第2話
第2話
夜明け前に目が覚めた。眠れなかったと言うべきかもしれない。
昨晩の足音が耳の奥にこびりついている。複数の人間が息を殺して広場へ向かう気配。あれは夢ではない。寝台の上で何度も寝返りを打ちながら、アルトは足音の数を無意識に数えていた自分に気づいていた。少なくとも十二人。足を引きずる者が一人、杖をつく者が一人。杖の間隔と重さから体格は——。
やめろ。
顔を洗い、身支度を整える。井戸水は指先が痺れるほど冷たく、その冷たさが思考の輪郭をいくらか鈍らせてくれた。今日は収穫祭だ。薬草茶の仕込みは昨日済ませてある。乾燥カモミールと蜂蜜を合わせた、この町の子供たちが好む甘い配合。それだけ考えていればいい。
だが戸を開けた瞬間、朝の空気がいつもと違うことに気づいた。匂いだ。祭りの朝なら、エルマのパン窯の煙が南風に乗って届くはずだった。今朝はそれがない。代わりに広場の方角から、低い話し声がかすかに聞こえる。
出店の荷物を担いで広場へ向かった。足が速まるのを意識して抑えた。好奇心ではない。祭りの準備があるからだ。そう自分に言い聞かせながら、丘を下る。朝露に湿った草が靴底を滑らせ、荷物の紐が肩に食い込んだ。
広場に着いて、足が止まった。
石碑が、割れていた。
昨夜の亀裂が走っていた箇所を軸に、真っ二つに。左半分は根元から倒れ、石畳の上に横たわっている。倒れた衝撃で角が欠け、灰色の破片が周囲に散っていた。そして割れた断面から、羊皮紙が完全に露出している。獣脂で処理された厚手の皮。保存状態は驚くほど良い。石の内部が密閉空間として機能し、湿気と光を遮断していたのだろう。
羊皮紙の表面に並ぶ記号列が、朝日に照らされて鮮明に浮かぶ。
見るな。
見てしまった。
配列の最初の八文字。鍵長は六。繰り返し周期の歪みから、単純なヴィジュネルではなく、変換表自体が動的に変化する多層構造。前世で「回転暗号」と呼んでいた体系の特徴と一致する。だがこれは——この世界の、名も知れぬ田舎町の、数百年前の石碑だ。前世の犯罪組織が使っていた暗号体系と同一の構造が、なぜここにある。
偶然の一致か。あるいは——。
思考を遮断するように、視界に人影が入った。広場の周囲に、住民たちが集まっている。だが誰一人、石碑に近づこうとしない。普段なら大騒ぎになるはずの異常事態を前に、住民たちは奇妙なほど静かだった。
パン屋のエルマが天幕の支柱を握ったまま固まっている。肉屋のフリッツは燻製肉の木箱を地面に置いたきり、広場の反対側を向いている。子供たちの姿がない。祭りの朝に子供がいないのは、五年間で初めてだった。
そして、誰も石碑を見ていなかった。
正確に言えば、見ないようにしていた。エルマの目線の動きがそれを裏付けている。彼女は三秒おきに石碑の方角へ視線を走らせ、即座に逸らすことを繰り返していた。意識して見ないようにするとき、人間は逆に対象を頻繁に確認する。見てはいけないと分かっているから、見てしまう。前世で何度も観察した行動パターンだった。
「おはようございます、エルマさん。今日の——」
「ああアルト、おはよう。天幕はそっちに張ってくれるかい。——ちょっと、今朝は忙しくてね」
エルマの声は平静を装っていたが、語尾がわずかに上擦っていた。視線はアルトの顔ではなく、左肩のあたりに固定されている。これは——嘘をつくときの癖ではない。恐怖だ。何かを恐れている。
石碑を指差して訊こうとした。だが言葉を発する前に、広場の北側から太い声が響いた。
「皆、少し下がってくれ」
町長のバルトだった。白髪交じりの顎髭を蓄えた、六十過ぎの大柄な男。普段は温厚で声を荒らげることのない人物だが、今朝の声には有無を言わせぬ鋭さがあった。背後に若い男が二人従っている。手に縄と杭を持っていた。
町長は倒れた石碑を一瞥し、それから住民たちの顔を見回した。その視線は確認だった。全員がここにいるか。全員が見たか。そして全員が、何をすべきか分かっているか。
「石碑は老朽化で倒壊した。危険だから立入禁止にする。祭りの会場は東寄りに移す。——それだけだ」
それだけのはずがなかった。
数百年を耐えた石碑が、昨夜突然倒壊する。内部に封じられていた羊皮紙。そして住民たちのこの反応。誰も驚いていない。誰も質問しない。老朽化という説明を、全員が黙って受け入れている。いや、受け入れているのではない。あらかじめ知っていたのだ。昨夜、広場に集まった足音。彼らは石碑の異変を、アルトよりも先に知っていた。
若い男たちが杭を打ち、縄を張って石碑の周囲を囲い込んでいく。羊皮紙はそのままだった。回収しようとする者はいない。触れてはならないものとして、そこにある。
アルトは自分の出店位置で薬草茶の準備を始めた。湯を沸かし、カモミールを量り、蜂蜜の壺を並べる。指先は作業に集中していた。だが頭の中では、先ほどの八文字が像を結んだまま消えなかった。
祭りは予定通りに始まった。笛が鳴り、子供たちが広場に戻ってきた。焼き菓子の匂いが漂い、蜂蜜酒の樽が開けられた。表向きは、いつもの収穫祭だった。東に寄せられた会場配置を除けば。
だが注意して見れば、違和感は至るところにあった。大人たちの会話が不自然に弾んでいる。笑い声が一瞬遅い。誰かが縄の内側に目をやるたびに、別の誰かが大きな声で話題を変える。
マルタの姿がなかった。足が悪いから祭りに来ないのは珍しくない。だが例年なら、アルトに椅子を運んでくれと頼むのが常だった。今朝はその依頼がなかった。
「見なかったことにしよう」
呟いて、薬草茶を注ぐ。子供たちが列を作る。一人一人に笑いかけ、茶を手渡す。温かい陶器の感触が掌に伝わる。湯気がカモミールの甘い香りを運び、受け取った子供が両手で器を包み込んで目を細める。これが自分の居場所だ。暗号でも推理でもなく、薬草茶を淹れて子供たちに配る、ただの隣人。
夕暮れに祭りが終わり、後片付けを済ませて帰宅した。疲れていた。湯を使い、寝台に入る。今夜こそ眠れるはずだった。
眠れなかった。
深夜、寝返りを打った拍子に窓の外を見た。見るつもりはなかった。だが月明かりに照らされた通りに、人影が動いていた。
一人、二人、三人。声を潜め、足音を殺して、広場の方角へ歩いていく。昨夜と同じだ。だが今夜は数が多い。五人、八人——。窓枠に手をかけて身を乗り出すと、通りの奥からさらに人影が現れた。老人も若者もいる。フリッツの太い肩幅。エルマの小柄な輪郭。ヨハンの緩い足取り。顔までは見えないが、五年間毎日顔を合わせてきた住民たちの体格と歩き方を、アルトの目は正確に識別していた。
町のほぼ全員が、深夜の広場に集まろうとしている。
アルトだけを残して。
窓から手を離し、寝台に戻った。天井の木目を見つめる。心臓が脈打つ速度が上がっているのを自覚する。これは好奇心ではない。不安だ。五年間、この町の一員だと思っていた。マルタに菓子を届け、エルマからパンをもらい、ヨハンと羊の話をした。それは本物の日常だったはずだ。
だが今、この町には自分の知らない層がある。全員が共有し、自分だけが排除されている秘密。石碑の中身を知っていた。亀裂を知っていた。そして夜ごと集まって、何かをしている。
枕に顔を押しつけた。毛織物の粗い繊維が頬にあたる。考えるな。推理するな。隣人であり続けろ。そう念じながら、暗号の八文字がまぶたの裏で明滅していた。鍵長六。動的変換表。前世で「螺旋暗号」と分類した亜種。解読には最低でも三十二文字の暗号文が必要で、羊皮紙に見えた分量ならば——。
アルトは目を開けた。
広場から、低く、くぐもった詠唱のような声が聞こえた。一人ではない。何十人もの声が重なり、夜風に乗って窓の隙間から忍び込んでくる。それは祈りにも、誓いにも聞こえた。声の底に、かすかな震えがあった。畏れを含んだ響き。
五年間、一度も聞いたことのない声だった。