第3話
第3話
遺跡からの帰路、誰も口を開かなかった。
馬車の車輪が石畳を叩く単調な音だけが、五人の間を埋めている。車体が揺れるたびに、天井から吊り下げた魔石灯がかちかちと鳴った。ガルドは大盾に背を預けて目を閉じ、ユーリは窓の外を見たまま動かない。フィーネだけが時折レンの方に視線を向けたが、何かを言いかけては口を閉じることを繰り返していた。
セレナは御者台の隣に座っていた。パーティから最も離れた位置。銀髪が風に揺れるたび、その横顔がちらりと見える。表情は凍りついたように動かない。
レンは荷台の隅で装備の点検をしていた。いつもと同じ作業だ。ポーション瓶の残数を数え、破損した魔石灯を分別し、使い切った松明の燃えかすを片付ける。手を動かしていれば、考えずに済む。
王都の城門が見えたとき、セレナが初めて声を発した。
「ギルドに報告がある。全員、このまま本部へ」
ガルドが片目を開けた。
「報告? 依頼は途中撤退だろう。報告書は明日でも——」
「今日中に出す。内容は私がまとめるから、あなたたちは署名だけしなさい」
有無を言わさない声だった。ガルドが肩をすくめ、ユーリが眉を上げたが、誰も異を唱えなかった。リーダーの指示は絶対だ。三年間、それが「聖剣の盟約」のルールだった。
レンの背筋に、かすかな冷気が走った。
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王都ギルド本部。二階の査問室。
長い樫のテーブルを挟んで、ギルド査問官のハーゲンが座っている。白髪交じりの顎髭を蓄えた壮年の男だ。元Aランク冒険者で、引退後に査問官に転じたと聞いている。その隣には書記官が羽根ペンを構え、羊皮紙に記録を取る準備をしていた。
テーブルのこちら側にはセレナが座り、その後ろにガルド、ユーリ、フィーネが立っている。レンは部屋の端、壁際に立たされていた。窓のない部屋だった。壁に掛けられた魔石灯だけが白い光を落とし、五人の影を床に縫い付けている。
「——では、セレナ・ヴァルシュタイン。報告の内容を聞こう」
ハーゲンの声は低く、感情を排した事務的な響きだった。
セレナが口を開いた。
「封印遺跡ガルヴァリス第十二層において、パーティメンバーのレンが禁術を行使しました」
空気が変わった。ハーゲンの目が細くなる。書記官の羽根ペンが一瞬止まり、すぐに走り出した。
「禁術。具体的には」
「詠唱なしの広域浄化術です。第十二層の呪詛トラップが起動し、パーティ全員が致死性の呪詛毒に侵された際、レンが——」
セレナの声がわずかに揺れた。あの瞬間を思い出しているのだろう。部屋を満たした白い光。呪詛を灰に変えた、あり得ない規模の魔力。
「——詠唱なしで、部屋全体の呪詛術式を浄化しました。鑑定石の判定はCランクですが、あの魔力量と術式制御はCランクの範疇ではありません。出所不明の力による禁術行使として、報告します」
ハーゲンの視線がレンに向いた。
「レン。反論はあるか」
レンは壁に背を預けたまま、静かに答えた。
「仲間が死にかけていた。手段があったから使った。それだけだ」
「Cランク鑑定の回復術師が、広域浄化を無詠唱で発動した。この矛盾について説明できるか」
「できない」
嘘ではなかった。自分でも、あの力の正体を完全には理解していない。深い井戸のような場所にある魔力。鑑定石が測れない領域に蓄えられた、名前のない力。それを説明する言葉をレンは持っていなかった。
「説明できない力を、査問の場で使用を認めたわけだ」
ハーゲンが書記官に目配せした。羽根ペンが淡々と走る。
「セレナ・ヴァルシュタイン。他のメンバーの証言は」
「全員が目撃しています。ガルド、ユーリ、フィーネ——三人とも署名済みの報告書を提出します」
セレナがテーブルに羊皮紙を置いた。四人分の署名が並んでいる。報告書の作成は馬車の中で終わっていたのだろう。レンが装備の点検をしている間に。
ハーゲンが報告書に目を通す。沈黙が長かった。
「……レン。お前を庇う証言は一つもない。四人全員が『禁術行使を目撃した』と述べている」
レンは何も言わなかった。庇う証言を期待したことは、一度もない。
フィーネが唇を噛んでいるのが視界の端に映った。何かを言いたそうな目。だがセレナの背中がそれを遮るように立ちはだかっている。フィーネは結局、目を伏せた。その小さな拳が、ローブの裾を握りしめていた。
ハーゲンが立ち上がった。
「ギルド規約第三十七条。出所不明の魔術行使が確認され、本人による合理的説明がない場合、ギルドは当該冒険者の活動資格を一時停止できる。——レン、ギルドカードを出せ」
レンは胸ポケットからカードを取り出した。三年間、肌身離さず持っていた薄い金属板。表面にはCランクの刻印と、「聖剣の盟約・補助要員」の文字が浮かんでいる。
ハーゲンの手に渡る瞬間、金属の冷たさが指先から消えた。
「活動資格の一時停止に伴い、王都での滞在許可も失効する。四十八時間以内に王都から退去せよ。再審査の申請は、地方ギルド支部を通じて行え」
四十八時間。二日。三年間過ごした街を出る猶予が、たった二日。
「異議がある場合は——」
「ない」
レンは即答した。ハーゲンが一瞬、意外そうな顔をした。
「……ないのか」
「ない。呪詛を浄化したのは事実だ。説明できないのも事実だ。規約に従う」
セレナの肩がわずかに揺れた。怒りを予想していたのかもしれない。抗議を、弁明を、あるいは泣き落としを。レンがどれも選ばなかったことが、セレナの計算を狂わせたようだった。
だが、それは一瞬のことだった。セレナは銀髪を払い、椅子から立ち上がる。
「査問官、報告は以上です。『聖剣の盟約』として、ギルドの判断に従います」
その声には、もう揺れはなかった。
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ギルド本部の廊下。
レンが出口へ向かう途中、背後から足音が追いかけてきた。重い足音。ガルドだ。
「おい、レン」
振り返らなかった。足は止めた。
ガルドが横に並ぶ。腕を組み、見下ろすようにレンを見た。いつもの尊大な笑みが口元に張り付いている。だが目が笑っていなかった。呪詛トラップで死にかけた恐怖が、まだどこかに残っているのだろう。それを認めたくないから、より一層大きく見せようとしている。
「あの浄化のことだがな。お前、最初から力を隠してたんだろう。三年間、俺たちを騙してたわけだ」
レンは答えなかった。
「まあいい。ギルドの判断が出た以上、お前はもう『聖剣の盟約』とは無関係だ。——ああ、それと」
ガルドが一歩近づいた。声を低くする。
「三年も飼ってやった恩を忘れるなよ」
飼ってやった。
その言葉が、廊下の石壁に反響した。通りかかった冒険者が足を止め、すぐに目を逸らして歩き去る。
レンは三年分の記憶を、一秒で振り返った。
毎晩の装備修繕。誰にも気づかれない回復魔法。骨が折れかけた腕を治し、毒に侵された血を浄化し、疲弊した体に力を戻し続けた——三年間。それを「飼ってやった」と呼ぶのか。
怒りは湧かなかった。三年前なら拳を握っていただろう。一年前なら苦笑していただろう。今は——何もない。水面に石を投げ込んでも、底が深すぎて波紋が届かない。そういう場所に、レンの感情はあった。
レンは無言で背を向けた。
一歩。二歩。三歩。革靴が石畳を叩く音だけが、規則正しく廊下に響く。振り返らなかった。声をかけ直す足音もなかった。
ギルド本部の正面扉を押し開けると、夕暮れの王都が広がっていた。茜色の空の下、家路を急ぐ人々の影が石畳に長く伸びている。パン屋の看板が軋み、どこかの酒場から笑い声が漏れていた。焼きたてのパンの甘い匂いが風に乗って鼻をかすめ、それが妙に遠い世界のもののように感じられた。
三年間歩いたこの街を、あと四十八時間で出なければならない。
レンは空を見上げた。最初の星が一つ、東の空に光っている。
行く宛てはない。金もほとんどない。ギルドカードがなければ宿にも泊まれない。だが——不思議と、胸は軽かった。
背中に食い込んでいた革紐は、もうない。パーティの荷物は査問室に置いてきた。大盾の金具も、弓弦も、魔法剣の刃こぼれも——もう、自分が直すものではない。
「聖剣の盟約」は明日からどうなるのか。レンの回復がなくなったあのパーティが、これから何と戦い、何に躓くのか。
それはもう——レンの知るところではなかった。