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雑務適性Eの古代結界師

第1話 第1話

第1話

第1話

誰よりも早く目を覚ますのは、いつもカイだった。

焚き火の残り香が鼻をつく。炭と樹脂が混じった匂いの奥に、夜露に濡れた土の湿った気配がある。まだ夜明け前、森の空気は冷たく湿っている。吐く息が白く、指先の感覚が鈍い。カイは音を立てずに寝袋から這い出し、まずキャンプの外周に張った結界の状態を確認した。夜の間に三度、魔物が接触した痕跡がある。いずれも中級——オークロードが一体、シャドウウルフが二体。結界が自動で弾いていた。術式の消耗具合から推測するに、オークロードは深夜二時頃、シャドウウルフは明け方近くに来たらしい。もしこの結界がなければ、寝袋の中の四人は目を覚ますこともなく喰われていた。

誰も気づいていない。誰も気づかない。五年間、ずっとそうだ。

カイは結界を解除し、新たに索敵の術式を走らせた。意識を研ぎ澄ませ、地面を伝う振動、風に乗る微かな魔力の残滓を一つずつ拾い上げていく。半径二キロに脅威なし。続いてメンバーの装備を一つずつ手に取る。ガルドの大剣は刃こぼれが三箇所。昨日のワイバーン戦で鱗を断ったときのものだ。砥石を当て、刃の角度を元通りに整える。ヴェルドの双剣は柄の革が緩んでいる。汗で濡れたまま放置されたせいだ。革紐を解き、乾いた布で丁寧に巻き直す。ミレーヌの杖は魔力伝導率が昨日より落ちている——結晶部の微細な亀裂だ。修復の術式を流し込み、亀裂を塞ぐ。正規の修理には及ばないが、次の戦闘には十分持つ。リーナのローブには解呪が必要な残留魔素が付着している。ワイバーン亜種の吐いた毒霧の名残だろう。放置すれば肌に浸透し、術者の魔力回路を侵す。カイは掌に浄化の光を灯し、繊維の一本一本から汚染を洗い流した。

全て、カイが直す。毎晩、毎朝。五年間。

空が白み始めた頃、作業を終えたカイは焚き火を熾し直し、干し肉と硬いパンで朝食を用意した。湯を沸かし、茶を淹れる。茶葉は市場で一番安い等級のものだが、火加減と蒸らし時間だけは丁寧にする。せめてもの矜持だった。香りにつられてミレーヌが最初に起き出し、次にリーナ、ヴェルド、最後にガルドが大欠伸をしながら現れた。

「お、飯できてんじゃねえか」

ガルドが当然のように一番大きな肉を取る。ヴェルドが続き、ミレーヌとリーナが好きな分を選ぶ。カイの前に残ったのは、齧りかけのパンの端と、肉の脂身だけだった。

カイはそれを黙って咀嚼した。脂身は冷えて白く固まっており、噛むたびに獣臭い油が口に広がる。パンの端は石のように硬く、奥歯で砕くと乾いた粉が喉に張りつく。水で流し込む。五年間、同じ味だ。

「カイ、水筒」

ヴェルドが空の水筒を投げてよこす。礼も、目線すらない。カイは黙って受け取り、川まで汲みに行った。

朝靄のかかる川辺にしゃがみ、水筒を沈める。冷たい水が手を刺す。水面に映る自分の顔は、二十三にしては随分とやつれている。頬がこけ、目の下には消えない隈がある。五年前はもう少しましな顔をしていたはずだ。水面を掌で叩いて像を消し、立ち上がった。

戻ると、ガルドが地図を広げていた。

「今日中にグランホルムまで戻る。依頼の報告と、報酬の受け取りだ」

昨日のBランク討伐依頼——森に棲むワイバーンの亜種を仕留めた報酬だ。カイが索敵で巣の位置を特定し、結界で退路を塞いだからこそ、ガルドの一撃が決まった。だがそんな過程は報告書に載らない。

「ガルドさんの一撃、見事でしたね」

ミレーヌが微笑む。ガルドは得意げに鼻を鳴らした。

「当然だろ。Aランクの看板は伊達じゃねえ」

カイは黙って荷物をまとめ始めた。パーティ五人分の野営装備、予備の武具、ポーション類、食料。合計すると自分の体重に近い。背負子の革帯が肩に食い込み、古傷の上を擦る。もう痛みは感じない。皮膚が厚くなったのか、神経が鈍くなったのか。それを背負って、一日歩く。

グランホルムに着いたのは日が傾いた頃だった。石畳の大通りに夕陽が長い影を落とし、露店の商人たちが片付けを始めている。ギルドの受付で報酬を受け取るのはガルドの役目だ。カイは荷物を抱えたまま、ギルドの隅で待った。

冒険者たちの視線が刺さる。Aランクパーティ「黄金の牙」——王都でも指折りの実力者集団。その中に一人だけ、明らかに場違いな荷物持ちが混じっている。鑑定結果【雑務適性:E】のカイを知らない者はいない。

「よう荷物持ち、今日も元気に運んでんな」

カウンターにいた冒険者が笑う。周囲からも失笑が漏れた。カイは軽く会釈だけ返した。反論する気力は、もうとっくに枯れている。最初の一年は悔しかった。二年目で諦めた。三年目から、他人の嘲笑は雨音と同じになった。ただ降っているだけの、意味のない音。

「報酬、八十万ギルだ」

ガルドが金貨の入った袋をテーブルに置いた。パーティの円卓で分配が始まる。ガルドが三十五%、ヴェルドとミレーヌが各二十%、リーナが二十二%。残りがカイだ。

二万四千ギル。全体の三%。

「感謝しろよ、カイ。普通なら荷物持ちに取り分なんてねえんだ」

ガルドが硬貨を数枚、カイの前に滑らせた。慈悲を施すような手つきだった。

「……ありがとうございます」

カイは硬貨を受け取り、革袋にしまった。抗議はしない。五年前もしなかったし、今もしない。カイがいなくなれば結界がなくなる。索敵がなくなる。装備の整備がなくなる。このパーティは半月と持たずに壊滅する。

その確信があるからこそ、カイは耐えている。自分がいなければ、四人は死ぬ。だから——。

「あ、カイさん」

受付嬢のエリカが小走りで近づいてきた。唯一、カイを「さん」付けで呼ぶ人間だ。

「お疲れ様です。あの……お怪我はありませんか?」

「大丈夫ですよ。いつも通りです」

「いつも通り、が心配なんです」

エリカの声が少し沈む。その目がカイの肩に食い込む革帯の跡を見ている。赤く擦れた皮膚の上に、古い痕が何層にも重なっているのが、襟元から覗いていた。カイは無意識に襟を直した。

「俺がいないと、あの人たちは——」

「……わかってます。でも、カイさんがいなくなったら、私は」

エリカが言いかけた言葉を飲み込む。カイはその先を聞かなかった。聞いてしまえば、揺らいでしまうから。この五年間を支えてきた「自分がいなければ四人は死ぬ」という理由が、別の感情で上書きされてしまうのが怖かった。

「ありがとう、エリカさん。気持ちだけ受け取っておきます」

カイは荷物を背負い直し、宿に向かった。一番安い部屋。窓もない小部屋で、硬い寝台に横たわる。天井の染みを数えるのが、五年間の日課だった。壁の向こうから酔客の笑い声が漏れ、床板の隙間から階下の油と酒の匂いが立ち昇ってくる。カイの部屋だけが、どこにも繋がっていないような静けさだった。

明日も荷物を持つ。明後日も。その先も。

それでいい。自分は——そういう役割だから。

目を閉じかけたとき、階下から怒鳴り声が聞こえた。ガルドだ。酒場にいるらしい。

「おい聞いたか! 『深淵の喉笛』の攻略依頼が出たぞ!」

カイの目が開いた。

「深淵の喉笛」——Aランクダンジョン。過去に複数のAランクパーティが挑み、踏破した者はいない。生還率すら五割を切る、王都周辺で最も危険な迷宮だ。

階段を駆け下りると、酒場の中央でガルドが羊皮紙を振りかざしていた。周囲の冒険者たちがざわめき、何人かは露骨に顔を引きつらせている。あのダンジョンの名を聞いて平静でいられるのは、よほどの実力者か、よほどの愚か者だけだ。

「報酬は五百万ギル。成功すりゃ、『黄金の牙』の名前が大陸中に轟く!」

ヴェルドが口笛を吹き、リーナが興味なさそうにワインを傾ける。ミレーヌだけが不安げな顔をしていた。

「ガルド、少し慎重に——」

「何言ってんだ。俺たちはAランクだぞ? できねえわけがねえ」

カイは酒場の入口に立ったまま、ガルドの背中を見ていた。五百万ギルの報酬。自分の取り分は、その三%——十五万ギル。

だが金の問題じゃない。

「深淵の喉笛」は罠が多いダンジョンとして知られている。毒霧、落とし穴、崩落。通常の戦闘力だけでは攻略できない。結界と索敵が、文字通り生命線になる。

つまり——カイがいなければ、全員死ぬ。

「カイ」

ガルドが振り返った。酒で赤くなった顔に、不敵な笑み。

「荷物、いつもの倍は用意しとけ。出発は三日後だ」

「——了解です」

カイは静かに頷いた。胸の奥で、鈍い痛みが疼く。感謝でもなく命令でもない、ただの通達。五年間、ずっとこうだった。

宿の小部屋に戻り、天井の染みを見上げる。三十七個目の染みが、少し大きくなった気がした。

「深淵の喉笛」か。

カイは寝台の上で拳を握った。嫌な予感がする。根拠はない。ただ、五年間で磨かれた索敵の勘が、微かに警鐘を鳴らしている。

——何かが、変わる。

その予感が正しいことを、三日後のカイはまだ知らない。

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