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薬草料理人の辺境食卓

第3話 第3話

第3話

第3話

最初にしたのは、水を探すことだった。

 家の裏手を雑草の合間を縫って歩くと、斜面の下に細い沢が流れているのが見えた。苔むした石の間を透明な水が滑り落ちていく。手で掬って口に含むと、冷たくて、わずかに甘い。鉄の気配がなく、石灰も薄い。煮炊きに使える水だった。十年間の宮廷暮らしで覚えた水の見分け方が、こんなところで役に立つとは思わなかった。

 竈に戻り、薪を組んだ。家の脇に朽ちかけた薪棚があり、乾いたものがいくらか残っていた。火打ち石は懐にある。旅の間、夜露を避けて荷台の隅で暖を取るために持っていたものだ。数度打つと火花が綿に移り、小さな炎が生まれた。竈の石が火の熱を受けて、かすかに色を変えていく。十年ぶりにこの竈が温まる。煙突は思ったより素直に煙を吸い上げ、煤けた石壁がゆらゆらと橙色に照らされた。

 火の具合を確かめてから、裏手へ出た。

 星露草の株は、昨日見つけた場所にそのままあった。朝の光を受けて、銀がかった葉の表面にかすかな露が光っている。レンはしゃがみ込み、根元に近い外側の葉だけを丁寧に摘んだ。株を殺さない摘み方は、宮廷で何百回と繰り返した手つきだ。指先に触れる葉の感触が柔らかく、乾燥させたものとはまるで違った。生の星露草を扱うのは初めてだった。葉脈の白い筋が透けるほど薄いのに、折れずにしなる。水分を含んだ薬草は、乾燥品より香りが三倍は強い。摘んだ瞬間に立ち上る青い匂いが鼻腔に届いて、レンは思わず目を閉じた。これだ。文献には書かれていなかった生の薬草の気配。これを知りたくて、種を懐に忍ばせたのだ。

 掌に載せた葉は七枚。一杯のスープには十分な量だった。

 裏手の探索を続けると、雑草に紛れて山菜がいくつか見つかった。ウドに似た太い茎、ワラビに近い渦巻き状の若芽。王都の市場なら束で銅貨二枚はするものが、足元に無造作に生えている。食べられるものを見分ける目は、料理人の基礎だった。茎の断面が白く、繊維に嫌な筋がないことを確かめてから採った。

 荷物はほとんどないが、干し肉だけは持っていた。乗合馬車に乗る前に王都の門前で買った、安い塩漬けの干し肉。旅の三日間でほとんど口をつけなかったものが、掌ほどの大きさで残っている。

 竈に鍋はなかった。棚を探すと、割れかけた土鍋がひとつ出てきた。縁に欠けがあるが、底にひびはない。水を張って漏れないことを確かめた。薬師が使っていたものだろう。煎じ薬を作るための、小ぶりで厚手の土鍋。煮炊きには十分だった。

 沢で水を汲み、土鍋を竈に掛けた。干し肉を包丁で薄く削ぎ、水から入れる。弱火でじっくりと煮出すことで、塩漬け肉の旨味が少しずつ湯に移っていく。灰汁が浮いたら丁寧にすくい取る。宮廷の銀の鍋と比べれば道具は貧しいが、火と水と食材がある限り、料理は成り立つ。

 山菜は塩もみもできないので、そのまま手で裂いて鍋に加えた。茎の太いものは先に、若芽は後から。火の通り方が違う食材を同じ鍋に入れるときの順番は、体が覚えている。

 最後に、星露草を入れた。

 これが宮廷であれば、乾燥させた葉を砕いて粉末にし、仕上げの段階で振りかけるのが定法だった。そうすることで薬草の成分が均一に行き渡り、効能が安定する。文献にもそう記されている。しかしレンの手は、生の葉をそのまま鍋に落としていた。なぜそうしたのか、自分でもわからなかった。ただ、この葉はこの土地で生きていたものだ。粉にして振りかけるのは、どこか違う気がした。

 星露草が湯に触れた瞬間、鍋の中の色が変わった。

 澄んだ琥珀色だった出汁が、淡い翡翠を帯びていく。そして匂い。土鍋の縁から立ち上る湯気に、干し肉の塩気と山菜の青さの奥に、もうひとつ別の層が生まれた。甘く、しかし甘すぎない。花の蜜でも果実でもなく、もっと深い場所にある、草と土と水が長い時間をかけて蓄えた種類の甘さ。レンは湯気の中に顔を寄せ、息を吸った。

 体が温まった。まだ一口も飲んでいないのに、湯気を吸い込んだだけで、胸の奥にじんわりと熱が灯った。

 これが、生の星露草の力なのか。

 木の匙がないので、欠けた土鍋の縁から直接啜った。唇に触れるスープの温度を舌で測りながら、少しだけ口に含む。

 旨かった。

 干し肉の塩気が出汁の骨格を作り、山菜の苦味がわずかに輪郭を引き締めている。そこに星露草の成分が入ることで、すべての味がひとつ上の段階に押し上げられていた。苦味は柔らかくなり、塩気は丸みを帯び、山菜の青臭さが清涼感に変わっている。薬草が食材の味を殺さずに、それぞれの持ち味を引き出している。レンが宮廷で目指していたのは、まさにこれだった。ただし、王宮の厨房では一度も到達できなかった境地だった。乾燥した星露草では、ここまでの調和は生まれない。

 レンはもう一口啜り、目を閉じた。額に汗が滲む。体の芯が温まっている。三日間ほとんど食べずに冷え切った体に、スープが染み渡っていくのがわかった。胃の底から手足の先まで、温かい流れが広がっていく。

 「——何だい、この匂いは」

 声がして目を開けた。土間の入口に、小柄な老婆が立っていた。白髪を後ろで束ね、曲がった背中に厚い上着を羽織っている。皺だらけの顔に灰色の目が二つ、鍋の方をまっすぐ見つめていた。

 「隣に住んでるエルナだよ。薬師のじいさんが死んでから、この家に煙が上がることなんてなかったから、何事かと思って来てみれば」

 エルナは杖をつきながら土間に一歩入り、鼻をひくつかせた。

 「この匂いだ。ここまで届いたんだよ。一体何を煮てるんだい」

 「スープです。裏の薬草と山菜を使って」

 「薬草」

 エルナの目が細くなった。薬師のじいさんの記憶が、その目の奥をよぎったのかもしれない。レンは土鍋を竈から下ろし、棚の奥で見つけた欠けた椀にスープを注いだ。具は少なく、汁の色が美しい翡翠がかった琥珀色に澄んでいる。湯気が二人の間に立ち上った。

 「よかったら」

 エルナは椀を受け取り、しばらく湯気を見つめてから、唇をつけた。

 一口。

 老婆の喉がゆっくりと動いた。両手で椀を包み込むようにして、二口目を啜る。三口目。椀を持つ指の、節くれ立った関節が白くなるほど力が入っていた。

 やがてエルナが顔を上げたとき、灰色の目に光るものがあった。

 「こんな美味いもの、食べたことがないよ」

 その声は掠れていて、小さかった。褒め言葉を言い慣れた人間の口調ではなく、ただ胸にあるものがそのまま零れ落ちたような、飾り気のない一言だった。皺の深い頬を涙が一筋伝い、エルナは慌てた様子もなく手の甲で拭った。

 「体が温かい。指の先まで温かい。冬になるとここの冷えが酷くてね、朝起き上がるのが辛いんだ。でも今、嘘みたいに——」

 エルナはそこで言葉を切り、もう一度椀に口をつけた。残りを飲み干すまで、どちらも何も言わなかった。竈の火が静かに爆ぜる音と、椀の中身が減っていく微かな音だけが、十年ぶりに人の体温を取り戻した家の中に響いていた。

 エルナは空になった椀を丁寧にレンに返し、杖をついて出て行った。去り際に振り向いて、何か言いかけて、けれど何も言わずに小さく頭を下げた。その背中が坂道の向こうに消えるまで、レンは土間に立ったまま見送っていた。

 掌の中の椀がまだ温かかった。

 宮廷では、料理の感想はいつも書面で届いた。「本日の晩餐は概ね好評であった」「スープの塩味がやや強い、次回は調整されたい」。食べた者の顔は見えず、声は届かない。白い紙に黒い文字が並んでいるだけだった。

 エルナの涙を、レンはぼんやりと反芻していた。あれが料理の感想だ。あの声が、あの顔が。庭番の老人が「体の芯に火が灯ったようだ」と言ったときと同じものが、目の前で起きた。

 竈の火が落ちかけていた。薪を一本足して、残ったスープを温め直した。自分の分をもう一杯飲み、体の芯がしっかりと温まったのを確かめてから、火を落とした。

 日が暮れるまで、家の片付けをした。埃を払い、板戸の建付けを直し、棚を拭いた。重い仕事ではなかったが、十年分の沈黙を動かすには時間がかかった。窓から差し込む西日が赤く傾く頃には、家の中にかすかにスープの残り香が漂っていて、それが埃の匂いを押しのけ始めていた。

 疲れた体を板の間に横たえた。屋根の穴から星が一つ見えた。小さくて白い光が、まっすぐこちらを見下ろしている。風が穴を通り抜けるたびに、星露草の青い匂いがどこからか届いた。

 翌朝、目が覚めたのは鳥の声だった。

 体を起こすと、腰も背中も昨日ほどは痛まなかった。竈には昨夜の灰が白く残っている。寝ぼけた目をこすりながら表の戸口に向かうと、足元に何か引っかかった。

 籠だった。

 編み目の粗い、使い込まれた竹籠。中にカブが三つ、太い人参が二本、それに青菜がひと束入っている。土がついたままの、採りたての野菜だった。籠の縁に布きれが挟んであり、何も書かれていなかった。書く必要がなかったのだろう。

 レンは籠を持ち上げた。朝露に濡れた野菜の冷たさが掌に伝わる。人参の葉がかすかに揺れている。坂の下のほう、エルナの家の煙突から細い煙が上がっていた。

 カブの泥を指で撫でた。この土は、昨日の星露草と同じ山の土だ。

 竈に火を入れよう、とレンは思った。今日はもう少しましな鍋を探して、この野菜で何か作ろう。まだ塩も油もろくにないが、素材がこれだけ良ければ、どうにかなる。料理人とはそういう生き物だ。

 朝の光が山の稜線を越えて、屋根の穴から一筋、土間に落ちた。昨日と同じ光。けれど今日は、その光の中に自分だけでなく、誰かの手が届けてくれたものがある。

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