第2話
第2話
五日目の朝、いつものように山羊の世話を終えて小屋の前に出ると、見慣れない人影が立っていた。
腰の曲がった老婆。深い皺の刻まれた顔に、妙に鋭い目。片手に木の椀、もう片方に布袋を提げている。村で何度か見かけた気はするが、話しかけられたのは初めてだった。
老婆が椀を差し出す。中身は温かいスープだった。湯気が朝の冷気に白く溶ける。根菜と何かの葉を煮込んだ素朴なもの。干し肉や硬いパンとは明らかに違う、誰かの「手間」が入った食事。鼻先に届く匂いだけで、胃が勝手に鳴った。ここに来てから五日、まともな温かい食事は一度もなかった。干し肉を水で戻して齧るか、硬いパンを唾液でふやかして飲み込むか。そんな日々の中で、この湯気は反則だった。
受け取ろうとした俺の手を、老婆が軽く叩いた。骨ばった指なのに、思いのほか力が強い。
そして椀を指差し、ゆっくりと口を開く。
「スーパ」
スープ、か。響きが近い。
俺が椀を見つめていると、老婆は次に自分の胸に手を当てた。
「マルタ」
名前。それはわかる。俺は自分の胸を指そうとして、止まった。名前がない。昨夜フラッシュバックした「佐伯」が何なのか、まだ確信が持てない。
黙った俺を見て、マルタは気にした様子もなく椀をもう一度突き出した。受け取って一口含む。素朴だが、体に沁みる温かさ。塩気が絶妙で、胃の底からじんわり力が湧く。根菜は柔らかく煮崩れていて、噛まなくても舌で潰せた。葉の青い苦みが後味にほんの少しだけ残る。この味を、俺はたぶん忘れない。飢えた体が初めてまともなものを受け取った瞬間の味だ。
「……ダンク」
礼を言おうとして、出てきたのは聞き覚えのある音だった。村人が何かを受け取るとき、そう言っていた気がする。合っているかはわからない。
マルタの目が少し丸くなった。それから、皺だらけの顔にかすかな笑みが浮かんだ。
「ダンケ、だよ」
発音を直された。俺はもう一度繰り返す。
「ダンケ」
マルタが頷いた。
その日からマルタは毎朝、小屋に来るようになった。
温かいスープか粥を持ってきて、俺が食べている間に単語を教える。椀はスーパ。水はヴァッサ。パンはブロート。手はハント。空はヒンメル。
教え方が上手い。
実物を指差して、発音して、俺に繰り返させる。間違えたら首を振って、もう一度。正しければ頷いて、次へ。余計な説明はしない。というより、長い説明をしても俺に通じないことを最初から理解している。
三日で名詞を五十ほど覚えた。五日目には動詞が混じり始めた。「取れ」「持て」「来い」「待て」——命令形ばかりなのは、俺が作業で使う言葉を優先しているからだ。マルタの合理性は徹底していた。
一週間が過ぎる頃には、短い文が組み立てられるようになっていた。
「水、持ってきた」 「薬草、これ?」 「山羊、元気」
文法はめちゃくちゃだろう。主語も時制もあったものじゃない。だがマルタは意味が通じれば細かいことは言わなかった。通じることが先、正しさは後。その優先順位が、俺の吸収速度を加速させていた。
マルタは俺の習得速度に驚いていたが、俺自身はもっと驚いていた。
言葉を聞くと、頭の中で勝手に分類が始まる。この単語は名詞、これは動詞の活用形、この語順は主語の省略パターン——文法のルールが、数回聞いただけで浮き彫りになる。まるで大量のデータからパターンを抽出する作業のような。
その「作業」が何なのか、まだ思い出せないが。
「お前さん、耳がいいね」
マルタが薬草を束ねる手を止めて言った。十日目あたりから、マルタの言葉は七割ほど理解できるようになっていた。
「覚えるのが速いだけです」
「速すぎるんだよ。村の子供でも、ここまで早く喋れるようにはならない」
マルタの小屋は村の東端にあった。壁一面に乾燥した薬草が吊るされ、棚には瓶や壺がぎっしり並んでいる。この村の薬師。怪我人や病人が出れば、みんなここに来る。小屋の中はいつも乾いた草と、かすかに甘い樹脂の匂いが混じり合っていた。窓から差し込む光の中で、吊るされた薬草の束が微かに揺れている。居心地がいい、と思った。山羊小屋の獣臭に慣れきった鼻には、この匂いが妙に落ち着く。
「マルタさんは、なぜ俺に構うんですか」
率直に聞いた。村の他の連中は、俺を便利な労働力としか見ていない。食事を運んでくれるのも、働かせるための燃料補給だ。それは理解している。
マルタは薬草の束を紐で縛りながら、あっさり答えた。
「暇だからさ」
嘘だ。この人は暇じゃない。朝から晩まで薬の調合をしているし、村人の往診もしている。だが追及はしなかった。理由は何であれ、この老婆が俺にとって唯一の「人間扱いしてくれる存在」であることに変わりない。
「それと——」
マルタが手を止めた。鋭い目が俺を射抜く。
「お前さんの目が気になるんだよ。言葉もわからず放り込まれて、普通なら泣くか暴れるか、どっちかだろう。なのにお前さんは翌朝から小屋を掃除して、黙って働いた。それは強さじゃない」
椀に残った粥をかき混ぜるマルタの指が止まる。
「慣れだよ。理不尽に慣れきった人間の動き方だ。あたしは長く生きてるからね、そういう目をした奴を何人も見てきた」
返す言葉がなかった。図星だったからじゃない。自分で自分を説明できないことを、他人に言い当てられた居心地の悪さだ。胸の奥で何かが軋む。記憶がないくせに、体だけが覚えている。理不尽を飲み込んで、次の作業に移る。その手順が骨の髄まで染みついている。それを見抜かれた。たった十日の付き合いで。
「……かもしれません」
「まあいい。食べな。午後は薬草の仕分けを手伝ってもらうよ」
マルタはそれ以上踏み込まなかった。その距離感が、ありがたかった。
夜。
小屋の藁の上で横になる。山羊の寝息を聞きながら、今日覚えた単語を頭の中で復唱する。明日使う言い回しを組み立てる。この作業が妙に落ち着く。
──寝落ちしかけた瞬間、来た。
胸の奥が焼ける。前にもあった痛み。だが今夜は、前より鮮明だった。
蛍光灯。白い天井。デスクが並ぶ広い部屋。画面の光が何十と並んでいて、どれも同じ色をしている。指が叩いているのは——キーボード。黒い薄い板の上を、指が止まらずに走っている。
画面の右下に時刻が見える。午前二時。
隣の席は空。その隣も空。フロアに残っているのは、俺だけだ。空調の低い唸りだけが、広すぎるフロアに響いている。コーヒーの紙カップが三つ、デスクの端に積まれている。どれも空だ。最後に飲んだのがいつだったか、もう覚えていない。
画面に文字が並んでいる。数字と記号の羅列。意味は——わかるはずなのに、霧がかかって読めない。ただ、「明日の朝までに」という声だけが何度も反響する。
場面が切り替わる。
改札。人の波。全員が同じ方向に流れている。灰色と黒のスーツ。誰も目を合わせない。足音だけが無数に重なって、ひとつの低い地鳴りになっている。
俺はその流れの中にいる。流されているんじゃない。自分の足で歩いている。でも行き先を選んだ覚えはない。毎日同じ方向に、同じ速度で、同じ顔をして——
「佐伯、今月の数字まだ?」
声。今度は別の声だ。女性。苛立ちを抑えた、事務的な声。
「佐伯くん、この資料の体裁——」
別の声。
「佐伯——」
佐伯。佐伯。佐伯。
俺の名前だ。
目が覚めた。体中に汗をかいている。心臓が喉まで上がってきている。藁が背中に貼りついて、獣の匂いと自分の汗の匂いが混じっている。右手を見た。震えは——今夜はない。代わりに、右の掌の中心がじんわりと熱い。まるで何かが、皮膚の下で脈打っているような。
佐伯。
蓮。
——佐伯、蓮。
名前が繋がった。完全ではない。名前だけだ。それ以外の記憶はまだ霧の中にある。だが輪郭が見え始めている。俺は会社で働いていた。毎日遅くまで。大量の数字を処理して、誰かに急かされて、満員電車に揺られて——。
掌の熱が引いていく。後に残ったのは、鈍い疲労感と、微かな違和感。
この掌の中に、何かがある。
まだ目覚めていない何かが。
……考えても仕方ない。今わかるのは名前だけだ。明日マルタに伝えよう。「俺の名前はレン」と。
山羊が寝返りを打った。その温もりを背中に感じながら、目を閉じる。
眠りに落ちる直前、最後に浮かんだのは蛍光灯の白ではなく、マルタの小屋に吊るされた薬草の緑だった。
あの匂いの方が、ずっと呼吸しやすい。