第2話
第2話
三日間の準備は、すべてカイが一人でやった。
ポーション六十本、携行食十四日分、予備の武具一式、解毒薬、対呪装備、照明用の魔石ランタン、ロープ、杭、地図の写し。Aランクダンジョンの長期攻略に必要な物資を揃え、重量を計算し、背負子に隙間なく積み上げる。自分の体重を優に超える荷だ。
パーティの他の四人は何もしていない。ガルドは酒場で武勇伝を語り、ヴェルドは闘技場で腕試しに興じ、リーナは宿で本を読み、ミレーヌは教会で祈っていた。準備はカイの仕事。それが「黄金の牙」の常識だった。
出発の朝、グランホルムの東門に五人が揃った。
「よし、全員いるな」
ガルドが腕を組み、朝日を背に立つ。身長は六尺を超え、背中の大剣が朝陽を弾いて光る。Aランク冒険者パーティ「黄金の牙」のリーダー。実力は確かだ。ワイバーン亜種を一刀で断つ膂力、前線を一人で支える耐久力。問題は、それが自分一人の力だと信じて疑わないことだった。
「深淵の喉笛まで丸一日。到着したらすぐ突入する。休憩は中で取りゃいい」
「相変わらず脳筋だな」
ヴェルドが双剣の柄を叩きながら笑った。短く刈り込んだ赤髪に、鋭い目つき。ガルドとは五年来の相棒で、パーティ内でのカイへの扱いを最初に決めたのはこの男だ。初日に言われた言葉を、カイは今でも覚えている。「お前は荷物持ちだ。戦闘には関わるな。邪魔だから」。以来、ヴェルドはカイに名前すら呼びかけない。「おい」か、「荷物持ち」。それだけだ。
「ヴェルド、少しは計画を立てましょうよ。Aランクダンジョンなんですから」
ミレーヌが困ったように眉を下げた。亜麻色の髪を編み込み、白い僧衣を纏った回復術士。パーティの良心——のように見える。実際、カイに対して暴言を吐いたことは一度もない。だが、五年間で一度も庇ったこともない。ヴェルドがカイの食事を蹴飛ばしたとき、ガルドが報酬を削ったとき、ミレーヌは常にそこにいた。そして常に、目を逸らした。見て見ぬふりは、時に嘲笑より深く刺さる。
「計画なんて現場で決めるものよ。事前にどれだけ立てたって、ダンジョンの中では意味がないわ」
リーナが欠伸混じりに言った。黒髪に銀の髪飾り、細い指に嵌めた魔導リングが五つ。宮廷魔術学院の元首席という経歴を持つ攻撃魔術の専門家。火力は申し分ない。ただ、カイに対しては徹底的に無関心だった。視界に入っていない、という表現が最も近い。五年間で交わした会話は片手で足りる。存在を認識していないのだから、悪意もない。それはそれで、別種の痛みがある。
この四人が「黄金の牙」だ。
王都グランホルムでAランクの看板を掲げ、難関依頼を次々とこなす実力派パーティ。ギルドの評価は高く、市民からの人気もある。酒場ではガルドの武勇伝が語られ、ミレーヌの癒しの光は聖女と称えられ、ヴェルドの双剣は稲妻と恐れられ、リーナの魔術は戦場の華と讃えられる。
カイの名前が出ることはない。「黄金の牙」は四人パーティだと思われている。五人目の存在を知っているのは、ギルドの受付と、ごく一部の冒険者だけだ。
「カイさん」
東門を出る直前、後ろから声がかかった。エリカが息を切らせて駆けてきた。手に小さな包みを持っている。
「これ、道中の分です。干し果物と、薬草茶の葉」
「わざわざ持ってきてくれたんですか。ありがとうございます」
カイが受け取ると、エリカの目がカイの背中の荷を見て曇った。背負子は人一人分の高さまで積み上がり、革帯が肩に深く食い込んでいる。他の四人は自分の武器以外、何も持っていない。
「大丈夫ですか、本当に」
「大丈夫ですよ」
カイは笑った。五年間で完成された、何の感情も映さない微笑だ。
「俺がいないと、皆が死にますから」
冗談めかした口調だった。だがエリカは笑わなかった。それが冗談ではなく、純然たる事実であることを、受付嬢として数字を見てきた彼女は知っている。カイが加入する前、「黄金の牙」はCランクの雑魚パーティだった。カイ加入後、依頼達成率が跳ね上がり、三年でAランクまで駆け上がった。その相関に気づいているのは、おそらくエリカだけだ。
「行ってきます」
カイは背を向けた。エリカが何か言いかけたが、聞こえないふりをした。振り返れば、立ち止まってしまう。
「おい荷物持ち、遅えぞ!」
ヴェルドの怒声が飛ぶ。カイは小走りで隊列に追いついた。先頭にガルド、右翼にヴェルド、左翼にミレーヌ、後方にリーナ。カイは最後尾。荷物と一緒に、隊列の末端を歩く。五年間、この位置が変わったことはない。
──────
「深淵の喉笛」は、グランホルムから東に丸一日の距離にある。
巨大な峡谷の底に口を開けたダンジョンで、入口の形状が人の喉を思わせることからその名がついた。峡谷の縁に設けられた冒険者の前線基地には、攻略に挑むパーティや、それを支援する商人たちが集まっている。
到着したのは翌日の昼過ぎだった。前線基地には他にも複数のパーティが野営を張っている。Bランクが二組、Aランクが一組。いずれもカイたちと同じく、今回の攻略報酬を狙って集まった連中だ。
ガルドが大股で基地の中央に歩み出た。
「『黄金の牙』、到着だ。先に入ってる連中はいるか?」
「まだ誰も入っていません。皆さん、編成の最終確認中ですね」
基地の管理官が答える。ガルドは鼻を鳴らした。
「ビビってやがるのか。俺たちは明朝突入する」
その声が基地に響き、周囲のパーティが顔を上げた。視線がガルドに集まり、次いで背後の「黄金の牙」を値踏みする。ヴェルドの双剣、ミレーヌの僧杖、リーナの魔導リング——そして、最後尾で荷物に埋もれたカイ。
「おい、あれ……」
隣のパーティの鑑定士が目を細めた。分析系スキルの光がカイの上を走る。
「【雑務適性:E】だ。魔力量は……平均以下。戦闘スキル保有数、ゼロ」
笑いが弾けた。
「Aランクパーティに雑務のEランクが混じってんのかよ」
「荷物持ちだろ。ペットみてえなもんだ」
「あのダンジョンに連れてくのか? 足手まといってレベルじゃねえぞ」
嘲笑が波のように広がる。カイは黙って荷物を降ろし、野営の設営を始めた。地面の状態を確認し、傾斜と風向きを読み、最適な位置にテントを張る。結界の下準備として地脈の流れを探り、四隅に杭を打つ。
嗤いたければ嗤えばいい。この鑑定結果が全てだと思うなら、それでいい。
「黄金の牙」の四人は、嘲笑に対して何も言わなかった。カイを庇う者はいない。ガルドは聞こえないふりをし、ヴェルドは肯定するように鼻で笑い、ミレーヌは唇を噛んで俯き、リーナは最初から聞いていなかった。
「カイ、テント張ったら飯の準備しろ。あと俺の大剣、刃を研いどけ」
ガルドの声だけが、日常として降ってくる。
「了解です」
カイは頷き、手を動かし続けた。
日が暮れ、他のパーティが酒盛りを始めても、カイは一人で作業を続けていた。全員分の装備を最終点検し、ポーションの配分を計算し、ダンジョンの既知情報を頭に叩き込む。毒霧地帯の位置、崩落が報告されている区画、魔物の出現傾向。結界の展開パターンを七通り想定し、それぞれの魔力消費量を暗算した。
テントの隙間から、ダンジョンの入口が見えた。峡谷の底に開いた巨大な暗い口。生温い風がそこから吹き上がってくる。腐った肉と、錆びた鉄と、もっと深い何か——地の底の匂い。
カイの索敵が、無意識に発動した。入口から伝わってくる魔力の気配を読む。濃い。異常に濃い。通常のAランクダンジョンの三倍はある。
嫌な予感が、確信に変わりつつあった。
翌朝。ダンジョンの入口に「黄金の牙」が立った。他のパーティはまだ動かない。様子を見ている。先陣を切るのは、いつもガルドの流儀だ。
「行くぞ。俺たちが最初に踏破する」
ガルドが大剣を抜き、闇の中に踏み出した。ヴェルドが続き、ミレーヌが後に続く。リーナが詠唱準備をしながら歩き出す。
カイは最後に入口をくぐった。背中の荷物が岩壁に擦れ、洞窟の冷気が肌を刺す。
振り返ると、入口の光が遠い丸になっていた。その光の中に、こちらを見ている他パーティの冒険者たちの影が小さく見えた。
——あの鑑定結果を見て笑った連中は、知らない。
カイが夜ごと張る結界がなければ、「黄金の牙」は一夜も生き延びられないことを。カイの索敵がなければ、とうの昔に全滅していたことを。
そして——カイ自身もまだ知らない。
この暗闇の奥に、自分の本当の力が眠っていることを。