第16話
第16話
依頼を三件こなして、午後が空いた。
王都に来て一ヶ月。初めての「何もない午後」だった。Fランクの下水道からDランクの採掘まで、毎日依頼を受けて報告書を書いて、宿に戻って寝る。その繰り返しだった。社畜時代と何が違うのかと聞かれたら、上司がいないことと、満員電車がないことくらいだ。
だが今日は依頼が切れた。次の指名依頼は明後日。空白の時間。何をすればいい。
この戸惑いが、社畜の後遺症だ。与えられたタスクがないと動けない。自分で何をするか決められない。自由時間は恐怖に近い。
——散歩でもするか。
宿を出て、大通りとは反対方向に歩いた。ギルド周辺は冒険者向けの店ばかりだが、少し離れると普通の市場が広がっていた。石畳の広場に屋台が並んでいる。野菜、果物、肉、魚、布、陶器。生活の匂いがする場所だ。冒険者の世界とは違う、一般の人々の日常。
市場の中を歩いた。辺境の村とも、ギルドの酒場とも違う空気。子供が走り回っている。犬が屋台の下で寝ている。魚屋の親父が大声で値段を叫んでいる。肉屋の女将が客と笑いながら話している。
匂いが濃い。焼きたてのパンの甘い香り。魚の生臭さ。香辛料の刺激。干した果物の酸味。全部が混ざり合って、生きている街の匂いになっている。村では嗅いだことのない密度だ。
果物の屋台で足が止まった。見たことのない果物が山積みになっている。拳ほどの大きさで、皮が青紫色。表面に細かい産毛のような毛が生えている。光を受けると紫が深くなり、影の部分は藍色に沈む。マルタの村にはなかった。村にあったのは橙色の実と紫の葉野菜だけで、果物自体が贅沢品だった。王都の市場では山積みにされて、当たり前のように売られている。この豊かさが都市の力だ。
「旦那、初めてかい。フェイルっていうんだ。甘いよ。一つ試していきなよ」
屋台のおばさんが一つ手渡してくれた。路銀の小銅貨を渡して、その場で齧った。
甘い。驚くほど甘い。だが後味に微かな酸味があって、甘さがくどくならない。果汁が顎を伝った。手の甲で拭う。
旨い。純粋に旨い。仕事とも力とも関係なく、ただ「旨いものを食べた」という事実が体を満たしていく。こんな感覚は——いつ以来だろう。前の世界では、食事はエネルギー補給だった。コンビニの弁当を五分で食べて、画面に戻る。味を覚えていない。
フェイルの甘さを、俺は覚えている。
市場の端に小さな酒場があった。昼間から開いている。冒険者向けではなく、市場の商人や職人が休憩に使う場所らしい。木のカウンターに腰掛けて、麦酒を一杯頼んだ。冷たい。泡が唇に残る。苦味と穀物の香りが鼻に抜ける。
隣の席に太った中年の女将がいた。この酒場の主人だ。カウンターを拭きながら、俺を見た。
「見かけない顔だね。冒険者かい」
「ええ。まだ新入りですが」
「そう。うちには冒険者はあんまり来ないけどね。たまにはいいさ。何か食べるかい」
「おすすめは」
「根菜のシチュー。今朝煮込んだやつ。体が温まるよ」
シチューが出てきた。陶器の深皿に、とろりとした琥珀色の液体。根菜がゴロゴロ入っている。湯気が立ち上り、バターと鶏出汁の匂いが鼻をくすぐった。
一口。
旨い。マルタのスープとは全く違う味だが、同じ「手間がかかった味」がする。人間が時間をかけて作った食事の温度。これが社畜時代に一番欠けていたものだ。コンビニ弁当にはない温度。
「旨い」
声に出た。女将が笑った。
「そりゃよかった。冒険者は飯をかきこんで終わりだろ。ゆっくり味わっておくれ」
ゆっくり味わう。その行為自体が、俺にとっては訓練に等しい。効率を捨てて、目の前の体験に集中する。社畜の脳は「次のタスク」を探そうとするが、今日は空欄だ。次のタスクはない。だから、シチューを味わう。
麦酒をもう一杯追加した。女将と話をした。王都の季節の話。冬が近いこと。市場の商人が今年は不作で値段が上がっていること。隣町で祭りがあること。何でもない話。仕事にも力にも関係ない、ただの会話。
前の世界で、こんな会話をしたことがあっただろうか。会社では業務連絡。帰宅すれば一人暮らしの部屋で画面を見る。同僚との飲み会は愚痴の応酬。「何でもない話」をする相手が——いなかった気がする。同僚の名前は覚えているが、趣味を知らない。上司の顔は思い出せるが、家族構成を知らない。六年間、同じフロアで働いて、誰のことも知らなかった。知ろうとしなかった。知る余裕がなかった。
女将が追加で出してくれた干し果物をつまみながら、窓の外を見た。通りを行く人々が、それぞれの速度で歩いている。急いでいる人。立ち止まって話す人。子供を抱えた母親。杖をついた老人。みんな違う速度で、違う方向に歩いている。前の世界の改札前とは全く違う景色だった。あそこでは全員が同じ速度で、同じ方向に流れていた。
酒場を出たのは夕方だった。市場は片付けに入っている。屋台が畳まれ、残り物を犬が漁っている。夕日が石畳をオレンジ色に染めている。長い影が通りに伸びて、帰宅する人々のシルエットが影絵のように揺れている。
足元に落ちていた木の実を踏んだ。パキッと乾いた音。潰れた実から酸っぱい匂いが立ち上る。果物屋の売れ残りだろう。もったいないが、これが市場の日常だ。売れなかった分は捨てられる。前の世界では、コンビニの弁当が深夜に廃棄されるのを何度も見た。食べられるのに捨てられるもの。使えるのに使い潰されるもの。——社畜も同じだ。
石畳に腰を下ろして、しばらく夕焼けを見ていた。冷たい石の感触が尻に伝わる。だがそれすら心地よかった。「座って空を見る」という行為に、こんなにも豊かさがあるとは思わなかった。前の世界では空を見上げる暇がなかった。見上げても、ビルの隙間から見える空は細長くて、夕焼けは届かなかった。
いい午後だった。
何も成し遂げていない。依頼を受けていない。報告書も書いていない。KPIはゼロだ。前の世界の俺なら「無駄な時間」と断じただろう。だが今は——。
これが、生活だ。
仕事だけが人生じゃない。そんな当たり前のことに、二十八年生きて初めて気づくとは。いや、気づいてはいたのかもしれない。ただ、体が許さなかった。社畜の体は、休むことを知らない。休むと不安になる。不安になると働く。働くと疲れる。疲れると判断力が落ちる。判断力が落ちると、「休む」という選択肢が消える。無限ループ。
今日、そのループを一瞬だけ止められた。
宿に戻る途中、ふと立ち止まった。
背後に、視線を感じた。
振り返る。夕暮れの通りに人影が多い。帰宅する市民、酒場に向かう商人、屋台を片付ける老人。その中に——一つだけ、動かない影があった。
路地の入口に立つ男。外套のフードを深く被っている。顔が見えない。だが視線だけが、こちらに向いている。
掌の紋章が、微かに疼いた。
二秒。三秒。男が路地の奥に消えた。足音もなく。影が闇に溶けるように。
尾行。
ハインツの忠告が蘇る。「単独行動は控えろ」。今日、俺は一人で市場を歩き回っていた。隙だらけだ。
宿に急いだ。部屋に入って窓を閉める。鍵をかける。心臓が早い。
あの男は何者だ。北の大国の情報員か。それとも別の何かか。
掌の紋章が、まだ疼いている。あの男に反応していたのか。それとも——あの男が持つ何かに、反応していたのか。
同系統の力。
掌が知っている。俺の脳が理解する前に、掌が先に反応した。
あの男は——何かを持っている。俺と同じ種類の、何かを。
窓の外で、夕闇が王都を包んでいく。松明の光が点々と灯り始める。通りの向こうで酒場の扉が開き、笑い声と酒の匂いが漏れてくる。平和な夕暮れ。市場で味わったシチューの余韻がまだ舌に残っている。温かい記憶だ。
だが俺の掌だけが、平和ではない温度を保ち続けていた。
ベッドに横になった。天井を見る。木目の模様が、暗がりの中でぼんやりと浮かんでいる。今日は良い一日だった。初めて「仕事以外の時間」を過ごした。フェイルの甘さ。シチューの温かさ。女将の笑顔。それらは全部、「成果」とは無関係の、ただの体験だ。
だがそれが大事なのだと、今は思える。
問題は、あの路地の男だ。北の情報員か。別の何かか。明日、ハインツに報告する。それが今の優先事項だ。
段取りは組んだ。報連相も忘れない。社畜は社畜なりに、この世界を生きている。
だが今日一日で学んだことがある。
段取りの外側にも、世界はある。フェイルの甘さ。シチューの温かさ。夕焼けの色。あの女将の「ゆっくり味わっておくれ」という言葉。
仕事と成果とKPIの外側に、ただ「在る」ことの価値がある。
その発見を、社畜時代の俺に教えてやりたい。——いや、教えても聞かなかっただろう。「そんな暇があったら一件でも片付けろ」と言い返しただろう。
聞けるようになった今の俺が、少しだけ羨ましい。