第1話
第1話
──終電、間に合わなかったな。
それが最後の思考だった気がする。駅のホームで膝が折れて、蛍光灯の白い光が視界を塗りつぶして、あとは何も。
目を開けたら、空が緑だった。
正確には、木々の隙間から差し込む光が緑のフィルターをかけていた。背中に冷たい土の感触。鼻の奥に湿った草と腐葉土の匂いが突き刺さる。
「……は?」
声が出た。それだけで安心する自分がいた。
起き上がろうとして、全身が軋む。筋肉痛というより、骨の芯が疲弊しきっている感覚。知っている。デスマーチ三日目の朝と同じだ。
いや──デスマーチって何だ。
頭の中に霧がかかっている。自分の名前、年齢、住所、何ひとつ出てこない。なのに「デスマーチ」という単語だけがやけにリアルな疲労感を伴って浮かぶのが、ひどく気持ち悪い。
とにかく立ち上がった。周囲は見渡す限りの森。舗装道路もなければ電柱もない。スマホも財布もない。ポケットに手を突っ込もうとして気づく。着ているのはスーツじゃない。麻のような粗末な布を縫い合わせただけの上下。
どこだ、ここは。
足元の草を踏みしめて歩き出す。方角なんてわからない。ただ、下り坂を選んだ。水は低きに流れる。集落があるなら川沿い。そう判断した根拠は不明だが、体が勝手に動いた。
三十分ほど歩いて、煙が見えた。
木造の家屋が十数軒。畑と柵に囲まれた、小さな集落。中世ヨーロッパの村をそのまま持ってきたような光景——いや、違う。微妙に違和感がある。家屋の屋根に刻まれた見慣れない紋様。畑の作物も、知っている野菜とは色が違う。紫がかった葉が風に揺れ、見たことのない橙色の実が低い枝にぶら下がっている。空気の匂いも変わった。土と煙に混じって、甘く鋭い香辛料のような芳香が鼻をくすぐる。
村の入口で、鍬を持った男と目が合った。
男が何か叫んだ。言葉が、わからない。日本語でも英語でもない。抑揚と響きだけが耳に流れ込んで、意味が一切つかめない。
俺は両手を上げた。敵意はない、と示すつもりで。
男がさらに叫ぶ。声が裏返っている。恐怖なのか怒りなのか、言葉が通じなくても声の震えでわかる。村の奥から数人が駆けてきた。槍を持った若い男。腰の曲がった老人。太った中年女性。全員が俺を遠巻きに見て、早口で何かを言い合っている。
理解できたのは、彼らの表情だけだった。
──警戒。迷惑。厄介ごとが来た、という顔。
会議室で浮いた新人を見る目と同じだ。この感覚だけは、記憶がなくても読める。
結局、俺は村の外れにある家畜小屋に放り込まれた。藁の山と、三頭の山羊。それが俺のルームメイト。屋根はあるが壁に隙間が多く、夜風が容赦なく入り込む。山羊の獣臭と発酵した藁の酸っぱい匂いが小屋の中に澱んでいて、最初の一呼吸で咳き込んだ。
食事は出なかった。
まあ、そうだろうな。見知らぬ余所者に飯を出す余裕がある村には見えない。
腹は減っている。だが不思議と絶望はなかった。
もっとひどい状況を知っている気がする。記憶はないのに、体がそう言っている。寝る場所がある。屋根がある。殴られてもいない。これは——恵まれている方だ。
なぜそう思うのかはわからない。ただ、体の奥にこびりついた何かが「まだ大丈夫」と告げていた。
翌朝、目が覚めたとき、体が勝手に動いた。
意識が追いつく前に、藁を集めて隅に寄せていた。散らばった山羊の糞を素手で拾い、小屋の外に出す。水桶の水を替え、餌箱の残りをチェックし、山羊の体を撫でて健康状態を確認する。
気づいたら、小屋が見違えるほど綺麗になっていた。
「……なんで俺、こんなこと慣れてるんだ」
記憶がないのに、手順は完璧だった。効率のいい動線、優先順位の付け方、「まず現状把握、次に環境整備」という段取り。誰かに叩き込まれたとしか思えない。
朝日が昇りきる頃、山羊に餌をやりに来た少年が小屋の前で固まった。
「——?」
少年が目を丸くして中を覗き込む。何か言っている。言葉はわからないが、驚いている。そりゃそうだ。昨日までゴミ溜めだった小屋が、一晩でまともな畜舎になっているんだから。
少年が走って村の方へ戻っていった。
しばらくして、数人の大人がやってきた。腕を組んで小屋を見回し、眉をひそめている。怪訝な顔。気味が悪い、という表情が混じっている。先頭に立った中年の男が小屋の隅々まで視線を走らせ、整然と並んだ藁と、磨かれた水桶を交互に見比べた。何かを呟いて、隣の男が首を横に振る。信じられない、というような仕草だった。
何か話しかけられた。わからない。とにかく頭を下げた。
その後、大人たちが指差す方向に行き、指示された作業をこなした。畑の石拾い。水汲み。薪割り。言葉は通じなくても、ジェスチャーで意味はわかる。
石拾いは大きい順に端から処理。水汲みは二往復分をまとめて運べるルートを歩く。薪割りは節の方向を見て刃を入れる角度を変える。
全部、体が覚えていた。
村人たちの視線が変わっていくのを感じた。朝は「気味が悪い余所者」だったのが、夕方には「妙に使える行き倒れ」に格上げされた。格上げといっても家畜小屋暮らしは変わらないが、夕方には干し肉と硬いパンが差し入れられた。
噛み締めると、涙が出そうになった。
美味いからじゃない。干し肉は塩辛くて顎が痛くなるほど硬かったし、パンは石のように乾いていて喉に引っかかった。それでも、口の中に味が広がった瞬間、胸の奥が締めつけられた。
「仕事をすれば飯が出る」。そのシンプルな因果が、なぜかたまらなく懐かしかったのだ。
夜、藁の上に横になる。山羊の体温が隣からじんわり伝わってくる。星が壁の隙間から見える。知らない星座。知らない空。
それでも体は平気だった。見知らぬ場所で、言葉も通じず、名前も思い出せない。普通なら発狂していてもおかしくない。
なのに——この「何も考えずに指示をこなす」状態が、ひどく慣れている。
胸の奥に、鈍い空虚がある。記憶がないから不安なのか、記憶があった頃から空虚だったのか。それすらわからない。
ただ一つだけ確かなことがある。
この体に染みついた「従順さ」は、才能じゃない。
壊れるほど繰り返した結果だ。
三日が経った。
俺の存在は村に馴染みつつあった。正確には、「便利な労働力」として定着した。朝は家畜小屋の清掃から始まり、昼は畑仕事、夕方は薪割りと水汲み。言葉はまだ断片的にしか聞き取れないが、作業指示は問題ない。
村人たちは俺を「あの行き倒れ」と呼んでいるらしい。名前を聞かれても答えようがない。自分で自分が誰だかわからないのだから。
ただ、時々おかしなことが起きる。
畑で鍬を握ったとき、まったく違うものを握っている感覚が重なった。もっと軽くて、もっと滑らかな——何か。指先が覚えている感触。四角い板のような、薄くて硬い何かの上を、指が高速で叩いている。目の前の土が、一瞬だけ白く光る平面に見えた。
頭痛とともに消える。
水を汲みに行く途中、並んで歩く村人の列を見て、「ボトルネックはこの合流地点だ。時差出勤させれば効率三割上がる」と思った。何の意味かはわからない。けれど確信だけがあった。
体が覚えている。頭が忘れた何かを、体だけがずっと覚えている。
四日目の夜だった。
藁の上で眠りに落ちかけた瞬間、胸の奥がひときわ強く疼いた。焼けるような痛み。思わず胸を押さえると、瞼の裏に映像が走った。
白い光。蛍光灯。
ぎゅう詰めの空間。満員電車。吊り革を握る無数の手。誰の顔も見えない。見る必要がなかった。全員が同じ方向を向いて、同じように疲れている。
怒声。
「佐伯、明日までに——」
声の主の顔は見えない。だが声の圧だけが腹の底に響いた。反射的に体が縮こまる。「はい」と答えようとして、唇だけが動いた。音は出ない。出す前に映像が砕けた。
──佐伯。
目を開けた。心臓が跳ねている。右手が震えている。額に冷たい汗が浮いていた。
名前じゃない。まだ名前は思い出せない。でも、何かの破片が胸の奥で引っかかった。鍵穴に合わない鍵を無理やり差し込んだような、噛み合わない既視感。
俺は「何か」だった。この世界に来る前、別の場所で、壊れかけるまで「何か」をしていた。
山羊がそっと首を寄せてくる。その温もりに紛れて、胸の奥の空虚が少しだけ形を変えた。
虚しさじゃない。
もっと——切実な何かだ。