第2話
第2話
それは夜明け前に来た。
カイが路地裏の木箱で浅い眠りについていたとき、大地が唸った。最初は遠雷かと思った。だが音は地の底から這い上がり、腹の奥を揺さぶり、やがて街そのものを鷲掴みにした。
石壁が軋む。積み上げられた木箱が崩れ、カイの体が投げ出された。咄嗟に頭を庇い、路地の壁に背を打つ。衝撃で息が詰まった刹那、視界の隅でレグノスの古い煉瓦壁に亀裂が走るのが見えた。粉塵が舞い、暗闇の中で何かが割れる鋭い音が連続する。
揺れは長かった。地鳴りが街の底を這い回り、建物の悲鳴と人々の叫びが折り重なって夜を切り裂いた。カイは壁に張りついたまま動けなかった。歯の根が噛み合わず、指先は石壁に爪を立てたまま白くなっている。路地裏で幾度も危険をくぐり抜けてきた体が、初めて自然の暴力の前に凍りついていた。
揺れが収まったとき、レグノスの夜明けは粉塵に塗り潰されていた。
表通りに出たカイの目に飛び込んだのは、変わり果てた街の姿だった。石畳は波打ち、中央広場に面した商家の壁が半ば崩れ落ちている。人々が寝間着のまま路上に溢れ、泣き叫ぶ子どもを抱える母親、瓦礫の下に誰かがいると怒鳴る男、血を流したまま呆然と座り込む老人。秩序は一夜にして剥がれ落ちた。
だがカイの足は表通りではなく、裏通りへと向かった。エルダの食堂だ。
走った。瓦礫を跨ぎ、倒れた荷車を回り込み、人波を縫って細い路地を駆け抜けた。息が切れる。脇腹が痛む。それでも足は止まらなかった。
食堂の古い扉は傾いていたが、建物は辛うじて持ちこたえていた。中に飛び込むと、竈の煉瓦が半ば崩れ、鍋が床に転がっている。割れた陶器の破片が足元で砕け、棚に並んでいたはずの香辛料の瓶が一つ残らず落ちて、混じり合った匂いが鼻を突いた。だが——エルダの姿はなかった。
「婆さんっ」
声が空振りに終わる。棚を確かめ、裏口を覗き、食堂の隅々まで見回したが、老婆の痕跡はどこにもなかった。竈の火は完全に消えている。灰に手を翳しても温もりは残っていなかった。昨夜のうちに店を出たのか。カイの胸に、冷たいものが落ちた。
---
ギルド本部は、被害の確認と救護に追われていた。
石柱の一本に罅が入り、正面の階段には砕けた破片が散らばっている。それでも建物の頑強さは旧領主館の面目を保っていた。広間には負傷者が運び込まれ、治癒術士が走り回り、職員たちが声を嗄らして情報を捌いている。
カイは広間の隅に身を寄せ、飛び交う声に耳を澄ませた。
「——北東丘陵の崩落が甚大だ。稜線が丸ごと陥没している」
「地下から瘴気が噴き出したとの報告。斥候が二名、気を失って搬送された」
「未踏ダンジョン……ギルド長が緊急会議を招集した」
瘴気。その言葉にカイの背筋が強張った。冒険者たちの武勇伝で幾度も聞いた言葉だ。ダンジョンの深層に溜まる毒の気。常人が吸えば意識を失い、長く晒されれば臓腑を蝕まれて死に至る。それが地上に噴き出しているのなら、ただの地震ではない。
やがて、ギルド長ガルドが広間に姿を現した。
壮年の大柄な男。顔の左半分を斜めに走る古傷が、過去の修羅場を物語っている。声は低く、だが広間の隅まで届いた。
「北東丘陵の崩落地点の直下に、未踏ダンジョンの出現を確認した。規模は不明。瘴気の濃度は過去の記録に例がない。A級調査隊を即座に編成し、入口の状況を把握する。——B級以下の者は崩落現場に近づくな。以上だ」
ざわめきが広がった。未踏ダンジョンの出現など、この地方では数十年に一度あるかないかの異変だ。冒険者たちの顔に緊張と、それ以上の興奮が浮かんでいた。
だがカイの耳は、次に聞こえてきた職員同士の会話に釘付けになっていた。
「崩落現場の付近で、住民が数名行方不明だ。裏通りの老婆が一人、夜明け前に薬草を摘みに丘へ出たきり戻っていないらしい」
「丘陵は完全に陥没した。瘴気が出ている以上、一般の捜索は——」
「不可能だな。A級調査隊の判断を待つしかない」
血の気が引いた。裏通りの老婆。薬草を摘みに丘へ。それはエルダ以外の誰でもなかった。
カイは広間を飛び出し、表通りに出た。空は白く曇り、北東の方角に目を向けると、丘陵の稜線があるべき場所に黒い靄が低く垂れ込めているのが見えた。瘴気だ。あの中にエルダがいる。
---
A級調査隊が出発したのは、昼過ぎだった。
カイは外壁の上から、五人の調査隊が北東へ向かうのを見送った。いずれも歴戦の冒険者だ。先頭を行く隊長の背には両手剣が斜めに掛けられ、その刃は午後の薄い陽光を受けても鈍く沈んだ色をしていた。実戦で使い込まれた武具の持つ、独特の重さだ。
だが一刻もしないうちに、彼らは戻ってきた。
「——駄目だ。入口から五十歩も進めん。瘴気が濃すぎる。浄化の護符が三枚、一瞬で焼け落ちた」
隊長の声が苦々しく響いた。ギルド前に集まった冒険者たちの間にどよめきが走る。A級が退いた。その事実の重さが、広場の空気を鉛のように沈ませた。
「まずは瘴気の減衰を待つ。学術院に浄化結界の術士を要請する。早くて三日——」
三日。カイは拳を握りしめた。爪が掌に食い込み、鈍い痛みが走ったが、手を開く気にはなれなかった。瘴気の中に三日。人の身がそれに耐えられるのか。エルダがもし崩落に巻き込まれていたら、怪我をしていたら。三日は——長すぎる。
日が暮れた。
カイはエルダの食堂に戻り、崩れかけた竈に背を預けて座り込んだ。暗い店内に、もう煮込み料理の湯気は立たない。冷えた空気の中に、かすかにエルダが使っていた薬草の香りだけが残っていた。
——お前の目は死んでないよ。
あの言葉が、胸の底から蘇る。
路地裏の孤児に、誰も目をくれなかった。七度の拒絶を重ねても、カイの横を通り過ぎる者は一人として足を止めなかった。エルダだけが違った。否定もせず、憐れみもせず、ただ真っ直ぐにカイの目を見て、そこに消えていないものを認めた。皺の深い手が差し出した椀のスープは薄味で、具も少なかったが、喉を下る温かさにカイの目頭が勝手に熱くなった。あの一杯がなければ、翌朝もう一度立ち上がろうとは思えなかっただろう。
それが何を意味するのか、カイ自身にも分からない。ただ、あの言葉がなければ、八度目の朝に立ち上がれたかどうか、それだけは分かる。
「——行くしかない」
声に出した瞬間、腹が据わった。
冒険者でもない。武器もない。瘴気への耐性も、ダンジョンの知識もない。A級が退いた場所に、路地裏の孤児が何をしに行くのか。答えは分からない。分からないが、行かなければならぬ理由だけは、胸の中に確かにある。
カイは食堂の裏口から、使い古しの包丁を一本抜いた。刃こぼれだらけだが、握ると手に馴染んだ。エルダが毎朝、野菜を刻むのに使っていた包丁だ。柄に染みついた油の匂いが、指の間からかすかに立ち昇った。棚に残っていた布切れを口元に巻き、水袋に水を詰める。それが全てだった。
夜の闇に紛れ、カイはレグノスの北東門をくぐった。
門番は崩落現場の警備に駆り出され、夜間の門はほぼ無人だった。街の灯りが背中に遠ざかる。足元の街道はやがて土の道に変わり、崩れた丘陵の斜面が行く手に黒々と横たわっていた。
瘴気の匂いを感じたのは、崩落地点の手前だった。腐った卵に似た硫気に、甘い腐臭が混じったような——本能が退けと叫ぶ匂い。布越しにそれを吸い込んだだけで、視界の端が歪んだ。
足が竦む。体が震える。
だがカイは、一歩を踏み出した。
崩落した丘陵の裂け目が、大地に穿たれた暗い口のように開いている。そこから立ち昇る瘴気の黒い靄が、夜風に揺れながらカイの足元に絡みついた。
奥は何も見えない。深さも分からない。ただ、はるか地の底から微かな振動が伝わってくる。大地の鼓動のような、あるいは何か巨大なものの呼吸のような律動。
カイは包丁を握り直し、裂け目の縁に片足をかけた。
振り返れば、レグノスの灯りがまだ見えた。あの街の路地裏に戻ることは、今からでもできる。木箱の寝床と、残飯のパン耳と、七度断られたギルドの受付。惨めでも安全な、知っている日常。
前を向けば、闇と瘴気と、何が潜んでいるかも分からぬ未踏の深淵。
カイは振り返らなかった。
暗闇の中に、体を滑り込ませる。大地の裂け目がカイを呑み込み、背後で夜空が細い線になって閉じていく。
この先に何があるのか、カイには分からない。ただ一つ確かなのは、あの温かいスープを作る皺だらけの手が、この闇のどこかにあるということだけだ。
地の底で、再び何かが脈打った。