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倫敦の悪魔、薬草畑で謎を解く

第1話 第1話

第1話

第1話

朝靄のなかで、薬草の匂いがした。土と、緑と、かすかな苦味。それが今の自分の世界のすべてだと、アルトは思うことにしている。

膝をついて畝に手を入れる。指先が湿った土を掻き分け、雑草の根を探り当てた。冷たい土の感触が爪の間に入り込み、微かな痺れとともに朝の温度を伝えてくる。セージの株元に絡みついた蔓草を丁寧に剥がし、根ごと引き抜く。蔓草は思いのほか深く根を張っていて、引き抜いた瞬間、湿った土が小さく音を立てて崩れた。崩れた土の中から、白い根の断面が覗く。切り口から青臭い汁が滲み、セージの芳香と混ざり合って、畑特有の生々しい匂いを作り出した。前世の自分なら、こんな作業に一秒たりとも費やさなかっただろう。あの頃の自分にとって、世界とは解くべき暗号の集積であり、人間とは読み解くべきテクストだった。

「もう、やめたんだ」

声に出して言う癖がついたのは、いつからだろう。この五年で身についた、自分への言い聞かせ。推理という刃を封じるための、日々の儀式のようなものだ。声は朝靄に吸い込まれ、反響もなく消えていく。その手応えのなさが、かえって安心をくれた。誰にも届かない言葉。誰も傷つけない言葉。

ヴェルデンは、大陸の西端に位置する人口三百ほどの田舎町だ。特産品は麦と蜂蜜。街道から外れた丘陵地帯にあり、行商人すら月に二度しか来ない。ここには事件が起きない。起きようがない。だからこの町を選んだ。

畝の端まで除草を終えると、アルトは立ち上がって腰を伸ばした。東の稜線から朝日が昇り始め、畑一面の薬草が金色に縁取られる。ローズマリー、カモミール、タイム。朝露を纏った葉が光を弾き、畑全体がひとつの宝石箱のように輝いている。前世の薬学知識を活かして栽培を始めたのが三年前。今では町医者のグスタフに定期的に卸すまでになった。

納屋に戻り、昨晩焼いておいた菓子を籠に詰める。蜂蜜とバターを練り込んだ素朴な焼き菓子。隣家のマルタ老婆が好む、少し固めの焼き加減だ。籠に布を被せるとき、焼き菓子の甘い匂いがふわりと立ち上った。蜂蜜の花のような香りに、バターの濃厚さが重なる。この匂いを嗅ぐたび、自分がこの世界の住人であることを実感する。

マルタの家まで、畑道を五分ほど歩く。途中、牧草地で羊の群れが朝露に濡れた草を食んでいるのが見えた。羊飼いのヨハンが手を振る。アルトも振り返す。それだけの、それだけでいい朝だった。

「マルタさん、焼き菓子を持ってきました」

木戸を叩くと、しわがれた声が奥から返ってくる。

「ああ、アルト。入っておくれ」

暖炉の前の揺り椅子に腰かけたマルタが、皺だらけの顔で笑う。暖炉では薪がぱちぱちと爆ぜ、部屋全体に乾いた木の香りが満ちている。窓から差し込む朝日が、マルタの白髪を柔らかく照らしていた。八十を超えた彼女は足が悪く、ここ数年は外出もままならない。アルトが週に三度、焼き菓子や薬草茶を届けるのが日課になっていた。

「明日は収穫祭だね。今年も広場に出るのかい」

「ええ。薬草茶の試飲を出そうと思って」

「あんたが来てから、この町は薬草に困らなくなったよ。ありがたいことだ」

マルタが菓子を一つ手に取り、満足そうに齧る。乾いた小気味よい音が部屋に響いた。アルトはその横顔を眺めながら、胸の奥が温かくなるのを感じた。こういう瞬間のために、あの力を捨てたのだ。

——だが、ふとした拍子に、それは蘇る。

マルタの指先。菓子を持つ右手の薬指に、わずかな震えがある。三週間前にはなかった症状だ。左手の甲に浮かぶ斑点の色も変わっている。紫がかった褐色が、以前より輪郭を増している。これは——。

アルトは視線を逸らした。意識して、観察を止める。暖炉の炎を見つめ、揺れる光の残像で脳裏の分析を塗り潰そうとした。だが炎の揺らぎの向こうに、マルタの指が震える残像がちらつく。観察しようとしているのではない。一度見えてしまったものは、消せない。それが前世から持ち越した呪いだった。

前世の記憶が、針のように刺す。ロンドンの霧の中、死体の爪の色から毒物を特定した夜。被害者の歩行パターンから犯人の身長を割り出した朝。すべてが精密に噛み合い、すべてが正解に至り——そしてその正解が、一人の人間を破滅させた。

「倫敦の悪魔」。それが前世の自分につけられた異名だった。推理の刃は鋭すぎた。真実を暴くたびに、誰かが傷ついた。最後には、最も近くにいた人を。

名前すら、もう思い出したくない。

「アルト? どうしたんだい、ぼうっとして」

「いえ。——菓子、お口に合いましたか」

「固さがちょうどいいよ。あんたは分かってるね」

分かっている。人を観察する力が、焼き菓子の固さを合わせることに使われている。それでいい。それが、今の自分だ。

マルタの家を辞し、町の中心部へ向かう。収穫祭の準備で、広場は朝から賑わっていた。パン屋のエルマが天幕を張り、肉屋のフリッツが燻製肉を並べている。子供たちが走り回り、誰かが笛を吹いている。焼きたてのパンと燻製の煙が混じり合った匂いが広場を満たし、笛の音色が石畳に反響して、どこか遠い祭りのように聞こえた。五年間で見慣れた、変わらない光景。

広場の中央に、石碑がある。町の創設を記念して建てられたという、高さ二メートルほどの灰色の石柱。表面には風化した装飾が施されているが、何が刻まれているのかは判読できない。アルトはこれまで、特に気に留めたことはなかった。古い記念碑。それ以上でも以下でもない。

天幕の設営を手伝い、エルマからパンの端切れをもらい、井戸端でヨハンと立ち話をする。午後になると薬草茶の仕込みのために自宅へ戻り、夕暮れまで乾燥棚の整理をした。穏やかで、予定通りで、何も起きない一日。

それでいい。

日が落ちてから、もう一度だけ広場を確認しておこうと思った。明日の出店位置を目で測っておきたかった。それだけの、些細な理由だった。

月明かりの広場に、人影はない。準備を終えた天幕が夜風に揺れている。昼間の喧騒が嘘のように静まり返り、自分の靴が石畳を踏む音だけが妙に大きく響いた。アルトは自分の出店位置を確認し、踵を返しかけた。

足が止まった。

石碑だ。

月光に照らされた灰色の表面に、一筋の線が走っている。昼間にはなかった線だ。上部から下部にかけて、石碑を縦断するように——亀裂。

アルトは二歩、近づいた。そして三歩目で止まった。

亀裂の内側から、何かが覗いている。黄ばんだ紙のようなもの。——羊皮紙だ。石碑の内部に、羊皮紙が封じられていた。古い獣脂の匂いが、亀裂の隙間から微かに漂ってくる。何十年、あるいは何百年もの間、石の中で眠っていたものの匂いだった。

月明かりに目を凝らす。羊皮紙の表面に、記号が並んでいる。それを見た瞬間、アルトの背筋を冷たいものが駆け上がった。

知っている。

この配列を、この構造を、知っている。前世の記憶の底に沈めたはずの、あの暗号体系。ヴィジュネル変型の多層式換字暗号。かつて犯罪組織の通信を解読するために、何ヶ月もかけて体系化した、あの——。

なぜ、異世界の田舎町の石碑に、それがある。

アルトは自分の手が震えているのに気づいた。寒さのせいではない。封じたはずの回路が、勝手に起動しようとしている。記号の配列が脳裏で分解され、候補となる復号鍵が次々と浮かび上がる。止めろ。止めろ。これは自分の世界ではない。こめかみの奥で血管が脈打ち、視界の端が研ぎ澄まされていくのが分かる。五年かけて鈍らせた感覚が、たった数秒で元に戻ろうとしている。

拳を握り、爪を掌に食い込ませた。痛みで、思考が止まる。半月型に食い込んだ爪痕が、じわりと熱を持った。その鈍い痛みにすがるように、アルトは呼吸を整えた。

「見なかったことにする」

そう呟いて、アルトは広場に背を向けた。月光が石碑の亀裂を白く照らしている。羊皮紙の記号列が、まるで招くように風に揺れていた。背を向けてもなお、記号の残像が視界に焼きついている。最初の三文字の配列。あれは鍵長が五以上の——。アルトは首を振った。振り払うように、早足で広場を離れた。

自宅の戸を閉め、寝台に横たわる。天井の木目を見つめながら、呼吸を整えた。明日は収穫祭だ。薬草茶を淹れて、マルタに椅子を持っていって、子供たちに飴を配る。それだけでいい。

だが眠りに落ちる直前、アルトの耳が拾ったのは、広場の方角から聞こえるかすかな足音だった。一人ではない。複数の、息を殺した足音。まるで示し合わせたように、夜の広場へ集まっていく——町の住民たちの気配だった。

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