Novelis
← 目次

反転属性のEランク退魔師

第3話 第3話

第3話

第3話

翌朝、俺は出勤前に管制室へ向かった。

 本部ビルの三階、管制室の前には分厚いガラス扉がある。中では数名のオペレーターが端末に向かい、管轄区域内の霊圧モニターを監視していた。俺が扉の前に立つと、入室管理用のセンサーが識別カードを読み取り、小さなビープ音とともにモニターに赤い文字が浮かんだ。「権限外エリア——補助要員の入室には上位者の許可が必要です」。

 仕方なく、扉の横のインターホンを押した。

「すみません、補助要員の佐倉です。昨日の案件について確認したいことがあるんですが」

 数秒の沈黙。ガラス越しに、オペレーターの一人がこちらをちらりと見て、また端末に目を戻した。インターホンから返ってきた声は、昨日電話に出た人間とは別のオペレーターだった。

「案件番号は」 「昨日の午前七時三十八分、第七管区で低級穢れが発生した件です。俺が通報したんですが、事後報告書に通報記録が反映されていなくて——」 「少々お待ちください」

 端末を操作する音が聞こえた。一分ほどの間、廊下に空調の音だけが流れた。

「当該案件の報告書は第一戦闘班の責任者により確認・承認済みです。内容に問題はありません」 「いえ、内容じゃなくて、通報記録の——」 「報告書の修正が必要な場合は、所属班の上席を通じて申請してください。管制室では対応しかねます」

 インターホンが切れた。

 壁に貼られた組織図が目に入った。補助要員の所属は「総務部管理課」。上席は管理課の課長代理——入隊してから一度も顔を合わせたことがない人間だ。名前だけは知っている。配属初日に渡された書類の末尾に署名があった。だが管理課のフロアに行っても、課長代理の席はいつも空だった。別部署との兼任で、実質的に補助要員の面倒を見る人間は存在しない。

 つまり、報告書の修正を申請するルートが——ない。

 制度上はある。だが実際には機能していない。Eランクの補助要員が声を上げるための回路が、この組織には用意されていない。通報記録が消えたことを訴える先がないのだ。存在しない人間の苦情は、存在しない窓口に届く。完璧な対称だった。

 三階の廊下を戻りながら、エレベーターホールで足が止まった。蓮のことが頭をよぎったのだ。管制室がだめなら、現場担当者に直接確認するという手がある。蓮は報告書の作成に関わっているはずだ。通報受理の欄がハイフンになっていることを、蓮が知っているのか知らないのか。それだけでも確かめたかった。

 昼休みに蓮を捕まえたのは、本部ビル一階のカフェテリアだった。第一戦闘班のメンバーと昼食を取っていた蓮の姿を見つけ、席を立つタイミングを見計らった。蓮がトレイを返却口に運んだところで、声をかけた。

「蓮。少しいいか」

 蓮の足がわずかに止まった。こちらを向いた目は穏やかでも冷たくもなく、ただフラットだった。感情を読ませない表情。いつからこんな顔をするようになったのか、俺は知らない。

「手短にしてくれ。午後の巡回がある」 「昨日の穢れの件。俺が管制室に通報したんだけど、事後報告書に通報記録が載ってない。巡回中に第一班が感知したことになってる」

 蓮の表情は変わらなかった。驚きもしないし、動揺もしない。

「報告書は俺が確認して承認した。事実の通りだ」 「事実って——俺は確かに通報した。発信履歴も残ってる」 「翔真」

 蓮がまっすぐ俺を見た。その視線には、昨日の現場で俺を透過したときとは違う、明確な意志があった。

「お前が現場にいたこと自体がイレギュラーなんだ。補助要員は現場対応の権限がない。通報義務はあるが、通学路で穢れに遭遇した場合の行動指針は『退避と通報』だ。通報はした——そこまではいい。だが倒れた一般人に駆け寄って、浄化中の現場に踏み込んだのは完全に逸脱だ」 「だから通報記録を消すのか」 「消したんじゃない。整理したんだ」

 蓮の声には苛立ちがなかった。むしろ、言い聞かせるように穏やかだった。それが一番きつかった。

「通報記録を残せば、お前が現場にいた事実も報告書に載る。Eランクの補助要員が穢れの出現地点にいた。なぜだ、何をしていた、対処しようとしたのか。査問の対象になる可能性がある。今の時期にそれは——お前にとっても良くない」

 蓮は一度言葉を切り、周囲を確認するように視線を動かした。カフェテリアには数人の職員が残っていたが、こちらに注意を払っている者はいない。

「俺はお前を守ったんだ、翔真。わかってくれ」

 守った。

 その言葉を飲み込むのに、二秒かかった。

「……わかった」

 俺はそれだけ言って、背を向けた。感謝すべきなのかもしれない。蓮なりの善意だったのかもしれない。だが胸の奥で何かがきしんでいた。守るために記録を消す。存在したものを、なかったことにする。それは守るという行為なのか。

 わからなかった。わからないまま、地下二階に戻った。

 その日の夜、自室のデスクでノートパソコンを開いた。

 鎮守府の業務端末からダウンロードしたデータがある。補助要員の権限でアクセスできる範囲——過去三ヶ月分の穢れ出現記録。場所、時刻、等級、処理担当。個人情報や機密に触れるデータではなく、管轄区域内の霊圧モニタリングの統計情報だ。在庫管理の参考資料として閲覧できる。消耗品の使用量が穢れの出現頻度と相関するから、という理由で。

 俺がやろうとしているのは単純なことだった。穢れがどこに、いつ、どのくらいの頻度で出ているかを、自分の目で見ること。鎮守府の公式発表では、穢れの出現は「自然現象に起因する霊脈の乱れ」によるものとされている。地震のようなもので、予測は困難だが統計的な傾向はある、と。

 表計算ソフトにデータを流し込み、出現地点の住所をひとつずつ地図上にプロットしていった。単純作業だ。資材管理室で在庫表を作るのと大差ない。ただ、扱うのが呪符の数ではなく穢れの座標だというだけ。

 最初の五十件をプロットし終えたところで、目立った傾向は見えなかった。管轄区域全体にまばらに散らばっている。公式見解の通り、ランダムに見える。

 七十件、九十件とプロットを続けた。百二十件を超えたあたりで、目が止まった。

 日付でフィルタをかけたのだ。直近一ヶ月分だけを表示した。

 点の分布が変わった。

 三ヶ月スパンでは無秩序に見えた出現地点が、直近一ヶ月だけを切り出すと——偏っている。管轄区域の北東部に集中が見える。それ自体は不自然ではないかもしれない。霊脈の活性が地域によって異なることは知られている。

 だが、俺が見ていたのは集中ではなかった。

 直近二週間のデータだけに絞り込んだとき、画面の上で十四個の点がゆっくりと形を結んだ。北東部の集中地帯の中で、七つの出現地点がほぼ等間隔に並んでいた。

 直線だった。

 北北東から南南西に向かって、約四キロの直線上に七つの穢れが発生している。出現日はばらばらだが、すべて直近二週間以内。等級は低級から中級。処理は異なる班が担当している。個別に見れば何の変哲もない日常的な案件だ。だが地図上に並べると——こうなる。

 自然現象は直線状に並ばない。

 地震の震源は断層に沿って分布するが、穢れの出現が地質構造に従うという学説は聞いたことがない。霊脈は地脈に準ずるとされるが、東京の地下に南北四キロの直線的な霊脈構造が存在するというデータは、少なくとも公開文献にはない。

 俺はマウスを握ったまま、画面を見つめた。七つの点を結ぶ線が、地図の上にまっすぐ伸びている。偶然かもしれない。データの読み取り方を間違えているのかもしれない。統計を少しかじった程度の補助要員が、三ヶ月分のデータを並べただけで何かが見えると思うほうがおかしいのかもしれない。

 だが、消された通報記録のことが頭に浮かんだ。整理された、と蓮は言った。

 もし穢れの出現パターンにも——整理されたものがあるとしたら。

 画面の光が暗い部屋を青白く照らしている。時計は午前一時を回っていた。明日も授業がある。明日も放課後に地下二階に潜る。在庫表を更新し、呪符を数え、誰とも喋らない時間を過ごす。

 でも今、俺の手元には誰にも見せていないデータがある。

 ノートパソコンを閉じる前に、地図のスクリーンショットを保存した。七つの点が直線に並んだ画像。ファイル名を「出現記録_個人メモ」とつけ、暗号化ドライブに保存する。退魔師の家系で育った人間として、最低限のセキュリティ意識はある。

 ベッドに倒れ込んで天井を見上げた。反転。消された通報。そして——直線に並ぶ穢れ。

 点が三つになった。まだ線にはならない。

 だが、三つの点は二つの点より——ずっと、偶然では片づけにくい。

この話はいかがでしたか?

最新話です

次の更新をお楽しみに!