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断罪の夜に、悪役令嬢は戦略を選ぶ

第3話 第3話

第3話

第3話

扉の向こうの声に、耳を澄ませた。

「……四ヶ月後だと聞いていた監査が、二ヶ月に繰り上がったというのか」

父の声。いつも穏やかで、どこか悠然としたあの声が、今は砂利を噛むようにざらついている。もう一人の声は聞き取れない。おそらく家令のベルンハルトだろう。父が政務の相談をする相手は、あの老人だけだ。

二ヶ月。半年の猶予があると踏んでいた見積もりが、一晩で崩れた。いや——考えてみれば当然だ。昨夜の断罪で世間の風向きは変わった。公爵家を叩く好機と見れば、敵が手を緩める理由はない。ゲームの筋書きはあくまで目安であって、私が動けば相手も動く。

『迷っている時間はなくなった』

覚悟を決めて、扉を叩いた。

「——お父様、お話がございます」

書斎の空気は重かった。窓から差し込む朝日さえ、樫の書棚と革張りの調度品に吸い込まれて薄暗い。机の上には封書が何通も散らばっており、父がいかに慌ただしい朝を過ごしていたかが見て取れた。家令の姿はすでになく、父は一人だった。

ヴェルテンベルク公爵カール・フォン・ヴェルテンベルクは、五十を過ぎてなお背筋の伸びた人だった。銀灰の髪を丁寧に撫でつけ、鋭くも穏やかな青灰の瞳が——今朝は、深い疲労の色を帯びている。昨夜の断罪劇の報告はすでに届いているはずだった。私の顔を見た瞬間、その瞳に痛みが走ったのを、見逃しはしなかった。

「セレスティーヌ。……昨夜のことは聞いている。お前に、すまないことをした」

父が先に謝った。婚約を決めたのは家同士の取り決めであり、その責は親にある、と。声は低く、静かで、だからこそ深い悔恨が滲んでいた。

その言葉に胸が軋んだ。けれど、感傷に浸る余裕はない。

「お父様。昨夜のことはもう済んだことです。それよりも——私を、領地へ戻らせてください」

父の眉がわずかに上がった。

「領地に? 今、この時期に?」

「はい。今だからこそ、です」

椅子を勧められ、父の正面に座った。膝の上で拳を握り、言葉を選びながら話し始めた。前世の記憶のことは言えない。だからゲームの知識ではなく、この世界の現実として語れる範囲で理を尽くす。

「婚約を破棄された公爵令嬢が王都に留まれば、社交界の格好の話題にされます。それはお父様の立場にも響く。けれど私が自ら領地に戻り、公爵家の務めとして領地経営に携わるのであれば——それは逃亡ではなく、責務です。少なくとも、そう見せることができます」

父は黙って聞いていた。反論ではなく、思案の沈黙だった。

「領地の状況が芳しくないことは存じております。ここ数年、収穫量は落ち、灌漑も手が回っていないと。私に経営の経験がないことは承知しています。それでも——王都で泣き暮らすよりは、ずっと意味のあることができると信じています」

嘘は言っていない。ただ、すべてを言っていないだけだ。帳簿の改竄のこと、監査が迫っていること、冤罪の影。父がどこまで気づいているかはわからない。けれど先ほどの声の調子からして、何かがおかしいとは感じているはずだった。

長い沈黙があった。父は机の上の封書に目を落とし、それからゆっくりと顔を上げた。

「……お前の目は、母上に似ているな」

亡き母の名が出たのは、意外だった。

「あの人も、こういう目をする時があった。すべてを見通したような、覚悟を決めた目だ。——止めても無駄だろうな」

「はい。止められても参ります」

父の唇の端が、ほんのかすかに緩んだ。笑みとは呼べないほど淡いものだったが、少なくとも拒絶ではなかった。

「護衛をつける。それが条件だ」

父が卓上の呼び鈴を鳴らし、家令に指示を出した。出立の準備。最低限の随行者。三日以内に王都を発つ——その言葉が、決定の重みを持って書斎に響いた。

屋敷の廊下に出ると、足音がひとつ、後ろからついてきた。

「セレスティーヌ様」

振り返ると、見慣れた亜麻色の髪と真っ直ぐな緑の目があった。レオン・ブレンナー。幼い頃から屋敷に出入りしていた騎士見習いで、ブレンナー家は代々ヴェルテンベルク家に仕える下級貴族だ。歳は私の一つ上。昨夜の夜会には出ていない。騎士見習いの身分では、王宮の大広間に入る資格がなかった。

「領地へお戻りになると聞きました。——俺を護衛に連れていってください」

飾り気のない言い方だった。社交辞令も前置きもなく、ただ事実として申し出る。レオンはいつもこうだった。

「護衛はお父様が手配してくださるわ。正騎士団の——」

「正騎士団の連中は信用できません」

声を落として、けれどはっきりと。その目には、昨夜の断罪についてすでに知っている者の静かな怒りがあった。

「騎士団には王子派の目がある。何が報告されるかわからない。——俺は、セレスティーヌ様だけに仕えます」

反論できなかった。それは感情ではなく、正しい判断だったから。

もう一人の同行者は、思いがけない形で現れた。

その日の午後、出立の荷造りをしている最中に、屋敷の使用人口から来客があったと知らされた。名はフィーネ・レーヴェンハウプト。会計士レーヴェンハウプトの娘。父の帳簿を長年管理してきた会計士の、一人娘だった。

応接間に通すと、年の頃は私と同じくらいの少女が背筋を伸ばして座っていた。栗色の髪を簡素に編み上げ、質素だが清潔な服を着ている。膝の上には革表紙の帳簿を一冊、大事そうに抱えていた。

「突然のご無礼をお許しください、セレスティーヌ様。父が先日、宮廷への出仕を命じられました。公爵家の会計業務から——事実上の解任です」

淡々とした声。けれど帳簿を抱く指先が白くなっている。

「父は三十年、ヴェルテンベルク家の帳簿を預かってまいりました。どの数字も正確だったと、父の名誉にかけて申し上げます。けれど——新しく引き継いだ者が、同じ誠実さを持つかどうか。私には、わかりません」

その言葉の奥にある意味を、私は正確に理解した。

帳簿を管理していた会計士が外された。つまり、改竄の邪魔になる目が排除されたということだ。ゲームの筋書きが現実として動いている。想定より遥かに早く。

「セレスティーヌ様が領地にお戻りになると伺いました。——どうか、帳簿をお見せください。私に、数字を読むお手伝いをさせてください」

この少女が何に気づいていて、何をまだ知らないのか。それを見極める前に、私の口は動いていた。

「フィーネ。あなたの力が必要です。——共に、来てくださいますか」

帳簿を抱く指が、ほんの少しだけ震えを止めた。

三日後の早朝。

霧が薄く立ちこめる王都の石畳を、一台の馬車が静かに滑り出した。大仰な見送りはない。護衛の騎士はレオンひとり。御者と、フィーネと、私。それだけの小さな一行だった。

馬車の窓から王都の街並みが遠ざかっていく。白い石壁の連なり、尖塔の影、市場の喧噪。八年間を過ごしたこの街が、霧の向こうに霞んでいく。

「——聞いた? 公爵家のお嬢様、逃げるように王都を出たんですって」

出立の前夜、侍女がそんな噂を耳にしたと報告してきた。リーナが茶会の席で「あの方、お可哀想に」と憐れむように呟いたのが、尾ひれをつけて広まったらしい。

馬車の中で、私は小さく笑った。

『逃げた、か。——そう思っていてくれるなら、好都合よ』

敵の視界から消えること。それ自体が、今の私にとって最善の戦略だった。追われていると思わせておけば、追う側は油断する。逃げた兎を追う猟犬は、兎が振り返って牙を剥くとは思わない。

フィーネが膝の上で帳簿を開き、すでに数字を追い始めている。レオンは御者台の横で、静かに周囲を見張っている。誰に命じられたのでもない。それぞれが自分の意志で、ここにいる。

霧が晴れ始め、街道の両側に麦畑が広がった。北へ向かう道。ヴェルテンベルク領まで、馬車で五日。

その五日の間に、私はフィーネと共に帳簿を読み解かなければならない。領地の現状を数字で把握し、着いたその日から動けるように。二ヶ月という期限が、馬車の車輪の音と共に刻一刻と削られていく。

窓の外で、王都の最後の尖塔が霧に沈んだ。

振り返らなかった。私が戻る場所は、もうあの街にはない。

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