第1話
第1話
酒場の喧騒の中で、レンの名前を呼ぶ者はいなかった。
王都ギルド直轄の酒場『白銀の杯』。冒険者たちが杯を掲げ、今日の戦果を語り合う時間帯だ。炭火で焼かれた猪肉の脂が爆ぜる音と、安い麦酒の甘い匂いが店内に充満している。最奥のテーブルには、Aランクパーティ「聖剣の盟約」の面々が陣取っている。リーダーのセレナが銀髪を揺らしながら乾杯の音頭を取り、タンク役のガルドが太い腕で机を叩いて笑う。魔法剣士のユーリが杯を傾け、弓手のフィーネが微笑む。
四人掛けのテーブルに、五つ目の椅子はない。
レンは壁際に立っていた。背負った大荷物の革紐が肩に食い込んでいる。ポーション瓶が十二本、予備の矢束が三つ、携帯食糧、魔石灯、応急処置具。パーティの消耗品一式がすべてこの背中に乗っている。革紐が擦れた鎖骨のあたりが鈍く熱い。もう皮膚が硬くなっているはずだが、荷重が増えた日はまだ痛む。
「おい、ポーション係。ガルドのグラスが空だぞ」
ユーリが顎で示した。レンは黙って水差しを取り、ガルドの杯に注ぐ。
「今日のBランクダンジョン第七層、俺の一撃で中ボスが沈んだときは気持ちよかったな」
ガルドが胸を張る。セレナが頷いた。
「ガルドの盾がなければ、あの突進は受けきれなかった。フィーネの牽制も完璧だったわ」
功績報告書には四人の名前が並ぶ。レンの名は、三年間で一度も載ったことがない。鑑定石の判定はCランク。肩書きは荷物持ち兼ポーション係。それが、王都最大のAランクパーティにおけるレンの全てだった。
だが——今日の第七層で、ガルドが中ボスの突進を受けた直後。右腕の骨が軋む音をレンは聞いていた。乾いた枝を踏み折るような、小さく鋭い音。戦闘の轟音に紛れて誰の耳にも届かなかったが、レンの耳だけがそれを拾った。あと三秒遅ければ、盾を構える腕が折れていた。レンが背後からかけた回復魔法を、ガルドは「ポーションが効いたか」の一言で片付けた。
いつものことだ。
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宿に戻ったのは深夜だった。
「聖剣の盟約」には個室が四部屋あてがわれている。レンの寝床は共用倉庫の隅だ。荷物置き場と兼用の、窓のない小部屋。寝台の代わりに、古い毛布が床に敷いてある。壁の染みが闇の中で人の顔のように見える。最初の頃は気味が悪かったが、三年も経てば模様の一つ一つを暗記してしまった。
レンはランタンに火を灯し、パーティの装備を並べた。火口石を擦る乾いた音が小部屋に響き、橙色の光が壁を這うように広がる。
ガルドの大盾。左端の金具が緩んでいる。今日の中ボスの突進を受けたときの衝撃だろう。工具箱から小型のレンチを取り出し、金具を締め直す。金属同士が噛み合う感触が指先に伝わった。二回転半。締めすぎれば衝撃の逃げ場がなくなり、盾ごと腕を持っていかれる。緩すぎれば受けた瞬間に外れる。この加減を言葉で教えることはできない。三年間、毎晩触り続けた指だけが知っている。革の握り部分も擦り切れかけていたので、予備の革紐で補修した。
次はフィーネの弓弦。湿気で張りが落ちている。予備弦に交換し、元の弦は丁寧にオイルを塗って保管した。弦を弾くと、澄んだ高い音が鳴った。この張り具合ならフィーネの引き手の癖に合うはずだ。強すぎると彼女の細い指では長時間の連射に耐えられない。
ユーリの魔法剣は刃こぼれが二箇所。砥石で慎重に研ぐ。魔力伝導率が落ちないよう、研ぎ角度は正確に保つ必要がある。刃に沿って砥石を滑らせるたび、微かな金属の悲鳴が上がる。ランタンの光を刃に当て、研ぎ面の均一さを確かめた。わずかな曇りも許されない。魔力の通り道に段差があれば、術式の発動が一拍遅れる。その一拍が生死を分ける場面を、レンは何度も見てきた。
セレナの軽鎧の肩当て。留め具の一つが歪んでいた。万力で矯正し、元の形に戻す。
誰にも頼まれていない。報酬にも含まれていない。それでもレンは三年間、毎晩この作業を続けてきた。
仲間の装備が万全であること。それが戦場での生存率を上げる。レンにとっては、回復魔法と同じくらい当然の仕事だった。
全ての装備を元の場所に戻し終えたとき、ランタンの油は半分まで減っていた。指先に金属の匂いが残っている。レンは冷たい水で手を洗い、毛布にくるまった。
三年間の記憶が、暗闘の中でよぎる。
初めてパーティに加入した日。セレナが「回復役が足りないから、臨時で」と言った。臨時のまま三年が過ぎた。最初の頃はまだ名前で呼ばれていた気がする。いつからか「ポーション係」になり、功績報告書から名前が消え、席が一つ減った。
レンの回復魔法がなければ致命傷だった場面は、数え切れない。第四層でフィーネが背中を斬られたとき。第六層の罠でユーリが毒を受けたとき。ガルドの盾が砕けて胸部に直撃を受けた、あの凍結階層の戦闘。
全て、レンが「たまたま近くにいた」「ポーションが間に合った」で処理された。回復魔法の発動を見た者はいない。気づこうとする者もいなかった。鑑定石でCランクと出た人間に、高度な回復魔法が使えるはずがない。その先入観が、レンの存在を透明にしていた。
怒りはない。最初の一年は悔しさがあった。二年目には諦めに変わり、三年目の今は——何も感じない。自分の役割を果たす。それだけでいい。
ただ、時々思う。
自分がいなくなったら、このパーティはどうなるのだろう、と。
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翌朝、ギルドの掲示板前にパーティが集まった。
朝の光が高い窓から差し込み、羊皮紙の束を白く照らしている。依頼書が所狭しと貼られた掲示板の前には、数組のパーティが品定めをしていた。その中を割るようにセレナが進み出る。
セレナが一枚の羊皮紙を手に取る。赤い封蝋が押された高難度依頼の証だ。
「『封印遺跡ガルヴァリス』深層探索。ギルド本部からの指名依頼よ」
ガルドが口笛を吹いた。
「Aランク指名か。報酬は?」
「金貨八百枚。成功報酬は別途」
フィーネが目を丸くする。ユーリが腕を組んで羊皮紙を覗き込んだ。
「封印遺跡か。トラップが多いと聞くが」
「だからこそ私たちに来たのよ。王都最強のAランクパーティとして」
セレナの声には自信が満ちている。視線がレンに向いた。正確には、レンの背負った大荷物に。
「ポーション係、明日の出発までに消耗品を倍にしておいて。深層だから、予備のポーションは最低三十本。あと松明と魔石灯の替えも」
「了解した」
「あと——」
セレナが一拍置いた。長い銀髪を耳にかけ、冷たい目でレンを見る。
「深層では足手まといが一番危険なの。戦闘になったら下がってて。荷物を守ることだけ考えなさい」
ガルドが笑った。
「ポーションを投げるだけなら猿でもできるからな。なあ、レン?」
三年間で、ガルドが名前を呼んだのは皮肉を言うときだけだ。レンは表情を変えなかった。
「準備は万全にしておく」
それだけ答えて、背を向ける。消耗品の買い出しリストを頭の中で組み立てながら、ギルドの出口へ向かった。
封印遺跡ガルヴァリス。古い文献で読んだことがある。内部には複数の封印トラップが残存しており、通常の解除手段では対処できないものも含まれる。特に深層には、呪詛系の封印が集中しているという記述があった。
呪詛トラップ。
レンの足が一瞬止まった。
呪詛系の状態異常は、通常のポーションでは解除できない。高位の回復魔法——それも浄化系の術式が必要になる。Cランクの荷物持ちには、到底扱えない領域だ。
少なくとも、鑑定石の上では。
レンは歩き出した。午後の陽光が王都の石畳を白く照らしている。行き交う冒険者たちの笑い声が遠くに聞こえた。
明日、あの遺跡で何が起きるか。レンにはわからない。
ただ一つ、確かなことがある。仲間が倒れたとき、自分は今日と同じように手を伸ばすだろう。名前を呼ばれなくても。功績に載らなくても。
それが、三年間変わらない自分の答えだから。
——だが、封印遺跡の深層には、レン自身も知らない「封印」が眠っている。パーティの運命を、そしてレンの全てを変える呪詛が。