第22話
第22話
紋章が暴れたのは、使節団が来て三日目の夜だった。
宿の部屋で報告書を書いていた。今日の依頼——郊外の魔獣偵察——の結果をまとめている途中だ。インク壺の匂いが鼻に漂う。鉄と酸の匂い。ペンの穂先が紙を引っかく音だけが部屋に響いている。偵察ルート、魔獣の出現数、行動パターン、危険度評価。いつもの報告書フォーマット。社畜の指が覚えた書式だ。
右手が急に熱くなった。ペンが落ちた。インクが紙に黒い染みを作る。掌の紋章が白く光り始める。光が脈打つリズムが、いつもと違う。速い。不規則。何かに引っ張られている。心臓の鼓動に同期していない。外部からの信号。受信している。
窓の外を見た。
王都の夜。松明の明かりが通りを照らしている。その光の先——北東の方角——に、何かが在る。感じる。紋章が共振している。同じ周波数の何かが、この街のどこかで脈動している。
使節団の宿舎は、北東の高級街区にある。
——使節団の中に、紋章持ちがいる。
掌の光を抑えた。深呼吸。制御。範囲を絞る。深度をゼロにする。光が消えた。だが熱は残っている。指先がじんじんと痺れる。血管を通って、何かの信号が体中に流れている感覚。
離れた場所から何かが呼んでいる。あるいは——探っている。ソナーのように。俺の紋章に信号を送って、反射を検知して位置を特定する。レーダーだ。俺の位置を特定しようとしている。
ベッドに座ったまま、壁に背を預けた。冷たい石壁が背中に張りつく。紋章の熱と壁の冷たさが、体の表と裏で拮抗している。
翌朝、ギルドの廊下を歩いていたとき、声をかけられた。
「あなたが『剥離屋』ですか」
振り返ると、少女が立っていた。銀色の髪。透き通るような白い肌。目は淡い紫。年齢は十五か十六。だが目の奥に宿る光は、年齢に見合わない深さがある。
使節団の衣装を身につけていた。青い軍服の略装。だが体格に合っていない。少し大きい。肩のラインが下がっている。袖が指の第一関節まで覆っている。借り物か、急いであつらえたか。
靴も大きいのだろう。歩くたびにかすかに踵が浮く音がしていた。この少女は——帝国が用意した箱に、収まりきっていない。
「エルドヴァイン帝国使節団のミラ・エストと申します」
丁寧な口調。だが声に感情が薄い。軍人的な話し方。訓練された礼儀。
掌が疼いた。昨夜と同じ共振。この少女だ。紋章が反応しているのは、この少女に対して。
「レンです。何か用ですか」
「少しだけ、お話がしたくて」
ギルドの裏手に出た。小さな中庭。冬枯れの低木が骨のような枝を伸ばしている。空が灰色。雪が降りそうだ。風が冷たく、頬を切る。ミラの銀髪が風に揺れた。
「あなたの紋章に、反応しています」
ミラが右手の手袋を外した。掌に——紋章があった。
だが俺のものとは形が違う。俺の紋章が放射状の幾何学模様なら、ミラのは断片的だ。模様の一部だけ。欠けたジグソーパズルのピース。全体の四分の一程度の線しかない。
「これは——」
「万象剥離の欠片です。紋章が分裂して、一部が私に宿りました」
分裂。紋章が分裂する。
俺の紋章が完全な円なら、ミラのは三日月だ。同じ天体の一部。引き裂かれた力の破片が、三百年かけて別々の人間に辿り着いた。
ヴォルフが消えた後、紋章は次の器を探した。だがすべてが一人に宿ったわけではなく、一部が別の人間に宿った。ソフトウェアのフォーク。同じソースコードから派生した二つのバージョン。本体と分岐版。
「あなたが次の『器』ですか」
ミラの声が静かだ。質問というより、確認。答えを知った上で聞いている。
「器、という言葉は」
「帝国の文献に出てきます。万象剥離の紋章は、完全な保有者——『器』——と、欠片の保有者に分かれる。欠片の力は限定的です。私にできるのは、物の表面をわずかに軟化させる程度。大陸を消すような力はありません」
大陸を消す。その言葉を、この少女は淡々と口にした。知っている。ヴォルフの歴史を知った上で、ここに来ている。
「帝国は、あなたを器として確保したいと考えています。カール副官がお話ししたはずです」
「された。断るつもりだ」
「そう」
ミラの目が微かに動いた。感情の欠片。安堵か、失望か、判別がつかない。
「私は命令で動いています」
その言葉の響きに、既視感が突き刺さった。「命令で動いている」。前の世界の俺が毎日言っていたのと同じだ。「指示だから」「上が決めたから」「そういう方針だから」。自分の意志を放棄するための免罪符。
「知っている。使節団の一員だろう」
「はい。でも——」
ミラが視線を落とした。中庭の枯れた草を見ている。風が草を揺らした。茶色く枯れた葉が一枚、風に飛ばされてミラの足元に落ちた。
「あなたには、選んでほしい」
「選ぶ?」
「帝国に来るかどうかを、自分で選んでほしい。命令ではなく。私は——命令で動くことしかできない人間です。でも、あなたは違う」
ミラの目が俺を見た。淡い紫の虹彩に、微かな光が宿っている。この少女は——何かを願っている。自分にはできないことを、俺にやってほしいと。
「なぜそう思う」
「あなたの紋章が、私のものと違うからです。私の紋章は欠片で、受動的。ただ反応するだけ。でもあなたの紋章は——能動的です。自分から光る。自分から動く。紋章の性質は、保有者の性質を反映するそうです」
能動的。自分から動く。自分から光る。
ミラの言葉が胸に刺さった。紋章の性質が保有者を反映するなら、俺の紋章は俺の変化を映している。村にいた頃は暴走しかしなかった紋章が、今は意志に応じて光る。俺が変わったから、紋章も変わった。
それは——社畜とは正反対の性質だ。俺は六年間、命令を待つだけの人間だった。受動的の極みだった。だがこの世界に来て——少しずつ、変わり始めている。マルタに「自分で決めろ」と言われて。ハインツに「選べ」と言われて。そしてヴォルフの末路を見て。
「ミラ。帝国に戻ったら、俺が断ったことを報告するのか」
「はい」
「それで、帝国はどう動く」
ミラが沈黙した。風が強くなった。彼女の銀髪が激しく揺れる。
「……軍が動きます」
軍。外交で取れなければ、武力で取る。
「でも——」
ミラが一歩近づいた。声が小さくなる。
「まだ時間はあります。使節団の滞在はあと七日。その間に——何か、方法があるかもしれない」
方法。何の方法か。北を退ける方法か。それとも——。
ミラが手袋をはめ直した。紋章が布の下に隠れる。
「また来てもいいですか」
声に、初めて「願い」が混じっていた。命令口調でも報告口調でもない。ただの——十五歳の少女の声。
「……構わない」
ミラが去った。小さな背中が、ギルドの建物の角を曲がって消えた。青い軍服が冬の灰色に溶けていく。大きすぎる靴の音がかすかに聞こえて、やがて消えた。
一人残された中庭で、掌を見た。紋章が温かい。共振が収まっている。だが余韻が残っている。ミラの紋章と俺の紋章が、互いを認識した。繋がった。
欠片と器。同じ力の、分離した部分。引き裂かれた一つの意志が、三百年の時を超えて再び出会った。
掌の熱が穏やかだった。ミラがいたとき、紋章は暴れなかった。共振は暴走ではない。認識だ。互いの存在を確認する行為。敵意ではなく——親和。
大迷宮の壁画を思い出す。ヴォルフの紋章が宙に浮いて飛んでいく絵。あの紋章は——完全な形では一人に宿らなかった。分裂して、俺とミラに。もしかしたら他にもいるかもしれない。
そして帝国は、その全てを集めようとしている。M&Aだ。分散した資産を一箇所に集約する。前の世界の企業買収と本質は同じ。対象が会社ではなく人間の体に宿った力だというだけで。
掌の紋章が脈打った。迷宮の奥にある封印された扉のことを思い出させるように。あの扉の向こうに、ヴォルフが待っている。三百年間、次の器が来るのを。
答えは、あそこにある。ヴォルフの残留意思。制御の秘密。
中庭に一人立っていると、冬の風が首筋を切った。冷たい。鼻の奥が痛む。だが頭は冴えている。
ミラの紋章を見た瞬間から、頭の中で何かが動き始めた。パズルのピースが揃いつつある。ヴォルフ。紋章。分裂。器と欠片。帝国の思惑。北の軍事力。——全部が一つのプロジェクトとして繋がり始めている。
そろそろ行く時だ。段取りを組んで、準備を始めよう。