第1話
第1話
腐った果実の甘い匂いが、路地裏の朝を告げていた。
交易都市レグノスの表通りには石畳が敷かれ、荷馬車の轍が規則正しく刻まれている。だが一本裏に入れば景色は一変する。崩れかけた煉瓦の壁に染みついた黴と、排水溝を流れる濁った水。陽の光が届かぬ細い路地に、少年は膝を抱えて座っていた。
カイ、と呼ばれている。姓はない。親の顔も知らない。齢は十四か十五か、正確なところは本人にも分からなかった。
朝靄がまだ路地の底に溜まっている時刻に、カイは身を起こした。寝床にしている木箱の隙間から這い出し、薄汚れた外套の埃を手で払う。腹の虫が鳴いた。昨夜の食事は、宿屋の裏口に出された残飯の中から拾った固くなったパンの耳が一切れきりだった。
「——今日はギルドの荷運びが入る日だ」
独り言を呟きながら、カイは路地裏の水溜まりで顔を洗った。冷たい水が頬を打ち、眠気の残滓を押し流す。濁った水面に映る己の顔は、痩せてはいるが、目だけが妙に光っていた。
冒険者ギルド本部は、レグノスの中央広場に面した石造りの巨大な建物だ。かつてはこの街を治めていた領主の館だったという。正面の石柱には古い紋章が刻まれ、その表面は無数の冒険者たちが触れて磨かれたように滑らかだった。今はギルドが街の実質的な統治機構を担い、冒険者の登録から依頼の斡旋、税の徴収に至るまで、すべてがこの建物を通して動いていた。
カイが裏口から滑り込むと、厨房の料理人が顎で荷を指し示した。
「樽を酒場まで運べ。六つだ。一つにつき銅貨二枚」
返事より先に体が動く。樽は一つ一つがカイの胴回りほどもあったが、膝を深く曲げ、背に担ぎ上げる要領はとうに身に染みていた。三往復で六つ。汗が額から顎を伝い、石の床に落ちる。樽の木肌に染みた酒精の匂いが鼻を刺し、肩の筋が悲鳴をあげたが、カイは一度も足を止めなかった。
銅貨十二枚。パンが二つ買える。
荷運びを終えたカイは、酒場の隅に身を潜めた。まだ昼前だというのに、数組の冒険者たちが卓を囲んで杯を傾けている。炉で焼かれる肉の脂が爆ぜる音、卓を叩く拳の振動が床板を通じて足裏に伝わってくる。カイの目当ては酒ではない。彼らの口から零れる言葉だった。
「——東の森のワイバーンな、翼の付け根に風の刃を叩き込んだら一撃だったぜ」
「馬鹿言え。お前が囮で走り回ってる間に、俺が背後から心核を貫いたんだろうが」
男たちの笑い声が酒場に響く。傷だらけの腕、使い込まれた剣、腰に下がる魔石の袋。冒険者とは、己の身一つで世界に挑み、名を刻む者たちだ。カイは柱の影で拳を握り、その言葉の一つ一つを胸に焼きつけた。
やがて男たちが席を立つと、カイは空いた卓の食器を素早く片付けにかかった。皿に残ったシチューの底を指で拭い、誰にも見られぬよう口に運ぶ。冷めた羊肉の脂が舌の上で溶け、束の間の満足が腹に落ちた。
「——おい、坊主」
声をかけてきたのは、受付窓口の脇に立つ中年の職員だった。カイが食器を下げにきたのを見咎めたのだろう。
「また来たのか。何度言えば分かる。冒険者登録には身元保証人が必要だ。保証人のいない孤児には、登録証は出せん」
「分かってます」
カイは視線を落とさなかった。職員の目を真っ直ぐに見返し、それから静かに踵を返した。懇願はしない。怒りも見せない。ただ、今日もまた一つ、この扉が開かなかったという事実だけを胸に刻む。
表通りに出ると、午後の陽射しがレグノスの石壁を白く照らしていた。荷馬車が行き交い、商人たちの怒号と値切りの声が飛び交う。この街は金と力で回っている。どちらも持たぬ者は、路地裏で朽ちるか、街の外に放り出されるかだ。
カイの足は、裏通りの奥まった一角へ向かっていた。
看板すらない古びた食堂。扉を押すと、煮込み料理の湯気と、乾いた薬草の匂いが混じった空気が頬を撫でた。
「エルダ婆さん、今日も椅子を借りる」
竈の前に立つ老婆は振り向きもしなかった。白髪を無造作に束ね、皺だらけの手で鍋をかき混ぜている。小柄な体躯だが、背筋だけは不自然なほど真っ直ぐだった。
「勝手にしな。ただし皿洗いはやれ」
カイは黙って腕をまくり、積まれた皿に手を伸ばした。冷たい水に指を浸す。ここでの皿洗いは銅貨にはならないが、代わりにエルダが一杯のスープを出してくれる。それがカイにとって、一日で唯一のまともな食事だった。
皿を洗い終えたカイの前に、湯気の立つ椀が置かれた。豆と根菜の素朴なスープ。口に含むと、じんわりとした温かさが喉から腹の底まで沁みていく。カイは目を閉じた。この味だけが、自分がまだ人間であることを思い出させてくれる。
「婆さん」
「なんだい」
「俺、いつか冒険者になる」
エルダの手が一瞬止まった。鍋をかき混ぜる柄杓が、中身を一度だけ叩いた。
「ギルドに断られたんだろう。何度目だい」
「七度目」
「呆れた子だよ」
老婆はようやくカイに目を向けた。深い皺に埋もれた瞳が、炉の炎を映して揺れている。元A級冒険者だったと街の古い者は言うが、エルダ自身はその過去について何一つ語らない。
「婆さんなら分かるだろ。俺がどうしたいか」
「知らないね。あたしは飯を炊くだけの婆さんだ」
突き放すような声。だがエルダはスープの椀をもう一杯、カイの前に押し出した。
「ただ——お前の目は死んでないよ。それだけは確かだ」
その言葉を聞いた瞬間、カイの喉の奥が詰まった。誰かに面と向かって肯定の言葉をかけられたのは、いつ以来だろう。路地裏では、孤児に声をかける者は物を奪うか、追い払うかのどちらかだ。カイは返す言葉を見つけられず、ただ椀を両手で包み込んだ。陶器越しに伝わるスープの温もりが、冷えきった指先にじわりと沁みた。
カイは二杯目のスープを一息に飲み干した。言葉にならない何かが胸の奥で渦を巻いていた。認められたわけではない。背中を押されたわけでもない。ただ、否定されなかった。それだけで、明日もまた立ち上がれる気がした。
日が傾き始めた頃、カイはレグノスの外壁に続く石段を登っていた。
この街の外壁は、かつての戦乱の名残だ。高さ十間ほどの灰色の壁が街を囲み、四方の門から街道が延びている。壁の上に立てば、レグノスの街並みが一望できると同時に、壁の外に広がる世界もまた、目の前に開けた。
西に沈みゆく陽が、荒野を赤く染めていた。
起伏の続く丘陵地帯。その向こうに、まだ誰の名も刻まれていない未踏の大地が横たわっている。風が吹いた。乾いた土の匂いと、かすかに混じる草の青さ。カイの外套の裾が揺れ、痩せた体に夕風が纏わりついた。
眼下では、北門から帰還する冒険者の一団が見えた。傷を負い、それでも笑い合いながら門をくぐる彼ら。その背中には、カイがまだ知らない世界の重みが乗っていた。
カイは壁の縁に立ち、荒野に向かって右の拳を突き出した。
身元もない。金もない。名すらない。持っているものは何もない。——いや、一つだけある。この胸の奥で燃え続けている、言葉にもできぬ熱い塊。七度断られても消えなかった渇望。百度断られたところで、折れるはずもなかった。
「いつか——あの向こうに行く」
誰に聞かせるでもない声が、夕暮れの風に攫われて消えた。
拳を下ろさぬまま、カイは荒野の彼方を見据え続けていた。壁の下では街の灯が一つ、また一つと灯り始めている。冒険者ギルドの酒場からは、今夜もまた武勇伝の笑い声が響いてくるのだろう。
その喧騒の中に、まだ己の席はない。
だが——いつまでもないとは限らない。
レグノスの外壁を吹き抜ける風が変わった。北東の丘陵の向こうから、季節にそぐわぬ冷たい気配を孕んだ風。カイの肌が粟立つ。この風は知らない。この街で十余年を過ごして、こんな風を感じたことは一度もなかった。
丘陵の稜線に目を凝らす。陽はすでに沈みかけ、空と大地の境が曖昧に溶け合っている。その境界線の一点が、ほんの僅かに——揺らいだように見えた。
気のせいだ、とカイは思おうとした。だが拳を握る指先が、微かに震えていた。それは寒さのためではなかった。理由の分からぬ胸騒ぎが、心臓を内側から叩いている。まるで、自分の知らない何かがすぐそこまで迫っていて、逃げ場のない道へ足を踏み入れようとしているかのような——そんな予感だった。
大地の底で、何かが目覚めようとしている。
まだ誰も知らない。カイ自身でさえも。