第2話
第2話
封印遺跡ガルヴァリスの入口は、王都から馬車で半日の距離にあった。
崩れかけた石門の奥に、地下へと続く階段が黒い口を開けている。朝靄がその周囲にまとわりつき、まるで遺跡そのものが呼吸しているようだった。馬車を降りたセレナが銀髪を結い上げ、腰の細剣に手を添える。
「上層は既にギルドの調査隊が踏破済み。私たちの目標は第十二層の封印区画よ」
ガルドが大盾を背負い直し、首を鳴らした。
「調査隊が引き返した階層か。面白いじゃないか」
ユーリが魔法剣の鞘を確かめ、フィーネが弓弦の張りを指先で弾いた。澄んだ音が朝の空気を震わせる。昨夜レンが交換した弦だが、彼女がそれに気づくことはない。
レンは黙って大荷物を背負い直した。ポーション三十六本、松明十二本、魔石灯の替え、携帯食糧五日分。総重量は通常の冒険者が背負う量の倍を超えている。革紐が鎖骨を圧迫する痛みは、もう意識の外に追いやる術を覚えていた。
上層は順調だった。第三層までは調査隊の残した目印があり、罠も解除済み。第五層で小型の魔物の群れに遭遇したが、ガルドの盾とユーリの一閃で片がついた。第七層の分岐路ではセレナの判断で右を選び、第九層で一度休息を取った。
レンはその間も、パーティの状態を観察し続けていた。ガルドの呼吸が第六層あたりからわずかに荒い。大盾を構える左腕に昨日の疲労が残っているのだろう。フィーネの足運びにも微かな乱れがある。長時間の行軍で膝に負担がかかっている。レンは気づかれないよう、二人が水を飲むタイミングに合わせて回復魔法を混ぜた。水の冷たさと同時に体に染み込む回復の波動を、二人は「冷たい水で生き返った」と解釈した。
いつものことだ。
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第十一層を過ぎたあたりから、空気が変わった。
石壁に刻まれた文字が赤黒い光を帯び始め、松明の炎が不自然に揺れる。魔石灯の光量も落ちていた。壁面を覆う苔が、まるで血管のように脈動している。
レンの肌が粟立った。空気に混じる魔力の質が、明らかに上層とは違う。呪詛系の残留魔力だ。古い文献で読んだ記述と一致する。封印トラップの濃度が跳ね上がっている。
「セレナ、少し待ってくれ」
レンが声を上げた。セレナが振り返る。
「何?」
「この先の魔力濃度が異常だ。壁面の術式紋様が活性化している。一度、偵察を——」
「ポーション係が魔力濃度?」
セレナの声に嘲りが混じった。ユーリが肩をすくめ、ガルドが鼻で笑う。
「Cランクの鑑定で何がわかるんだ。俺たちはAランクだぞ」
「いいから黙って荷物を持ってなさい。深層の空気が怖いなら、ここで待ってても構わないわよ」
セレナが前を向き、歩き出す。三人が続いた。レンは一瞬目を閉じ、それから黙って後に従った。
第十二層への階段を降りた瞬間だった。
足元の石板が赤く発光した。
連鎖するように、床一面の術式紋様が起動する。天井から壁、床まで、部屋全体が血のように赤い光に包まれた。紋様から立ち昇る黒い霧が、肺を刺すように冷たい。
「——っ!」
ガルドが最初に膝をついた。大盾を取り落とし、喉を押さえて咳き込む。口の端から黒い血が垂れた。
「毒……いや、これは——」
ユーリが魔法剣を抜こうとして、柄を握る手が紫色に変色しているのを見た。指先の感覚が消えている。剣が石床に落ちる金属音が、やけに大きく反響した。
「呪詛トラップ!全員、退路を——」
セレナが叫び、振り返った。だが来た方向の通路は、降下した瞬間に石壁が落ちて完全に塞がれていた。分厚い封印石が通路を埋めている。セレナの表情から血の気が引いた。
「嘘でしょ……退路の確認は……」
していなかった。深層への焦りと、Aランクとしての過信。セレナ自身がそれを理解した瞬間、彼女の足も崩れた。
フィーネが壁にもたれかかり、弓を杖代わりにしてかろうじて立っている。唇が紫に染まり、瞳の焦点が合っていない。
「セレナ……体が……動かない……」
致死性の呪詛毒。通常のポーションでは解除できない。高位の浄化術式——最低でもAランク相当の回復術師が必要な領域。
四人が倒れていく。呪詛は血管を侵食し、魔力回路を蝕み、内臓を壊死させる。あと数分で、心臓に到達する。
「ポーション……レン、解毒ポーションを……」
セレナが初めて、レンの名前を呼んだ。手を伸ばし、虚空を掴む。その目には恐怖があった。Aランク冒険者としての矜持も、リーダーとしての威厳も、すべて剥がれ落ちた、純粋な死への恐怖。
レンは荷物を降ろした。
解毒ポーションは効かない。それは最初からわかっていた。呪詛系の状態異常は毒とは根本的に機構が異なる。薬理的な解毒ではなく、術式そのものを浄化しなければならない。
四人の体表に浮かぶ呪詛紋様を、レンの目が読み取る。古代の封印術式。複合型の多重呪詛。浸食速度から逆算して、残り時間は——三分。
三分で四人同時に浄化する方法は、一つしかない。
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レンは目を閉じた。
三年間、隠し続けてきたものがある。
鑑定石がCランクと判定したのは嘘ではない。だが鑑定石が測れるのは、表層に出ている魔力量だけだ。レンの魔力の大半は、もっと深い場所にある。自分でも制御しきれない、底の見えない井戸のような領域。
通常の回復魔法なら、表層の魔力だけで事足りる。仲間の傷を塞ぎ、毒を薄め、疲労を和らげる——その程度なら、誰にも気づかれずにできた。
だが、今必要なのは浄化だ。しかも広域同時浄化。部屋全体に展開された呪詛術式を根元から焼き切る、回復魔法の最上位行使。
詠唱が必要な術ではない。というより、この術に詠唱は存在しない。レンの内側にある、名前もつけられていない力をそのまま解放する行為だ。
——バレる。
三年間かけて築いた「無害な荷物持ち」の仮面が、完全に剥がれる。
セレナの喘ぎが聞こえた。ガルドが痙攣している。フィーネの目が閉じかけている。ユーリの呼吸が浅くなっていく。
レンは目を開けた。
バレるとか、バレないとか。そんなことは——最初からどうでもよかった。
仲間が死にかけている。自分には、それを止める力がある。なら、答えは三年前から変わらない。
レンが両手を広げた。
体の深部から、今まで触れたことのない層の魔力が昇ってくる。血管の一本一本が光を帯びるような感覚。指先が白く発光し、足元の石板に新たな紋様が——呪詛のものではなく、純白の術式が浮かび上がる。
部屋を満たす赤黒い光が、押し返されるように後退した。
空気が変わる。呪詛の冷たさが消え、代わりに春の草原を渡るような、暖かく清浄な気配が広がっていく。
四人の体表に浮かんでいた呪詛紋様が、端から灰になって剥がれ落ちた。ガルドの口元の黒い血が透明な水滴に変わる。ユーリの指先に色が戻る。フィーネの瞳に光が差し、セレナの強張った表情が緩んだ。
レンの白い光が部屋全体を包み込んでいた。天井の術式紋様が、壁面の呪詛刻印が、床の封印陣が——すべてが浄化の光に焼かれ、灰となって崩れていく。
数秒だった。
赤黒い光が完全に消え、遺跡の石室は本来の灰色に戻った。塞がれていた退路の封印石にも亀裂が走り、崩れ落ちる。
レンは両手を下ろした。指先の光が消え、肩で息をする。全身から汗が噴き出している。あの深い井戸の水を汲み上げるのは、想像以上に体に負荷がかかった。
静寂の中で、最初に目を覚ましたのはセレナだった。
体を起こし、自分の手を見る。呪詛の痕跡は一切ない。完全な浄化。視線がレンに向いた。
「……あんた、今の……何をしたの」
レンは答えなかった。荷物を背負い直し、崩れた封印石の向こうに開いた退路を確認する。
「通路が開いた。動けるなら、早く出よう」
「待ちなさい」
セレナの声が硬い。銀色の瞳が、レンを射抜くように見つめていた。そこにあるのは感謝ではなかった。驚愕でもなかった。
——恐怖と、嫉妬だ。
Cランクの荷物持ちが、Aランクの自分たちでさえ対処できなかった呪詛トラップを、詠唱なしで浄化した。あの魔力の波動は、少なくともAランク——いや、それ以上だ。
セレナの唇が薄く開き、何かを言いかけた。だがガルドの咳き込む音に遮られ、言葉は飲み込まれた。
四人がよろめきながら立ち上がる中、レンは黙って先を歩いた。
背中に、セレナの視線が突き刺さっていた。銀色の瞳の奥で、何かが静かに形を変え始めている。
——あの目を、レンは知っている。理解できないものに出会ったとき、人は二つに分かれる。受け入れるか、排除するか。
セレナがどちらを選ぶか。答えは、もうレンには見えていた。