第2話
第2話
馬車の窓から見える王都の夜景が、ゆっくりと流れていく。石畳を叩く蹄の音が規則正しく響き、揺れる車体の中で、私はようやく息をつくことができた。革張りの座席に背を預けると、汗ばんだ背中にドレスの裏地が冷たく貼りつく。指先がまだ微かに震えていた。手袋の内側が湿っているのは、握り締めすぎたせいだ。
舞踏会の喧噪はもう遠い。だが耳の奥にはまだ、エドワルドの声が木霊している。あの宣告。あの碧い瞳。数百の視線。——すべてが夢であってほしいと思う自分と、夢ではないからこそ動かなければと囁く自分が、胸の中でせめぎ合っていた。
馬車がグランツハイム邸の門を潜ると、使用人たちが慌ただしく出迎えた。その顔にはすでに動揺の色がある。噂は馬車より速い。けれど誰も、何も訊かなかった。老執事のヴィルヘルムだけが黙って外套を受け取り、深く頭を下げた。その沈黙がかえって胸に沁みた。四十年この家に仕えた老人の目尻に、微かな潤みがあった気がした。気のせいかもしれない。けれど、もし気のせいでなかったなら——それは今夜、誰かが私のために流した唯一の涙だ。
「お茶を一杯だけ。それから——誰も通さないで」
自室に入り、鍵をかける。ドレスの背を留める無数の小さなボタンを一人で外すのは骨が折れたが、侍女を呼ぶ気にはなれなかった。真珠のボタンが一つ、指の間から滑り落ちて絨毯の上を転がった。拾い上げた掌に、舞踏会場のシャンデリアの残光がちらついたような気がして、目を伏せる。窓辺の長椅子に腰を下ろし、コルセットの紐を少し緩めると、肋骨がようやく自由を取り戻す。深く、深く息を吸った。肺の隅々にまで夜気が染み渡り、鼻の奥がつんと痛んだ。泣いているのではない。ただ、久しぶりに深く呼吸しただけだ。
『さて。泣くのは後でもできる。今は——頭を使いなさい』
前世の記憶は、断罪の衝撃をきっかけに堰を切ったように流れ込んできた。けれどそのすべてが鮮明というわけではない。大学時代に夜更かしでプレイしたゲームの記憶だ。メインストーリーの大筋は覚えていても、細部には靄がかかっている箇所がある。
書き物机の引き出しから羊皮紙と羽根ペンを取り出した。インク壺の蓋を開け、ペン先を浸す。セラフィーナの身体が覚えている流麗な筆跡で、私は前世の知識を書き留め始めた。
——破滅フラグ管理表。
我ながら物騒な表題だった。けれど命がかかっている以上、体裁を気にしている場合ではない。
『第一のフラグ。断罪イベント——通過済み。もう覆せない』
ペン先が羊皮紙を引っ掻く音だけが、静まり返った部屋に響く。
『第二のフラグ。聖女暗殺未遂の冤罪』
ゲームでは第三章の終盤、聖女リリアーヌの飲み物に毒が混入される事件が起きる。そしてその容疑者として名指しされるのが——悪役令嬢セラフィーナ。実際には宮廷内の権力闘争が背景にあるのだが、ゲームのプレイヤーにとってはセラフィーナの悪行の一つとして処理される些細なイベントだった。
だが今の私にとっては、首に縄をかけられるのと同じだ。
『第三のフラグ。領地反乱の扇動者指名』
グランツハイム領の辺境で民が蜂起し、その首謀者が公爵令嬢だと断じられる。ゲームでは第五章、ヒロインルートの終盤に差し掛かる頃に発生する。領民の不満が爆発するきっかけは確か——疫病だった。王都が救援を出し渋り、見捨てられた領民たちが暴徒化する。
『第四のフラグ。最終審問での有罪判決。これは他の三つが揃って初めて成立する』
つまり、第二と第三さえ潰せば、第四は自動的に回避できる。処刑エンドには至らない。
羊皮紙にはいつの間にか、矢印と条件分岐を示す図が書き連ねられていた。前世で叩き込まれた論理的思考が、セラフィーナの教養と奇妙に噛み合う。公爵令嬢としての教育は伊達ではなかった。政治学、経済学、外交儀礼——この世界の貴族教育は、前世の大学よりよほど実践的だ。
ペンを置き、紅茶を一口含んだ。すっかり冷めていたが、林檎の花の香りがほのかに鼻腔をくすぐる。カップの縁に唇の紅が薄く移っていた。舞踏会のために塗った紅——もう二度と、あの人の隣に立つために装うことはないのだと、不意に実感が喉元を突いた。カップを受け皿に戻す音が、思ったより大きく響いた。
『まず、最も直近のフラグ。暗殺未遂の冤罪を潰す』
時系列で言えば、これが最初に発生する。そして最も厄介なフラグでもあった。
ゲームの記憶を手繰り寄せる。毒の混入は聖女の私的な茶会で起こる。犯人は別にいるのだが、容疑がセラフィーナに向けられる決定的な根拠となったのは——
『接触記録だ』
ペンを握り直し、羊皮紙の余白に書き足す。
セラフィーナとリリアーヌの間に、複数回の接触があったという宮廷記録。茶会への招待状、社交場での会話の目撃証言、贈り物の授受。それらが積み重なり、「動機と機会がある」という状況証拠を形成する。ゲームの中では、この接触はヒロインイベントの背景として自動的に発生していた。プレイヤーには見えない裏側で、悪役令嬢と聖女の因縁が静かに編まれていく仕組みだ。
つまり——逆に言えば、接触そのものが存在しなければ、冤罪の土台が崩れる。
『聖女との接触を、完全に絶つ』
書き終えた文字を見つめた。インクがまだ乾ききっていない。燭台の炎が揺れ、文字の上に影を落とす。
言うのは容易い。だが実行するとなれば、社交界における自殺行為に等しかった。聖女リリアーヌは今や王太子の寵愛を受ける存在であり、彼女との関係を断つということは、王家を中心とした社交の輪から完全に外れることを意味する。
いいえ——もう外れているのだ。今夜の断罪で。
ならば、中途半端に留まるより、自ら宣言してしまったほうがいい。受動的な孤立ではなく、能動的な撤退。恥辱ではなく、戦略。
『社交の場で、私自ら聖女との接触を断つと宣言する。公の場で、証人がいる状態で。そうすれば——以後の接触記録は物理的に発生しない。冤罪の起点そのものを消す』
窓の外で、夜明けの気配がした。東の空がほんの僅か、濃紺から藍色へ移ろいでいる。舞踏会の夜はもう終わる。
私は羊皮紙を丁寧に折り畳み、書き物机の二重底——セラフィーナが幼い頃に隠し菓子を入れていた秘密の引き出しに仕舞った。引き出しの奥から、かすかに砂糖菓子の甘い残り香がした。幼い日のセラフィーナの無邪気さが、指先に触れた気がした。この紙一枚が誰かの目に触れれば、すべてが終わる。前世の記憶のことも、ゲームの知識のことも、決して悟られてはならない。
立ち上がり、窓辺に歩み寄った。冷たい朝の空気が薄い室内着の袖口から忍び込む。王都の屋根の連なりがうっすらと白み始め、遠くの尖塔に朝の鐘が一つ鳴った。低く澄んだ音が大気を伝い、胸郭の内側を静かに震わせる。
嘲笑されるだろう。婚約を破棄され、なお聖女に未練があると。あるいは恐れていると。どちらの解釈をされても構わない。笑いたければ笑えばいい。他人の解釈は制御できないが、事実は制御できる。接触記録が存在しなければ、冤罪は成立しない。
『問題は、どの場で宣言するか』
社交界で最も多くの耳目が集まり、かつ記録が公式に残る場。それでいて、私がまだ出入りを許されている場所。
——次の聖女祝福式典の前夜祭。王立庭園の茶会。公爵令嬢としての出席義務がまだ生きているはずの、最後の公式行事。
胸の奥で、覚悟が静かに固まっていくのを感じた。恐怖がないわけではない。数百の貴族の前でまた晒し者になるのだ。あの大広間の空気を思い出すだけで、指先が冷える。宝石を散りばめたような視線の群れ。好奇と侮蔑が入り混じった囁き。それでも——けれど前世で試験前夜に攻略wikiを睨みながら立てた計画と、今この手で書いた管理表は、不思議と同じ手触りがした。やるべきことがわかっている。あとは、実行するだけ。
寝台に腰を下ろしたとき、ふと思い出した。大広間の壁際で腕を組んでいた、あの騎士団長の鉄灰色の瞳を。嘲笑でも同情でもない、試合を観る剣士のような目。あの視線だけが、数百の嘲りの中で異質だった。
『レオンハルト。隠しルートの攻略対象——だった人。あの人は、私の次の一手をどう見るのかしら』
考えても仕方のないことだった。今の私に必要なのは、攻略対象ではなく生存戦略だ。
明日の朝一番に、父上に謁見を願い出よう。公爵家の名で、あの茶会への出席を届け出なければならない。
目を閉じた。疲労が一気に押し寄せ、意識が薄れていく。夢の淵で、管理表の文字が瞼の裏にちらついた。
三つのフラグ。最初の一つを消すための勝負は、もう始まっている。