第2話
第2話
朝の光が、寝台の天蓋を透かして白く滲んでいた。
目を開けた瞬間、昨夜の記憶が鮮明に蘇る。大広間のシャンデリア。殿下の冷たい声。リーナの計算された微笑み。そして——前世の記憶。すべてが夢であってほしいと、ほんの一瞬だけ思った。けれど、枕に残った涙の痕が現実を突きつけてくる。指先で触れた絹の枕は冷たく湿っていて、塩の匂いがかすかに残っていた。廊下では泣かなかった。部屋に戻ってからも、侍女たちの前では毅然としていた。ただ灯りを落とした寝台の中で、声を殺して泣いた。それだけは許してほしい。八年間の婚約が、あんな形で終わったのだ。
『——泣くのは昨夜で終わり』
身を起こし、寝間着の袖で目元を拭う。鏡台に映る自分の顔は、泣き腫らした痕こそあれ、思ったよりもしっかりとした目をしていた。前世の私と、この世界のセレスティーヌ。ふたつの意識はもう混乱なく溶け合っている。まるで長い眠りから覚めたように、頭の中が澄み渡っていた。
侍女を下がらせ、鍵を掛けた。鍵穴が噛み合う硬い音が、静かな部屋に妙に大きく響いた。書斎机の引き出しから上質な羊皮紙を取り出し、インク壺の蓋を開ける。ペン先に黒インクを含ませ、まず日付を記した。
『さあ、棚卸しを始めましょう』
『聖薔薇の誓い』——前世でプレイしたあの乙女ゲームの記憶を、感傷ではなく情報として扱う。攻略サイトを読み込んだ記憶、周回プレイで見つけたフラグ条件、考察掲示板で交わされていた議論。すべてを時系列に沿って書き出していく。
ペン先が羊皮紙の上を走る。インクの乾く間も惜しんで、次の紙を引き寄せた。
【断罪イベント——済】婚約破棄。社交界での孤立。これは昨夜、すでに発生した。
【冤罪の仕込み——進行中】公爵家の帳簿に架空取引を紛れ込ませる工作。ゲームでは断罪イベントの前から始まっていた。つまり——今この瞬間にも、どこかで誰かが父の名を使って偽の帳簿を作っている。
【公爵家弾劾——約半年後】王宮監査が入り、捏造された証拠を根拠に父が弾劾される。爵位剥奪、領地没収。領民は路頭に迷う。
【追放エンド——弾劾直後】セレスティーヌは国外追放。以後、物語に登場しない。
ペンを置き、書き連ねた紙を並べて俯瞰する。窓から差し込む朝日が羊皮紙の文字を照らし、インクがまだ湿って光っている。
『……こうして見ると、はっきりわかる』
昨夜の断罪は、それ自体が目的ではない。布石だ。社交界でセレスティーヌを孤立させ、公爵家を庇う者をなくし、弾劾を通しやすくするための地ならし。エドワード殿下が自らの意思であの場を仕組んだのか、それとも誰かに焚きつけられたのかはわからない。けれど結果として、あの断罪は冤罪工作の完璧な前段になっている。
『つまり、本当の敵は殿下ではない』
殿下はおそらく駒に過ぎない。リーナの純真さを信じ、正義感に駆られて婚約を破棄した——少なくとも殿下自身はそう思っているだろう。問題は、その背後で公爵家の破滅を設計している者がいるということだ。ゲームでは最後まで黒幕の正体は明かされなかった。プレイヤーの間でも諸説あり、結論は出なかった。宰相派か、王妃派か、あるいは——。
考えても今は答えが出ない。わかっているのは、仕掛けの構造だけだ。
三枚目の羊皮紙に、対策の骨子を書き始めた。
『感情的な復讐は論外。殿下に縋るのも論外。今の私に必要なのは、情報と時間と、安全な足場』
ペンが止まる。安全な足場。その言葉が、ひとつの答えを指し示していた。
王都は敵の庭だ。社交界で孤立した今、ここに留まれば攻撃の口実を与え続けるだけ。「落ちぶれた公爵令嬢が未練がましく王都にしがみついている」——そんな噂が立てば、父の立場はさらに悪くなる。
では、どこへ。
答えは明白だった。ヴェルテンベルク領。公爵家が代々治めてきた、北方の領地。ゲームの中では背景の一枚絵でしかなかった場所。テキストの端に「近年は衰退が著しい」と記されていた、あの土地。
『領地に帰る』
その決意が胸に落ちた瞬間、不思議な軽さがあった。まるでずっと探していた答えが最初から手の中にあったような、そんな感覚。
私はペンを取り直し、紙の余白に三つの方針を書き記した。
一つ。王都を離れ、領地に戻る。敵の射程から外れ、自分の足場を固めるために。
二つ。領地の立て直し。公爵家が健全に機能していることを実績で証明する。数字は嘘をつかない。帳簿を捏造する者がいるならば、それを上回る透明な帳簿を作ればいい。
三つ。冤罪の証拠を探し、保全する。今すぐ告発するのではなく、しかるべき時に、しかるべき形で提示できるよう備える。
『復讐ではなく、防衛。感情ではなく、戦略。悪役令嬢らしく泣き叫んで退場する筋書きは——書き換える』
羊皮紙を丁寧に折り畳み、机の奥深くにしまった。誰の目にも触れさせてはならない。これは私だけの地図であり、この世界の誰にも理解されない種類の知識だ。
椅子の背もたれに身を預け、天井を仰いだ。漆喰の白い天井に、窓の格子が影を落としている。
前世の記憶が教えてくれるのは、破滅への道筋だけではない。あの世界で学んだこと——経営の基礎、数字の読み方、人を動かす原理。乙女ゲームの知識とは別に、あの人生で積み重ねたものがある。この世界の令嬢が知るはずのない実務の知恵が、今の私には武器になる。
『ゲームのセレスティーヌは、断罪の夜に泣き崩れて終わった。社交界での地位と婚約者しか見えていなかったから、それを失えば何も残らなかった。——でも私は違う』
立ち上がり、寝間着から着替える。昨夜の夜会用ドレスではなく、質素な日常着を選んだ。重い宝石も、精緻なレースも要らない。袖を通すと、軽い綿の感触が肌に馴染んだ。身体を締め付けるコルセットの代わりに、簡素な編み上げだけを選ぶ。深く息を吸えることが、こんなにも心強いとは思わなかった。これから必要なのは、そういうものではない。
窓を開けると、王都の朝の空気が流れ込んできた。馬車の轍の音、市場へ向かう商人たちの声、パン窯の煙の匂い。昨夜と同じ王都なのに、すべてが違って見える。あるいは——私の目が変わったのだ。
『半年。帳簿の改竄が弾劾の証拠として提出されるまで、およそ半年。その前に領地を立て直し、公爵家の潔白を証明できる実績を作る。時間は多くない。けれど、何もできないほど少なくもない』
身支度を終え、最後に鏡を見た。昨夜泣き腫らした目は、冷水で繰り返し冷やしたおかげでほとんど元に戻っている。薄い青灰色の瞳が、鏡の向こうからまっすぐに見返してくる。もう迷いはなかった。
部屋を出て、長い廊下を歩く。目指すは父の書斎。ヴェルテンベルク公爵——この世界の父に、領地へ戻る意思を伝えなければならない。
『お父様を説得できるかはわからない。でも、ここで動かなければ、半年後に全てが終わる。ゲームの通りに。物語の都合の良い犠牲として』
廊下の窓から、王城の尖塔が見えた。朝日を受けた白い石壁が、まばゆく輝いている。あの城の中で、エドワード殿下は今頃リーナと朝食を共にしているのだろうか。もう関係のないことだ。
私が守るべきものは、あの大広間にはなかった。初めから、ここにはなかったのだ。
足を速める。靴音が石の廊下に響く。昨夜とは違う——逃げるための足音ではなく、向かうための足音。父の書斎の重い扉が、廊下の突き当たりに見えた。樫の扉に刻まれたヴェルテンベルク家の紋章——銀狼と北辰の星が、朝の光の中で静かに浮かび上がっている。
深く息を吸い、扉を叩こうとした、その時。
書斎の中から父の声が漏れ聞こえた。低く、押し殺した、けれど隠しきれない焦りを帯びた声。
「——監査の前倒し、だと?」
手が止まった。扉に触れた指先が、凍りついたように動かない。心臓が喉の奥まで跳ね上がるのを感じた。
半年の猶予があると思っていた。けれど物語は、もう私の知る筋書きから逸れ始めているのかもしれない。