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薬草料理人の辺境食卓

第2話 第2話

第2話

第2話

三日目の朝に、馬車が止まった。

 目を開けると、幌の隙間から差し込む光が白かった。雨はいつの間にか上がっていて、空気が澄んでいる。レンは体を起こし、固まった首筋を手のひらで押さえた。荷台の木板に三晩寝たせいで、背骨のあちこちが軋んでいる。寝返りのたびに節くれ立った板の凹凸が肋骨に食い込み、まともに眠れた夜は一度もなかった。

 「終点だ。ここから先は馬車道がない」

 御者の老人がそう言って、煙管の灰を落とした。灰は朝の空気の中をゆっくりと散り、地面に届く前に見えなくなった。レンは荷台から降り、足元の土を踏んだ。柔らかい。王都の石畳とはまるで違う、水を含んだ山の土だった。靴底を通して冷たさと湿り気が伝わってくる。

 街道の終わりに、山裾の集落が見えた。十数軒の家屋が緩やかな斜面に点在し、その向こうに深い緑の山が連なっている。朝靄がまだ残っていて、家々の輪郭が柔らかくぼやけていた。煙突から立ち上る煙が二筋、三筋。風がないのか、煙はまっすぐ空に伸びて、やがて薄く広がって消えた。

 鳥の声がした。一羽ではない。何種類もの鳴き声が重なり合って、空気そのものが鳴っているような響き方をしている。王都では聞いたことのない密度だった。レンはしばらくその場に立ったまま、耳を傾けていた。荷馬車の中で縮こまっていた三日間、ほとんど何も食べていなかった。腹は空いているはずなのに、この空気を吸い込むだけで、体の奥が少しだけほぐれるような気がした。

 集落に続く小道を歩いた。道の両側に背の低い石垣があり、その上に野草が茂っている。名前のわかるものがいくつかあった。ナズナに似た白い花、ヨモギに近い葉の形。王都の市場では束にして売られていたものが、ここでは道端に当たり前のように生えている。指先が無意識に伸びかけて、レンは自分の手を見て止めた。職業の癖だった。

 最初の家を通り過ぎたあたりで、声をかけられた。

 「見ない顔だね」

 家の脇で薪を割っていた女が手を止めてこちらを見ていた。五十がらみで、日に焼けた肌と太い腕をしている。鉈を片手に持ったまま、レンの足元から顔まで一度だけ視線を上下させた。その目に敵意はなかったが、甘さもなかった。山の暮らしで磨かれた、物事の値打ちを一瞥で測る種類の目つきだった。

 「旅の者です。この先に宿はありますか」

 「宿なんてものはないよ。ここはホルンだ。宿を構えるほど人が来る村じゃない」

 女は鉈を薪の切り株に打ち込み、腰に手を当てた。

 「あたしはベルタ。この村の長をやってる。あんた、どこから来た」

 「王都から」

 ベルタの眉がわずかに動いた。しかしそれ以上は訊かなかった。レンの格好を見れば、華々しい理由での旅でないことは察しがつくだろう。濡れて乾いてまた濡れた外套、汚れた靴、荷物は腰の包丁一本。

 「しばらく身を落ち着ける場所を探しています。働き口があれば何でもやります」

 ベルタは腕を組み、少しの間レンを見つめてから、顎で斜面の上のほうを示した。

 「空き家がひとつある。十年ばかり誰も住んでないが、壁と床はまだ持ってるはずだ。見るかい」

 断る理由はなかった。

 ベルタの後について坂道を上った。村の家々は木と石で造られていて、どれも古いが手入れはされている。すれ違う村人が二人、ベルタに会釈してレンをちらりと見たが、それだけだった。余所者に対する警戒というより、単に珍しいものを見たという程度の視線だった。

 坂を上りきった先に、その家はあった。

 他の家屋から少し離れた場所に、ぽつんと建っている。石積みの壁は苔むし、木の扉は傾いで半分開いていた。屋根の右端に拳ひとつ分ほどの穴があいているのが、下からでも見えた。庭と呼べるような区画はなく、家の周囲は背丈ほどの雑草に覆われている。

 「前に住んでいたのは薬師のじいさんだ。十年前に亡くなってから、そのまま放ってある。相続する者もいなかったんでね」

 ベルタが扉を押し開けた。蝶番が錆びた音を立てる。中に入ると、埃の匂いがした。十年分の静寂が積もったような、乾いて重い匂いだった。土間に石の竈が据えてあり、奥に板張りの居室がある。竈の上に鉄の五徳が載ったままで、煤けた壁に棚がいくつか。棚には何も残っていないが、棚板自体はしっかりしていた。

 レンは竈の前にしゃがみ込み、火口に手を入れてみた。指先に触れる石の感触は冷たかったが、乾いていた。通気は悪くない。煙突も詰まってはいないようだ。火を焚けば使える。

 「屋根は自分でどうにかしないといけないが、村のもんに頼めば材は分けてもらえる。家賃は——まあ、取りようがないな。使ってくれるなら、それでいい」

 ベルタは壁に寄りかかり、レンが竈を調べる様子を見ていた。

 「料理人です」

 レンはなぜかそう言っていた。訊かれたわけでもないのに、この竈の前で黙っていられなかった。口にした瞬間、自分でも驚いた。王都を出てからの三日間、その言葉を一度も使わなかったのに。

 「ほう」

 ベルタはそれだけ言って、小さく頷いた。何かを値踏みする目ではなかった。ただ聞いた、という顔だった。

 「鍵は——まあ鍵なんてものはないが、掛け金は直せば使える。好きにしな」

 ベルタが坂を下りていった後、レンは居室の板戸を開けて裏手に回った。表よりさらに雑草が繁っていて、腰の高さまで伸びた緑が風に揺れている。草いきれが鼻を突いた。虫の羽音、土の匂い、朽ちかけた木柵の残骸。十年という時間が、この場所を静かに自然に返しつつあった。

 足元に気をつけながら草を掻き分けて進んだ。薬師が住んでいたのなら、裏手に何か残っているかもしれない。そう思っただけで、確信があったわけではない。

 草の合間に、見覚えのある葉があった。

 レンは足を止めた。しゃがみ込み、周囲の雑草をそっと押しのけた。地面すれすれに、小さな葉が数枚広がっている。銀がかった緑色で、葉脈が細く白い筋を描いている。葉の表面に朝露とは違う、かすかな光沢があった。

 星露草だった。

 指先で葉に触れた。薄くて柔らかい。生きている。十年間手入れされなかった庭で、雑草に埋もれながら、この薬草は静かに生き延びていた。宮廷の薬草棚に乾燥させたものが数束あった。文献には「高地の湿った日陰に自生する」と記されていたが、栽培された状態で見るのは初めてだった。いや、これはもう栽培ではない。薬師が植えたであろう株が、人の手を離れてもなお、この土地に根を張り続けていたのだ。

 レンは目を見開いたまま、しばらく動けなかった。胸の奥で何かが詰まったように熱くなり、それが喉元までせり上がってきた。泣きそうだと気づいて、慌てて息を吐いた。たかが薬草一株に、何を動揺しているのか。けれど指先は葉から離せなかった。

 星露草は、レンが宮廷で最も多く使った薬草だった。スープに入れれば体を芯から温め、粥に散らせば胃の疲れを癒す。乾燥させた葉を煮出すだけでも、冬場の風邪を遠ざけると言われている。効能が穏やかで、食材の味を殺さない。レンの薬草料理の、いわば土台だった。

 その土台が、ここにある。

 懐から紙包みを取り出した。三日前、王都を出るときに持ち出した種。あの種を蒔く場所を探していた——というよりは、蒔ける場所があればいいと、漠然と思っていただけだった。けれど目の前の地面には、すでに星露草が息づいている。種を蒔くまでもなく、この土は薬草を知っている。

 レンは立ち上がり、裏手の雑草の海を見渡した。よく見れば、星露草だけではなかった。草に紛れて、別の薬草の気配がいくつかある。葉の形、茎の色。すべてを確かめるには時間がかかるが、ここは間違いなく、かつて薬草園だった場所だ。

 風が吹いた。山から降りてくる、冷たくて青い風。雑草の海がざわりと波打ち、星露草の小さな葉がかすかに揺れた。レンの外套の裾がはためく。空は高く、雲は薄く、遠くの山の稜線がくっきりと見えていた。

 竈がある。水も引けるだろう。そして薬草がある。

 レンは裏手から家の中に戻り、竈の前に座り込んだ。包丁を腰から外し、膝の上に置いた。柄の削れた、古い包丁。十年間この手に馴染み続けた刃物。その重さが、今は妙に頼もしかった。

 屋根の穴から、細い光が一筋、土間に落ちていた。埃が光の中を舞っている。どこからか風が入り込み、竈の灰がかすかに揺れた。この竈に火を入れたら、どんな匂いがするだろう。星露草を摘んで、湯を沸かして、あの葉を浮かべたら——。

 腹が鳴った。三日ぶりに、ちゃんと腹が空いている気がした。

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