第2話
第2話
翌朝、目が覚めた瞬間から足の裏が疼いていた。
昨夜は眠れなかった。正確には、眠りかけるたびに足裏を這い上がる振動で意識が引き戻された。布団の中で何度も寝返りを打ち、枕に顔を押しつけても振動だけは遮断できなかった。それは骨を伝って脛を昇り、膝の裏側でじんわりと溜まるような不快さだった。午前三時を回った頃にようやくそれが途絶えて、泥のような眠りに落ちた。起きてからも身体の芯に重さが残っている。鏡に映った自分の顔は、目の下に薄い隈を貼りつけていた。
教室に入ると、いつも通りの朝だった。真壁が取り巻きと笑い合い、窓際で炎熱系の桐嶋がスマートフォンをいじっている。誰一人、昨日の振動に気づいた様子はない。当たり前だ。あれを感じ取れたのは俺だけなのだから。教室に充満する雑談の声が、妙に遠い。自分だけが別の周波数で世界を受信しているような、薄い膜一枚を隔てた孤立感があった。
一限の座学を受けながら、椅子の脚を通じて床の振動を拾い続けていた。昨夜の鼓動はまだ沈黙したままだ。だが消えたわけじゃない。肌が覚えている。地下十メートルに眠るあの気配は、確実に昨日より膨らんでいた。教壇では能力基礎論の講師が異能の分類体系について淡々と語っている。感知系、C級——スライドに映し出されたその文字列が、いつもより深く刺さった。
二限、三限。ノートを取る振りをしながら、俺はひたすら校庭の中央付近の地下に意識を向けていた。四限が終わって昼休みのチャイムが鳴った時、ようやくそれは来た。
足裏どころじゃない。椅子が、机が、教室の床全体が震えた。
「地震?」
誰かが声を上げた。教室がざわつく。窓の外を見た生徒が、悲鳴に近い声を出した。
「校庭——校庭見ろ!」
俺は窓際に走った。三階の教室から見下ろした校庭の中央に、それはあった。
空間が裂けていた。
比喩じゃない。文字通り、空気に亀裂が入っている。亀裂は縦に二メートルほど走り、そこから透明な光が溢れていた。光は液体のように広がり、地面を覆い、ドーム状に膨張していく。
直径五メートル。十メートル。二十メートル——。
半透明のドームが校庭を飲み込んでいった。昼食を校庭で食べていた生徒たちが弁当を放り出して走る。怒号と悲鳴が重なって、一つの巨大なノイズになった。ドームは直径三十メートルで膨張を止めた。半透明の膜は虹色の干渉縞を帯びて脈動している。俺の肌がその脈動を正確に拾い上げた。
昨夜の振動と、同じ周波数。
間違いない。地下で眠っていたものが、目を覚ました。
校舎から生徒が雪崩のように飛び出してきた。教師たちが叫んで避難誘導を始める。だが逃げる者より、ドームに近づこうとする者の方が多かった。ここは能力者の学園だ。未知の現象は恐怖であると同時に、好奇心の対象でもある。
「全員下がれ!」
鋭い声が校庭を切り裂いた。生徒の群れが反射的に割れる。その隙間を縫って歩いてくる長身の影——風紀委員長、九条蓮。A級の結界術士。学園最強の一角と目される三年生だ。
九条はドームの前で立ち止まり、右手を翳した。淡い青の結界光が指先に灯る。
「構造を調べる。誰も近づくな」
冷静な声だった。九条の結界光がドームの表面に触れた——瞬間、青い光が弾け飛んだ。九条の身体が三メートル後方に押し戻される。地面に両足で着地した九条の目が、初めて大きく見開かれた。
「弾かれた……?」
ざわめきが広がった。A級の九条蓮が弾かれた。その事実が生徒たちの間を電流のように駆け抜ける。
「俺が行く」B級の身体強化系、体育科の大鷹が前に出た。全身を鋼のように硬化させ、体当たりするようにドームに突っ込む。膜に触れた瞬間、大鷹の巨体が紙のように弾き飛ばされた。地面を転がって、花壇のブロックに背中からぶつかる。鈍い呻き声。硬化を解いた大鷹の腕が、小刻みに震えていた。
C級の念動系。C級の氷結系。次々と生徒が試みて、次々と弾かれた。能力の種類もランクも関係ない。ドームは等しく全てを拒絶した。
俺は校舎の三階から階段を駆け下り、校庭に出ていた。人混みの後方で足を止める。ここからでもドームの気配は肌を刺すほど鮮明に感じ取れた。
膜の脈動。あの周波数。昨夜から俺の足裏にへばりついていたものと寸分違わない。
「政府に連絡した。能力者部隊が来るまで全員退避しろ」
教官の藤堂さんが拡声器で怒鳴っている。だが生徒の半数以上がスマートフォンを構えてドームを撮影していた。SNSにはもう上がっているだろう。
十五分後、黒い車列が校門を潜った。統制能力局の紋章を車体に貼った装甲車が三台。完全武装の能力者部隊が展開し、校庭にバリケードを張り始める。
「学園関係者は全員校舎内に退避。半径五十メートルを封鎖する」
部隊長らしき男が無線機に向かって指示を出している。ドームの周囲に計測機器が設置され、白衣の技術者が何かの数値を読み上げていた。
「エネルギー反応、計測不能。既知のどの異能パターンとも一致しません」
「適応型ダンジョンの可能性は」
「排除できません。ただし自然発生型にしては構造が規則的すぎる……」
退避命令を無視した生徒たちが窓から身を乗り出して見ている。俺もその一人だった——いや、違う。俺は見ているのではなく、感じていた。
膜の向こう側から、何かが呼んでいた。
気配としか言いようがない。ドームの内部から、俺の感知能力だけに届く微かな信号。低く、律動的で、まるで心臓の鼓動のようなリズムを刻んでいる。昨夜から足裏に残っていた余韻が、その信号と完全に同期していた。
呼ばれている。
理屈じゃない。身体が知っている。あのドームは俺を拒絶しない。根拠はない。けれど二年間、誰にも認められなかった感知能力が、今この瞬間だけは異様な確信を俺に与えていた。
「全生徒、校舎内に戻れ!」
藤堂さんの声で我に返った。生徒たちが渋々校舎に押し込まれていく。窓から覗く無数の顔。スマートフォンの画面に映るドームのライブ配信。
俺は校舎に入らなかった。人の流れに逆らって、校庭の端に残った。バリケードの内側では能力者部隊がドームに対してさまざまな干渉を試みている。結界、衝撃波、念動——全て弾かれた。政府のA級能力者すら例外ではなかった。弾かれるたびに部隊員の表情から余裕が削れていくのが、離れた場所からでもわかった。
部隊長の声がバリケード越しに聞こえた。
「封鎖を継続。本省に増援を要請する。ドーム内部の情報が得られるまで、一切の接触を禁止」
封鎖。遮断。様子見。それが政府の判断だった。正しい判断なのだろう。未知の現象には慎重に対処すべきだ。だが俺の肌は別のことを訴えている。
ドームの内側で脈打つ気配は、時間を追うごとに強くなっている。これは待ってくれるものじゃない。
肌が拾い上げる信号の中に、切迫した何かがあった。昨夜感じた「目覚め」の気配とは質が違う。成長している。膨張している。ドームの地下で、根のようなものが四方に伸び始めている——その感覚が、じわりと輪郭を帯びてきていた。校舎の基礎杭に触れかけている根の先端を、足裏が捉えた。時間がない、と直感が叫んでいた。
俺は自分の右手を見下ろした。紙コップを三センチ動かすだけの手。記録係の手。誰にも必要とされなかった、この手。指先がわずかに震えていた。恐怖なのか、それとも初めて自分の力が意味を持つかもしれないという予感に身体が反応しているのか、自分でもわからなかった。
あの膜の向こうから届く呼び声だけが、二年間で初めて俺の力を名指しで求めていた。
バリケードの向こうで部隊長が無線に怒鳴っている。技術者がデータを分析している。九条蓮が弾かれた右手を握り締めて、ドームを睨んでいる。その横顔には、学園最強と呼ばれる者が初めて味わう無力の色が滲んでいた。
誰にも、あの内側は見えない。
でも俺には、聞こえている。
校舎の三階の窓から、真壁がスマートフォンでドームを撮影しているのが見えた。その隣で藤堂さんが出席簿を抱えている。「御影、戻って来い」と口が動いているのが読み取れた。
俺は足裏に響く鼓動を踏みしめて、その場に立ち続けた。