第3話
第3話
王立庭園の薔薇は、まだ蕾だった。
五月の柔らかな陽射しの下、幾何学模様に刈り込まれた生垣が白砂利の小径を縁取り、その奥に円形の野外茶会場が広がっている。天蓋つきのテーブルが十数卓、淡い絹の日除けの下に並べられ、銀の茶器が午後の光を弾いていた。聖女祝福式典の前夜祭——王家主催の庭園茶会。公爵家の令嬢として出席義務が残る、最後の公式行事。
門をくぐった瞬間から、空気が変わったのがわかった。
会話が途切れる。扇が止まる。数十の視線が一斉にこちらを向き、そしてすぐに逸らされる。避けているのだ。昨夜の断罪劇の主役に、誰も関わりたくないという無言の総意が、庭園の空気を薄い膜のように覆っていた。
『予想通り。むしろ好都合ね』
私は背筋を伸ばしたまま、中央のテーブルへ向かった。傍らに控える侍女のマルガレーテの足音が、わずかに不揃いになっている。緊張しているのだろう。幼い頃から私に仕えてくれた彼女が動揺を隠しきれないほど、この場の敵意は露骨だった。
「お嬢様、奥のお席になさいませんか。あちらのほうが——」
「いいえ。中央で構わないわ」
声を潜めたマルガレーテの進言を、穏やかに、けれど明確に退けた。端の席に逃げ込んでは意味がない。今日は聞かせるために来たのだ。一人でも多くの耳に、一人でも多くの目の前で。
着席してほどなく、庭園の奥から小さなざわめきが波のように広がった。聖女リリアーヌの到着だった。
白い法衣に薄紅の肩掛け。淡い金の巻き毛を風に遊ばせながら歩くその姿は、午後の庭園に降り立った女神そのものだった。彼女が通り過ぎるたびに、令嬢たちが花のように身を寄せ、紳士たちが恭しく道を開ける。完璧な絵画のような光景。その隣には——エドワルドの姿はなかった。式典準備のためだろう。代わりに、彼女の護衛として二人の近衛騎士が従っている。
リリアーヌの翡翠の瞳が、一瞬だけ私を捉えた。あの断罪の夜に垣間見たのと同じ、怯えとも警戒ともつかない光。けれどすぐに柔らかな微笑みに塗り替えられ、彼女は何事もなかったように歩き続けた。
紅茶が注がれ、焼き菓子が並び、茶会が緩やかに動き始める。私はカップに口をつけながら、庭園の全景を静かに観察していた。
出席者はおよそ六十名。侯爵家、伯爵家の当主夫人や令嬢が主だが、騎士団からの陪席も数名ある。生垣の向こう、やや離れた場所に、あの鉄灰色の瞳を認めた。騎士団長レオンハルト。壁際ではなく——今日は生垣際だったが、腕を組んで立つ姿勢は大広間の夜と変わらない。式典警備の一環だろうか。こちらを見ているのかいないのか、距離があって判然としない。
『今は関係ない。集中しなさい』
紅茶を受け皿に戻し、ナプキンで唇を押さえた。心臓が早鐘を打っている。掌が汗ばんでいるのを悟られぬよう、膝の上で指を組んだ。
『——今しかない』
椅子を引き、立ち上がった。
ざわめきが一瞬だけ途切れ、すぐに不穏な波紋に変わる。断罪された令嬢が、茶会の席でわざわざ注目を集めようとしている。悪足掻きか、あるいは醜い復讐か——周囲の表情がそう語っていた。
「お耳汚しを承知で、一言だけお許しくださいませ」
声を張ったわけではない。けれど公爵令嬢として鍛えられた発声は、庭園の隅々にまで通る。カップを持つ手が止まり、囁き合う扇が下ろされ、六十の顔がこちらを向いた。
「昨夜の断罪を受け、グランツハイム家の令嬢として、一つ申し上げます」
呼吸を一つ。薔薇の蕾がまだ固いことを、視界の端で確認した。この庭園の薔薇が咲く頃、私はもうここにはいないだろう。
「聖女リリアーヌ様には、今後一切のご接触をご遠慮申し上げます。茶会のお招き、文のやり取り、社交の場でのご挨拶——そのすべてを、本日をもってお断りいたします」
沈黙が、ほんの数秒だけ続いた。
そして——笑いが起きた。
最初に噴き出したのは、隣のテーブルの伯爵令嬢だった。扇で口元を隠す仕草すら間に合わず、あからさまに肩を震わせている。それが合図になったように、あちこちで含み笑いが弾けた。
「まあ、負け惜しみもあそこまで行くと清々しいこと」
「接触をお断り、ですって。殿下に捨てられた腹いせに、聖女様を避けるとでも?」
「格好をつけても、中身はやはり——」
囁きのつもりなのだろうが、聞こえるように言っている。扇の陰の唇が、残酷な弧を描いていた。
背中に嘲笑が刺さる。昨夜の大広間と同じだ。けれど昨夜よりずっと近い距離で、ずっと鮮明に、一つ一つの声が耳朶を打つ。あの夜はまだ混乱と衝撃が盾になってくれた。今は違う。覚悟の上で、自ら嘲笑の的に立っている。
『笑え。笑いなさい。あなたたちの嘲りの一つ一つが、今日の証人になる』
私がリリアーヌとの接触を自ら断ったという事実は、この瞬間から公的な記録になる。六十人の貴族が目撃している。誰が何を言おうと、この宣言の後に私と聖女の間に接触記録が生まれることはない。冤罪の土台を、衆人環視の下で焼き払ったのだ。
それでも、笑われるのは痛い。覚悟していても、理屈で割り切れても、胸の奥が軋む。セラフィーナとして生きた十七年の記憶が、この場にいる令嬢たちとの幼い日の茶会を思い出させる。同じ庭園で、同じ銀の茶器で、笑い合った日があった。あの頃の友情が偽りだったのか、それとも今の嘲笑こそが偽りなのか——考えても詮ないことだった。
隣で、マルガレーテの息を呑む音が聞こえた。私の侍女は唇を白くなるまで噛みしめ、それでも一歩も退かずに控えている。後で彼女には礼を言わなければ。
「グランツハイム家として、聖女様のお務めを妨げる意図は一切ございません。むしろ——距離を置くことこそが、聖女様のお役目を尊重する最善の形と存じます」
言い終えて、静かに腰を下ろした。それだけだった。大仰な演説でもなければ、涙ながらの訴えでもない。淡々と、事務的に、一つの事実を公の場に刻んだ。それだけ。
嘲笑はまだ続いていたが、私はもう聞いていなかった。紅茶のカップを取り上げ、一口含む。冷めかけた紅茶の中に、庭園の風が運んできた若葉の匂いが混じっていた。
「お嬢様……」
マルガレーテが震える声で何か言いかけ、やめた。何を言えばいいかわからなかったのだろう。私もわからなかった。だから微笑んだ。できるだけ穏やかに。侍女の目の端に光るものが見えて、それ以上は見ないようにした。
笑い声が徐々に別の話題へ移っていく。私のことはもう消費し終えたのだ。退屈な茶会の余興として。それでいい。嵐はもう過ぎた。
紅茶を飲み干し、席を立とうとしたとき——庭園の奥から視線を感じた。
生垣際のレオンハルトが、まっすぐにこちらを見ていた。
腕組みを解いた姿勢。あの大広間の夜と同じ鉄灰色の双眸。けれど今日の目には、微かに——ほんの僅かに、違う色が混じっていた。試合を観る剣士の目ではない。対局者を見る目だ。私が指した一手の意味を正確に読み取り、その上で次の指し手を待っている、そういう目。
六十人の貴族の中で、この男だけが笑わなかった。昨夜も、今日も。
視線が交わったのはほんの一瞬だった。レオンハルトは何も言わず、何も頷かず、ただ鉄灰色の瞳で私を見据え——そして静かに視線を外し、生垣の向こうへ歩き去った。
心臓が一つ、大きく跳ねた。理由はわからない。いや——わからないふりをしているだけかもしれない。あの目に見透かされたような感覚。敵でも味方でもなく、ただ正確にこちらの手を読んでいるという事実が、嘲笑よりもずっと深く胸に刺さった。
『あの人は——何者なの。ゲームの攻略サイトには、隠しルートの解放条件しか載っていなかった。こんな人だとは、書いていなかった』
マルガレーテに目配せをし、席を離れた。庭園の出口に向かう足取りは、来たときよりも軽かった。嘲笑は痛かった。けれど、計画通りだ。冤罪の起点は断った。第二のフラグの土台は、今日この庭園で崩れ始めた。
馬車に乗り込み、庭園の門が遠ざかっていく。マルガレーテが向かいの座席でようやく肩の力を抜き、それでもまだ何か言いたげにこちらを窺っている。
「マルガレーテ、今夜の荷造りを手伝って頂戴」
「……お荷造り、でございますか」
「ええ。明日の朝、父上にお願いに上がるの。グランツハイム領の辺境——あの古い神殿があるあたりの視察に、私を遣わせてほしいと」
侍女の目が大きく見開かれた。辺境の視察など、令嬢の仕事ではない。まして断罪されたばかりの身で、王都を離れるなど。
けれど私の頭の中では、破滅フラグ管理表の次の項目がすでに明滅していた。第三のフラグ——領地反乱。あれは辺境の疫病が引き金になる。ならば、王都の社交界で笑われている暇はない。
『次の戦場は、辺境だ』
窓の外を夕陽が染めていく。王都の尖塔が茜色に輝き、その向こうに、まだ見ぬ辺境の空が広がっている。薔薇の蕾が開く季節を、私はもうこの街では迎えない。