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反転属性のEランク退魔師

第2話 第2話

第2話

第2話

通学路の景色が、やけに鮮明に見えた。

 資材管理室での勤務が始まって一週間。地下二階の窓のない空間に慣れた目には、朝の光がいちいち刺さる。駅前のロータリーを抜け、商店街のアーケードをくぐり、住宅街の坂道を上る。高校二年の春、退魔師ギルドの補助要員と学生の二重生活。昼間は普通に授業を受け、放課後は地下に潜って呪符の在庫を数える。その繰り返しだった。

 あの名簿のことは、まだ頭の隅に引っかかっている。

 反転。黒く塗り潰された名前。Eランクの除籍者。考えたところで手がかりはない。ネットで検索しても退魔術の専門用語にそんな言葉は出てこなかったし、ギルドの公開データベースにも該当する記述はなかった。処分待ちの段ボールの中に眠り続けていた、誰かの痕跡。それだけだ。

 今朝も同じ道を歩いている。イヤホンから流れる音楽が、周囲の雑音を適度に遮ってくれる。信号待ちの交差点で立ち止まったとき——空気が変わった。

 正確に言えば、空気の質が変わった。春のぬるい湿気に混じって、冷たいものが一筋、鼻腔の奥を突いた。錆びた鉄と腐葉土を混ぜたような、不快な重さ。退魔師の家系で育った人間なら誰でも知っている匂い。

 穢れだ。

 目を凝らした。交差点の向こう、コンビニの裏手の路地。ゴミ集積所の周辺に、影がわだかまっている。形は不定形。黒い靄のようなものが地面を這い、ときおり痙攣するように脈動していた。低級穢れ——等級でいえば最下層のⅠ種。訓練を受けたDランクでも対処できる程度の相手だ。

 だが、確実にそこにいる。

 通行人たちは気づいていない。霊脈を持たない一般人には穢れは視えない。ただ、路地の前を通りかかった女性が不意に足を速めたのが見えた。本能的に何かを感じ取ったのだろう。動物がそうするように、理由もわからないまま、危険を避ける。

 俺はスマートフォンを取り出し、鎮守府の通報用回線に発信した。補助要員にも緊急通報の義務はある。穢れの出現を確認したら速やかに報告せよ。入隊時に叩き込まれたマニュアル通りの行動だ。

 三コールで繋がった。

「鎮守府管制室です。識別番号をどうぞ」 「補助要員、E-〇四七一。佐倉翔真です。現在地は——」

 住所を告げ、穢れの種別と推定等級を報告した。声は落ち着いていたと思う。少なくとも、自分ではそう感じていた。

 管制室のオペレーターが一瞬黙った。端末を操作する音がスピーカー越しに聞こえる。

「——佐倉翔真。適性等級E、補助要員。合ってますね」 「はい」 「了解しました。現場には最寄りの実戦班を向かわせます。佐倉さんは速やかに現場から離れてください。Eランクの補助要員は現場に出ないでください」 「待ってください、穢れの進行方向にまだ一般人が——」 「対応は実戦班が行います。あなたが現場に留まる理由はありません。以上です」

 通話が切れた。

 耳にツーツーという無機質な音だけが残った。スマートフォンを握る指先に、じわりと力がこもる。言われたことは正しい。Eランクに穢れの対処はできない。霊力がなければ呪符も起動しない。現場にいても足手まといになるだけだ。理屈はわかる。

 わかっていて、足が動かなかった。

 路地の穢れが動き始めていた。黒い靄がゆっくりと膨張し、集積所の柵を越えて歩道側に滲み出してくる。時刻は午前七時四十分。通学と通勤が重なる時間帯で、歩道には人が多い。誰もあの靄に気づいていない。

 そのとき、路地の前をベビーカーを押した若い母親が通りかかった。

 穢れの靄が母親の足元に触れた瞬間、女性が膝から崩れた。

 声もなく倒れ込む母親。ベビーカーが慣性で数メートル進み、縁石にぶつかって止まった。中から赤ん坊の泣き声が上がる。通行人が数人、足を止めた。誰かが駆け寄り、倒れた女性に声をかけている。

 俺は走り出していた。

 理屈じゃない。体が先に動いた。だが、路地に近づくほどに穢れの圧が重くなる。霊力のない俺でも、皮膚がざわつくのがわかった。冷たい手で首筋を撫でられるような感覚。足が鈍る。呼吸が浅くなる。

 ——何ができる。

 呪符は持っていない。補助要員の携行品は身分証と通信端末だけだ。仮に呪符があったところで、霊力のない俺には起動できない。素手で穢れに触れても、人間の物理的な力では干渉すらできない。

 何も、できない。

 倒れた母親のそばに辿り着いた。意識はあるが顔色が蒼白で、瞳孔が開いている。霊気あたり——穢れの放つ瘴気に一般人が触れたときの症状だ。命に別状はないが、数時間の意識混濁が続く。

「大丈夫ですか。救急車を——」

 言いかけた俺の頭上を、風が裂いた。

 白い閃光が路地を貫いた。光の軌跡が穢れの靄を正確に射抜き、黒い靄が断末魔のように痙攣して、塵のように消えた。一瞬だった。低級穢れに対する正規の退魔術。無駄のない、教科書通りの一撃。

 光の出どころに目を向けて、息が止まった。

 神崎蓮が、路地の入り口に立っていた。

 第一戦闘班の制服を着こなし、右手に淡い霊光をまとったまま。朝日を背にした蓮のシルエットは、まるで教材映像から切り取ったように完璧だった。Aランクの退魔師。低級穢れの浄化など、寝起きでもこなせるだろう。

 蓮の視線が俺を捉えた。

 ほんの一瞬——本当に一瞬だけ、何かを言いかけたように見えた。唇がわずかに動いた。だが蓮は何も言わず、視線を切った。

 後続の班員が二人駆けつけ、現場の確認と一般人の保護を始めた。蓮は班員に指示を出し、管制室に処理完了の報告を入れている。その一連の動作の中に、俺の存在はどこにもなかった。通報したのは俺だ。最初に現場にいたのも、倒れた母親に駆け寄ったのも俺だ。だが蓮は俺をまっすぐ透過して、手順通りに業務を遂行していた。

 透明人間。

 そんな言葉が、不意に浮かんだ。

 俺はその場を離れた。遅刻確定の時刻だったが、走る気にはなれなかった。太腿の裏が鈍く痺れていた。穢れの圧に当てられた余韻だろうか。それとも別の何かだろうか。教室に着いたとき、一限の授業はすでに始まっていて、担任に軽く注意されただけで席についた。窓際の席から、春の校庭が見えた。桜が五分咲きだった。平和な風景だ。穢れも、烙印も、透明人間の感覚も、ここには存在しない。

 ——蓮は何を言おうとしたんだろう。

 考えても仕方ないとわかっていて、頭がそれを手放さなかった。

 放課後、地下二階に戻った俺は、いつも通り業務をこなした。在庫表の更新、廃棄呪具の仕分け、補充要請の処理。手が機械的に動く間に、頭は別のことを考えていた。

 今朝の穢れの出現。低級とはいえ住宅街のど真ん中に発生するのは珍しくない。鎮守府の管轄区域内では日常的に起きていることだ。だからこそ通報体制がある。発見者が報告し、最寄りの実戦班が対処する。マニュアル通り。何も特別なことはない。

 ただ、一つだけ確認したいことがあった。

 業務端末を開き、今日の任務記録にアクセスした。補助要員の権限でも、処理済み案件の事後報告書は閲覧できる。今朝の穢れの浄化報告——該当地区、該当時刻、処理担当は第一戦闘班。報告書は簡潔にまとまっていた。

 発見経緯の欄を読んだ。

「定時巡回中に霊圧反応を感知し、第一戦闘班が即時対応」。

 俺は画面を二度読み返した。三度。意味を咀嚼するのに、数秒かかった。

 定時巡回。即時対応。

 俺の通報記録が、どこにもなかった。

 管制室に電話をかけ、識別番号を告げ、穢れの等級と位置を報告した。あの通話は確実に存在した。通信端末の発信履歴にも残っている。午前七時三十八分、鎮守府管制室宛て、通話時間四十二秒。

 だが報告書上では、俺の通報はなかったことになっている。発見者は巡回中の第一戦闘班。佐倉翔真という名前は、一文字たりとも記載されていない。

 操作ミスではない。報告書のフォーマットでは通報があった場合、必ず「通報受理」の項目にタイムスタンプと通報者の識別番号が記録される。今朝の報告書にはその項目自体が空欄——ではなく、ハイフンが入っていた。通報なしを示す記号だ。

 誰かが、意図的に消した。

 蛍光灯が明滅した。切れかけの管がじじ、と細い音を立て、一瞬だけ資材管理室が暗くなる。

 机の下には、あの段ボール箱がまだある。名前を塗り潰されたEランクの除籍者。反転の二文字。そして今日——俺の通報記録が消された報告書。

 二つの事実の間に線を引けるほど、俺は愚かじゃない。偶然かもしれない。事務処理上の些細なミスかもしれない。Eランクの補助要員の通報記録など、誰にとっても重要じゃないから省略されただけかもしれない。

 でも、消すのと省略するのは違う。

 ハイフンは「なかった」ことを意味する記号だ。空欄なら入力忘れで通る。だがハイフンは、誰かが意図を持ってキーボードを叩いた結果だ。

 俺は業務端末を閉じ、鞄を手に取った。定時を過ぎている。地上への階段を上りながら、今朝の蓮の横顔を思い出した。何かを言いかけて、言わなかった蓮。俺を透過した視線。

 蓮は知っているのか。この通報記録の扱いを。知っていて黙っているのか。それとも、蓮もまた——知らされていないのか。

 地上に出ると、夕暮れの風が頬に当たった。西の空が朱色に燃えている。

 ポケットの中のスマートフォンに、発信履歴だけが残っている。午前七時三十八分。四十二秒間。確かにそこにあった、俺の声の記録。報告書からは消されても、これだけは消せない。

 鞄の紐を握り直して、俺は駅へ向かった。頭の中で、あの二文字がまた光る。

 反転。Eランクの除籍者。消された通報。

 点と点が、まだ線にならない。ならないが——増えている。

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