第15話
第15話
ハインツが俺を資料室に連れていったのは、Dランク昇格から十日後のことだった。
ギルドの三階。通常の冒険者は立ち入れない管理区画。重い扉を開けると、埃と古い紙の匂いが鼻を突いた。革装丁の書物が壁一面の棚に詰め込まれている。羊皮紙の巻物。金属の筒に収められた地図。何百年分の記録が、この部屋に凝縮されている。窓から差し込む薄い光の中で、埃の粒子が静かに舞っていた。
「お前にはそろそろ知る権利がある」
ハインツが棚の奥から一冊の書物を引き出した。革表紙は変色し、背表紙の文字は半分かすれている。だが残った文字を読むと——「特異スキル記録・第三巻」。
「三百年前の記録だ。ギルドの創設期に書かれたもので、原本はこの一冊しか残っていない」
ハインツがテーブルの上に本を開いた。黄ばんだ頁に、手書きの文字がびっしりと記されている。古い書体で読みにくいが、ハインツが該当箇所を指差してくれた。
「ここだ。読め」
指先の先にある一節を読んだ。
『特異スキル「万象剥離(ヴェルトブレッヒャー)」の保有者、ヴォルフ・ヴァン・エルドヴァイン。エルドヴァイン帝国宮廷魔術師団第一席。帝国暦二百三年から二百二十七年まで在籍。二百二十七年の大災厄において、西方大陸アルヴェンの消失に関与したとされる。スキルの制御不能事例として最大規模。ヴォルフ本人も消失。紋章の行方は不明。なお、本記録は断片的な証言と残存物の分析に基づくものであり、事実関係の完全な検証は不可能である点に留意されたい』
字面を追うだけで、体温が下がっていくのを感じた。背筋に冷たいものが走る。指先が微かに震えている。テーブルの木の温度が、やけに冷たく感じられた。資料室の空気が重い。埃の匂いが濃くなった気がする。いや、変わっていない。俺の感覚が過敏になっているだけだ。
万象剥離。俺と同じスキル名。
ヴォルフ。三百年前の保有者。エルドヴァイン帝国——北の大国。宮廷魔術師団。
西方大陸の消失。大迷宮の壁画で見た、欠けた大陸。
全部が繋がった。パズルのピースが一気にはまる音がした。いや、音はしていない。だが脳の中で、何かがカチリと噛み合った感覚があった。心地よさはない。むしろ胃が鉛を飲み込んだような重さだ。
「……大陸を、消した?」
声が掠れた。自分の声とは思えないほど、か細い音だった。
「記録の上ではそうなっている。ただし——」
ハインツが本を閉じた。慎重な動作。この本を扱い慣れている手つきだ。
「三百年前の記録だ。証言は断片的。物証もほとんど残っていない。当時の政治状況を考えれば、記録が改竄されている可能性もある。事実を鵜呑みにするな」
「でも、壁画は見ました。大迷宮の第五層。消えた大陸と、俺の紋章と同じ模様」
「知っている。あの壁画は迷宮の建設当時——大災厄の百年後に作られたものだ。記録を後世に残すために」
ハインツが椅子に座った。机を挟んで向き合う。鷹の目が、いつもより柔らかかった。情報を与えるときの、教育者の表情。
「レン。いいか。お前のスキルは『万象剥離』だ。三百年前の保有者ヴォルフと同じ名前、同じ紋章。だがお前とヴォルフは別の人間だ。スキルが同じでも、使う人間が違えば結果は変わる」
「……本当に?」
「本当だ。少なくとも、俺はそう考えている」
ハインツの言葉には確信があった。だが俺の中の不安は消えない。同じスキル。同じ紋章。同じ力。ヴォルフが制御を失って大陸を消した。俺が制御を失ったら——。
あの夜を思い出す。辺境の村で魔獣を退けたとき。力が溢れて、地面も柵も壊した。あれは小規模だった。だがもし、あの暴走がもっと大規模に起きたら。
「ヴォルフは、なぜ制御を失ったんですか」
核心の質問。ハインツの目が一瞬だけ細くなった。この質問を待っていた、という顔。
「記録に理由は書かれていない。ただ、状況は残っている。ヴォルフは宮廷魔術師団の第一席——帝国で最も権威ある魔術師の位にいた。皇帝の命令で、戦争に投入された。記録によれば、西方大陸への遠征中に『剥離を命じられた』とある」
命じられた。
「自分の意志じゃなかった?」
「記録からはそう読める。ヴォルフは命令に従う人間だったらしい。優秀だが、自分で決断を下すタイプではなかった。命じられれば何でもやった。その結果——」
「制御の限界を超えた」
「そうだ」
沈黙が落ちた。資料室の埃が光の中でゆっくり回転している。本の匂いが鼻の奥に染みる。古い紙と革と、時間そのものの匂い。
窓から差し込む光が、開かれた本の頁を斜めに切っている。黄ばんだ羊皮紙に三百年前のインクが残っている。書いた人間はもういない。読んだ人間もほとんどいない。だが文字だけが残る。記録の持つ残酷さだ。事実を刻むが、感情は残さない。ヴォルフが泣いたのか、笑ったのか、記録からは読み取れない。
命令に従う人間。自分で決断を下さないタイプ。優秀だが、言われたことをやるだけ。
——それは、俺だ。
社畜・佐伯蓮。六年間、指示通りに働いた。残業を命じられれば残業した。休日出勤を命じられれば出勤した。「明日までに」と言われれば徹夜した。自分の意志で「やめます」と言ったことは一度もない。
ヴォルフと俺は、スキルだけじゃなく——性格まで似ているのか。
「ハインツさん。ヴォルフは——壊れたんですか」
「壊れたかどうかはわからない。消えたんだ。大陸と一緒に。力と本人が、そのまま消失した」
消えた。壊れるのではなく、消えた。力と共に。
三百年前のヴォルフは、自分の力に飲まれて消えた。大陸を道連れにして。何万人——何十万人の人間と共に。その重さが、言葉にならない圧力となって胸にのしかかった。
前の世界で、俺は壊れかけた。駅のホームで膝が折れた。消えかけた。蛍光灯の白い光が視界を覆い、床のタイルの冷たさだけが最後の感覚だった。だがあの時は、俺一人の問題だった。倒れても、周りの人間は無事だ。ダイヤが乱れる程度の影響しかない。翌日には「人身事故」のテロップが流れて、乗客が舌打ちする。それだけだ。
ここで同じことが起きたら——俺だけの問題では済まない。
「怖いか」
ハインツの声が低い。
「怖いです」
正直に答えた。見栄を張る余裕がない。
「いい。怖くて当然だ。だが怖がるだけなら、力を使わなければいい。問題は——お前がそれを選べるかどうかだ」
選べるかどうか。
「ヴォルフは選べなかった。命令に従うしかなかった。お前は——選べ。自分で考えて、自分で決めて、自分で使え。それが制御の本質だ。技術じゃない。意志だ」
マルタと同じことを言っている。「自分で決めて、使いな」。
二人が同じことを言うのは偶然じゃない。二人とも、ヴォルフの末路を知っている。命令に従うだけの人間が、制御を失った結末を知っている。だから俺に——「選べ」と。
「記録は全て正しいとは限らない、とさっき言いましたね」
「言った」
「何が嘘で何が本当かは、自分で確かめるしかない」
ハインツが微かに笑った。初めて見る、温かい笑みだった。
「マルタが送り出した人間は、やはり筋がいい」
資料室を出た。廊下を歩きながら、掌を見た。紋章の線が薄く見えている。三百年前、この同じ力が大陸を消した。
だが俺は消さない。壊さない。
消さないと——決める。
その決意がどれほど脆いかも、わかっている。前の世界では「辞めよう」と何度も決めて、翌朝には出勤していた。決意は、朝になると溶ける。
だから毎日決め直す。毎朝、この掌を見て、「今日は壊さない」と決める。
それくらいしか、今の俺にはできない。
ギルドの一階に下りると、掲示板の前で冒険者たちが酒を飲んでいた。笑い声。肉を焼く匂い。平和な昼下がり。彼らは知らない。三百年前にこの大陸の西半分が消えた歴史を。そしてその同じ力を持つ人間が、今この場所に立っていることを。
知らない方がいい。知ってしまったら、この笑い声は消える。
宿の部屋に戻り、ベッドに座って天井を見た。木目が蛍光灯の代わりに視界を占めている。白い光の下でキーボードを叩いていた前の世界と、薬草の匂いの中で紋章を見つめるこの世界。
どちらの世界でも、俺は「力」に振り回されている。前は会社という組織の力。今は掌に宿る物理的な力。
違いは一つだけ。ここでは、選べる。
選べることが、一番怖い。
天井の木目を見つめた。節の模様が顔に見える。疲れた顔。諦めた顔。三百年前のヴォルフの顔も、こんな表情だったのだろうか。
毛布を引き上げた。体が冷えていた。恐怖は体温を奪う。社畜時代、大失敗をした翌日の朝も同じだった。布団の中で震えている。出社が怖い。だが出社する。それしか知らないから。
ここでは——出社しない、という選択肢がある。
その自由が重い。