がいた。資産。所有物。人間を物として扱うための、体のいい言い換え。ヴォルフは二十四年間、帝国の「資産」として運用された。減価償却の対象。使い終わったら廃棄。

処刑か服従か。二択。だが服従しても結局消えた。どちらを選んでも、ヴォルフは失われた。選択肢が二つあるように見えて、実質ゼロだった。社畜が「辞めるか続けるか」で悩むのと同じだ。辞めても生活が壊れる。続けても体が壊れる。どちらを選んでも壊れる。

「紋章の行方」

ハインツが別の巻物を広げた。こちらは保存状態が悪い。端が欠けていて、インクが滲んでいる。だが読める部分だけでも十分だった。

「ヴォルフの消滅後、紋章は光となって散った。記録ではそう書かれている。だが実際には——散ったのではなく、分裂して飛んだのだろう。次の器を探して」

分裂。俺とミラ。そして、もしかしたら他にも。世界のどこかに、紋章の欠片を持つ人間がいるかもしれない。帝国はそれを全部集めようとしている。コレクターの発想だ。危険な発想だ。

「帝国はこの歴史を知った上で、俺を確保しようとしている」

「知っている。というより——帝国が最も恐れているのは、万象剥離が帝国の外にいることだ。帝国の管理下にない最強のスキルは、最大の脅威だ。だから確保か排除——」

「前にも聞きました。今は第三の選択肢もある。交渉」

ハインツが俺を見た。

「交渉で北が引くと思うか」

「引かない。だが時間は稼げる。時間があれば、大迷宮の封印を開いてヴォルフの残留意思に会える。制御の秘密を知れば——北に対しても、自分に対しても、もっと強い立場で臨める」

ハインツが巻物を元の箱に戻した。金属の蓋が閉まる音が、地下に反響した。

「お前は——本当にマルタの教え子だな」

ハインツの声に苦笑が混じっていた。巻物を元に戻す手つきが丁寧だ。三百年前の記録を扱う指先に、敬意がある。

「どういう意味ですか」

「マルタの息子も、同じことを言ったんだよ。『情報がなければ判断できない。判断できなければ、動けない』と」

マルタの息子。冒険者だった男。戻ってこなかった男。

「ハインツさんは、マルタさんの息子と——」

「弟子だった。あの人に冒険者としての基礎を教わった。剣も、段取りも、報連相も。——全部あの人から学んだ。強い人だった。だが——」

ハインツが言葉を切った。目が一瞬、鋭さを失い、ただの中年男の悲しみが浮かんだ。地下室のランタンの炎が揺れて、ハインツの影が壁で大きく震えた。

「だが、情報を集めすぎた。全てを知ろうとして、知ってはいけないものにまで手を伸ばした。大迷宮の深層で——帰ってこなかった」

帰ってこなかった。三文字の言葉に、二十年分の喪失が詰まっている。ハインツの声が掠れた。喉を締めている。泣くのを堪えているのではない。もう泣き尽くした後の、乾いた痛みだ。

大迷宮で。マルタの息子は大迷宮で命を落とした。

だからマルタは、俺に大迷宮の話をするとき、目が曇ったのか。息子を失った場所に、もう一人の「息子」を送り出そうとしている。

「俺は帰ってきます」

声に出した。自分に言い聞かせるためでもあった。声に出すと、言葉が空気中に固定される。取り消せなくなる。それでいい。退路を断つのではなく、進む方向を確定させる。

ハインツが微かに笑った。

「そう言ってくれ。マルタに手紙を書かなきゃならんのでな。『あの子は大丈夫だ』と」

禁書庫を出た。階段を上る。一段ごとに空気が変わる。地下の冷たく乾いた空気から、地上の湿った冬の空気に切り替わる。最後の段を踏んだとき、窓から差し込む灰色の光が目に沁みた。三百年前の闇から、現在に戻ってきた感覚。

地上に戻ると、冬の空気が肺を刺した。鼻の奥が痛い。空は灰色。雪が降りそうだ。ギルドの廊下を行き交う冒険者たちの声が遠く聞こえる。日常の音。だが俺の頭の中は、三百年前の記録で満杯だ。

使節団の滞在はあと五日。その間に大迷宮の封印された扉を開く。ヴォルフに会う。制御の秘密を手に入れる。

タスクリストが自動的に頭の中に浮かんだ。工程表。マイルストーン。クリティカルパス。

社畜の脳がフル回転している。スプレッドシートが頭の中に展開されていく。行と列。タスクと期限。担当と進捗。六年間、他人のプロジェクトのために回し続けた脳が——初めて、自分のために回っている。

地上に出たとき、冬の空気が肺を焼くように冷たかった。だがその冷たさが、頭を冴えさせる。目の前が鮮明だ。やるべきことが見えている。

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