第3話
第3話
足裏の鼓動が、心臓と同期していた。
バリケードの外側で立ち尽くす俺の周りを、統制能力局の部隊員が慌ただしく行き交っている。無線の怒号、計測機器の電子音、校舎の窓から漏れる生徒たちのざわめき。それら全てが遠い。俺の感覚はドームの内側だけに焦点を結んでいた。
呼んでいる。さっきより強く。さっきより近く。
膜の脈動が変わった。それまで一定だったリズムが、俺が近づくにつれて速くなっている。まるで俺の存在を感知して、応答しているように。
「御影! 何をしている、校舎に戻れ!」
藤堂さんの声が背後から飛んできた。振り返らなかった。足が勝手に動いていた。バリケードのロープを潜り、部隊員の隙間を縫って、ドームに向かって歩いている。自分の意思なのか、呼ばれて引き寄せられているのか、その境界が曖昧だった。ただ足裏が示す方向に、一歩、また一歩。
「おい、生徒が入ってるぞ! 止めろ!」
部隊員が叫んだ。背後で複数の足音。誰かの手が肩に伸びてくる気配を感じた。だがその手が届くより早く、俺はドームの膜の前に立っていた。
虹色の干渉縞が目の前で脈打っている。A級の九条蓮を弾き、政府の部隊員を弾き、あらゆる能力者を拒絶した膜。俺はゆっくりと右手を持ち上げた。紙コップを三センチ動かすだけの、何の力もない手を。
指先が膜に触れた。
水面に指を沈めるような感触だった。抵抗がない。虹色の干渉縞が俺の指先を中心に波紋を広げ、膜が円形に開いていく。冷たい空気が内側から吹き出して、前髪を揺らした。
背後で、音が消えた。
正確には、俺の周囲だけが静寂に包まれたのだ。部隊員の怒号も、生徒の悲鳴も、全てが膜一枚の向こう側に遠ざかる。開いた膜の縁が淡い光を放って、俺を招いていた。
一歩、踏み入れた。
衝動だった。計算でも覚悟でもない。二年間ずっと空振りし続けた感覚器官が、初めて「ここだ」と叫んでいた。その声に従った。ただそれだけのことだった。
二歩目を踏んだ瞬間、背後で膜が閉じる音がした。振り返ると、虹色の壁が俺の鼻先三十センチで脈打っている。向こう側に部隊員たちの影がぼんやりと見えた。拳で膜を叩いている者。無線に叫んでいる者。その音は一切届かない。
戻れない。その事実が腹の底にすとんと落ちた。恐怖より先に、奇妙な静けさが胸を満たした。
振り返って、内側を見た。
白かった。
床も壁も天井も、継ぎ目のない白で構成されている。蛍光灯の光とは違う、物質そのものが発光しているような白。通路は幅三メートルほどで、緩やかにカーブしながら奥へ続いていた。天井までの高さは四メートル。音がない。自分の呼吸と心臓の音だけが、やけに鮮明に聞こえた。
迷宮だ。
一歩踏み出すと、靴底が硬質な床を叩く音が壁に反射して返ってきた。空気は冷たく、乾いている。湿度がほぼゼロ。外の五月の蒸し暑さが嘘のようだった。
肌で周囲の気配を探る。ドームの外では常に感じていた膜の脈動が、内側からは全く感じない。代わりに、迷宮そのものが微かに呼吸しているような気配があった。壁の発光が、わずかに明滅を繰り返している。吸って、吐いて、吸って、吐いて。生きている建造物。そんな矛盾した印象だった。
通路を進んだ。分岐があった。左右に枝分かれした白い道。どちらも同じに見える。だが左の通路の奥から、かすかな気配が漂ってきていた。人間の異能とは異質な、冷たくて形のない存在感。
右を選んだ。気配のない方。まず構造を把握したかった。観察が先だ。それが俺のやり方だ。
三つ目の分岐を曲がったところで、俺は天井の隅に小さなレンズのようなものを見つけた。直径一センチほどの半球が壁面に埋め込まれている。カメラだ。等間隔に設置されている。この迷宮を誰かが——あるいは何かが——監視している。
同時に気づいた。このカメラが外部にも映像を送っているなら、校庭からドーム内部が見えているかもしれない。
その推測は正しかった。俺が知るのはもっと後のことになるが、この瞬間、校庭ではドームの表面に内部映像が投影され始めていた。教師の一人が急いでプロジェクターを持ち出し、校舎の壁に拡大投影を開始した。全校生徒と政府部隊が、白い迷宮を歩くE級能力者の姿を見つめていた。
四つ目の角を曲がった時、空気が変わった。
通路の先、十メートルほどの距離。白い床の上に、黒い靄がわだかまっていた。
靄としか表現できない。固体でも液体でもない。黒い煙が意思を持って一箇所に留まっているような存在。輪郭は常にゆらいで定まらず、大きさは人の胴体ほど。その中心部に、ぼんやりと赤い光が脈打っている。
肌が総毛立った。これは敵だ。分岐点で感じた気配の主。観察から逃げていた相手が、向こうから来た。
靄が動いた。ゆっくりと、だが確実に俺に向かって滑ってくる。
反射的に能力を発動しようとした。腹の底から力を絞り出す、いつもの感覚。空気振動を指先に集めて——
何も起きなかった。
指先が痺れている。力を込めているのに、空気が微動だにしない。能力が発動しない。紙コップ三センチすら動かせた微弱な振動が、完全に沈黙している。
「嘘だろ」
もう一度試みた。全力で。こめかみの血管が浮き上がるほどの集中。
何も。ゼロ。
ドームの外で使えていた空気振動が、この空間では一切機能しない。まるで能力そのものにフィルターがかかっているような、絶対的な遮断。
靄が五メートルまで迫っていた。赤い光が脈動の速度を上げている。
逃げた。考えるより先に身体が動いた。踵を返して走り出す。背後で空気が裂けるような音がした。振り返る余裕はない。分岐を右へ。通路を全力で駆ける。靴音が白い壁に反響して、まるで追手が複数いるような錯覚を生んだ。
二つ目の角を曲がって、行き止まりだった。白い壁が通路を塞いでいる。
振り返る。靄が角の向こうから滑り込んできた。退路がない。
背中を壁に押しつけた。呼吸が荒い。能力が使えない。武器もない。体力も、たいしてない。E級の、ただの人間。白い迷宮の行き止まりで、形のない敵に追い詰められている。
靄が三メートル前で止まった。品定めするように赤い光が明滅する。
その時、気づいた。
能力が使えないのは空気振動だけだ。もう一つの力——気配を感知する力——は、ずっと動いている。今も靄の赤い光の脈動を肌が正確に読み取っている。核がある。赤い光そのものが核だ。靄はただの外殻で、本体はあの脈打つ光。
脈動のリズムに規則性がある。二拍、一拍休み、三拍、一拍休み。その休みの瞬間、靄の外殻がわずかに薄くなる。そこに何かをぶつければ——だが何を。能力が使えないなら。
靄が動いた。赤い光が一際強く脈打ち、外殻が膨張して俺に覆いかぶさるように伸びてくる。冷気が顔面を撫でた。触れたら終わりだという直感があった。
俺は壁を蹴って横に跳んだ。靄の端が左肩を掠める。氷を押し当てられたような痛みが走り、制服の袖が霜で白くなった。
通路を戻る方向に駆ける。靄は壁にぶつかって一瞬動きが鈍った。その隙に角を曲がり、別の分岐に飛び込んだ。
走りながら考えろ。観察しろ。お前にできるのはそれだけだ。
空気振動は封じられている。だが感知能力は生きている。この空間のルールは——発動系の能力を封じ、感知系だけを許容している。なぜだ。意味があるはずだ。この迷宮を作った何かの意図が。
分岐を三つ曲がって、少しだけ距離が開いた。靄の気配が遠ざかっている。追ってきてはいるが、速度は走る人間と同程度だ。
足を止めた。息が上がっている。膝に手をつく。汗が顎先から白い床に落ちた。
能力が封じられた空間。感知だけが機能する。形のない敵。核がある。核は脈動している。脈動の隙に外殻が薄くなる。
答えの欠片は揃い始めていた。だが最後の一手が足りない。核に何を届ければいい。拳か。この貧弱な腕で、あの冷気の外殻を突破できるとは思えない。
遠くから、靄の気配が再び近づいてくる。方角は左。三つ先の分岐から回り込もうとしている。
俺は走り出した。白い迷宮の奥へ。背後に敵。手元に武器はない。あるのは、この空間で唯一許された力——感じ取る力だけ。
最弱のまま、試験が始まっていた。