第3話
第3話
グラン渓谷への道は、カルドスの東門を出てからひたすら下り続ける砂利道だった。
朝露に濡れた石ころが革靴の底で滑り、背の革嚢が一歩ごとに揺れて腰骨を打つ。隊列は二列縦隊で進み、レインはその最後尾に置かれた。前を行く隊員たちの背中が、朝もやの中で影絵のように連なっている。誰一人として振り返らない。振り返る理由がないのだ。最後尾の荷物持ちが転ぼうが遅れようが、調査の進行には何の影響もない。渓谷から吹き上がる風が砂埃を巻き上げ、レインは目を細めながら足を運んだ。革嚢の中で薬瓶と保存食の包みがぶつかり合い、耳の奥で鈍く鳴り続ける。肩紐が鎖骨に食い込む痛みにはもう慣れた。十年間の荷運びで、この身体は荷を背負うことだけは覚えている。
隊列の先頭を行くのは隊長ヴェルクだった。一度も足を止めず、一度も声を張り上げず、ただその背中が進む方角を示すだけで隊列は保たれた。その三歩後ろに、盾士のガルドが並ぶ。四角い顎に分厚い首、身の丈ほどもある鉄張りの大盾を片手で背負い、もう一方の手で腰の戦鎚の柄を叩いている。Dランクの盾士。重装であるにもかかわらず足音が妙に軽い。体幹で重心を制御する術を身につけた者だけが出せる歩調だった。レインが荷運びの最中に何度か見かけた顔だが、言葉を交わしたことは一度もない。ガルドの方もレインを認識してはいなかったろう。Fランクの荷物持ちなど、風景の一部と変わらない。
「あんた、革嚢の紐、そんな結び方じゃ半日で肩が死ぬよ」
声は右斜め前から降ってきた。振り向くと、隊列の中ほどから一人の女が歩調を緩めてこちらに近づいてくるところだった。弓を背負い、革の胸当てに短い外套。赤みがかった茶髪を首の後ろで雑に括り、日焼けした頬にそばかすが散っている。弓使いのセラ。Dランクの射手で、渓谷沿いの魔獣狩りでは名の知れた腕前だと、昨夜ギルドの掲示板で見た編成表にあった。
「紐を?」
「肩甲骨の下で一度たすき掛けにして、それから腰帯に噛ませる。そうすれば荷重が腰に逃げる。背嚢術の基本だけど——まあ、誰も教えてくれなかったんだろうね」
セラは手慣れた動作でレインの革嚢の紐を解き、結び直した。所要は十数息ほど。たったそれだけのことで、鎖骨を削るようだった圧が嘘のように和らいだ。重さそのものは変わらないはずなのに、身体の芯で受け止められる感覚がある。
「……楽になった」
「荷物持ちが潰れたら荷物を誰が持つの。あんたが倒れたら私が担ぐ羽目になるんだから、自分の身体くらい自分で守りなさい」
言い方は突き放すようでいて、手つきは丁寧だった。紐の結び目を二度確かめ、余った端を外套の裾に挟んでから、セラは小さく顎を引いて前方へ戻っていった。
前方でガルドが振り返り、怪訝そうな目を向けた。「セラ、何やってる。隊列を乱すな」
「荷崩れの補修。ほっといたら資材が渓谷の底だよ」
「……まあいい。だがFランクに構うな。足手まといに情をかけると、いざというとき判断が鈍る」
ガルドの声には悪意というより、戦場での合理性が滲んでいた。セラは肩をすくめただけで言い返さなかった。レインも何も言わなかった。言い返す言葉を持たないのではなく、言い返す立場にないことを知っていた。囮兼荷物持ち。それが自分に与えられた値札だ。値札に文句を言う前に、まず中身で示すしかない。
渓谷の裂け目に到着したのは、出発からおよそ三刻後のことだった。
崩落した岩壁は想像以上の規模だった。高さ三十尋はあろうかという断崖が垂直に裂け、その奥に暗い空洞が口を開けている。裂け目の縁には砕けた岩塊が散乱し、乾いた土埃がまだ微かに漂っていた。空洞の入口に立つと、内部から湿った冷気が這い出してくる。岩と苔と、それからもう一つ——言葉にしがたい甘い腐臭が混じった、ダンジョン特有の匂い。レインは知識としてしか知らなかったその匂いを、初めて肺の奥で受け止めた。
ヴェルクが片手を上げ、隊列が止まった。
「ここからは三人一組の班行動に切り替える。第一班、俺とガルドとセラ。第二班以下は——」
編成が読み上げられ、レインは第一班付きの資材運搬として組み込まれた。班に属しているというよりは、荷物と同じ括りだった。ヴェルクは松明を掲げ、最初の一歩を暗闇に踏み入れた。レインが続く。足裏に伝わる感触が、砂利道のそれとは違う。磨かれた石のような、あるいは何者かが意図をもって敷き詰めたかのような、不自然に滑らかな床だった。
第一層は、拍子抜けするほど穏やかだった。
通路は人が三人並べるほどの幅で、天井は松明の光がかろうじて届く高さ。壁面は暗灰色の岩盤で、ところどころに鍾乳石のような突起が垂れ下がっている。現れた魔獣は洞窟蜘蛛と地蟲の類ばかりで、Dランクのガルドが盾で薙ぎ払えば事足りた。セラの矢が必要になる場面すらなく、彼女は弓を背に負ったまま壁面の観察を続けていた。
「想定より魔獣が少ないな。これなら——」
ガルドが油断とも余裕とも取れる声を漏らしたとき、ヴェルクが無言で拳を握った。停止の合図だ。全員の足が止まり、松明の炎が揺れる音だけが通路に満ちた。
「静かすぎる」
ヴェルクの呟きは独り言のようだったが、その一言で隊員の背筋が伸びた。未踏破ダンジョンの第一層がこれほど容易であること自体が、奥に何かが待っている証左だ。浅い層の魔獣が逃げている——あるいは、何かに追い出されている。
隊列は慎重に進んだ。レインは荷物を揺らさぬよう膝を柔らかく使いながら、隊の後方を歩いた。十年の雑務で培った技術が、ここでは確かに役に立っていた。足音を殺し、壁面との距離を常に腕一本分に保ち、退路を塞がれた場合の逃走経路を無意識に探る。華のある技術ではない。だが、生き残るための技術ではあった。
第一層の奥まで進んだところで、通路が大きな広間に開けた。天井が一気に高くなり、松明の光では反対側の壁まで届かない。床の中央に朽ちた石柱が数本、倒壊した祭壇のような構造物が横たわっている。ヴェルクが松明を掲げて広間を照らし、安全を確認してから隊員を招き入れた。
「ここで小休止を取る。資材の点検と水分の補給。一刻後に第二層への降下口を探す」
隊員たちが壁際に腰を下ろし、水袋に口をつけ始めた。レインは革嚢を慎重に床に置き、中の薬瓶に割れがないか一つずつ確かめた。セラが近くの壁面に手をかざし、何かを探るように指先でなぞっている。
「古い造りだね。自然洞窟じゃない。誰かが——何かが、掘ったんだ」
セラの言葉にガルドが鼻を鳴らした。「古代の坑道だろう。珍しくもない」
「坑道にしては装飾が多い。ほら、ここ」
セラが松明を近づけた壁面に、細い溝が走っていた。風化してほとんど消えかけているが、幾何学的な模様の痕跡——古代文字の断片のようにも見える。他の隊員は一瞥して興味を失い、それぞれの休息に戻っていった。レインも水袋を取り出そうとして、ふと目を上げた。
壁が、光っていた。
淡い青白の光が、壁面に刻まれた古代文字の溝に沿って脈打つように流れている。微かに、しかし確かに。渓谷の夜空に見たあの光と同じ色だった。心臓が跳ねた。光は文字の一画一画を辿り、まるで血管を流れる血のように壁面全体に広がっている。レインは無意識に一歩、壁に近づいた。
「どうした、Fランク」
ガルドの声が背後から飛んだ。レインは振り返った。
「壁の文字が——光って見えるんだが」
沈黙が落ちた。ガルドが眉を寄せ、セラが壁面を覗き込み、ヴェルクが松明を近づけた。三人の目が壁面を舐めるように見つめ、そして——何も見出せないまま、レインに戻った。
「何も光ってないが」ガルドが言った。
「疲れてるんじゃない? 慣れない場所で神経が立ってるんだよ」セラの声は優しかったが、その目は明確に否定していた。
ヴェルクだけが何も言わなかった。鉄色の目がレインの顔を数秒間じっと見据え、それから壁面に向き直り、指先で文字の溝をなぞった。乾いた岩の擦れる音だけが広間に響いた。
「……休憩を終えたら第二層に向かう。各自、準備を怠るな」
隊長はそれだけ言って背を向けた。レインはもう一度壁面を見た。光はまだそこにあった。古代の文字が脈動し、何かを訴えるように明滅を繰り返している。他の誰にも見えないものが、自分だけに見えている。それが何を意味するのか、レインには分からなかった。
ただ、壁面の光が示す方角は——隊が向かう第二層ではなく、はるか下方、ダンジョンのさらに深い場所を指していた。まるで、呼んでいるかのように。
首元の銅板が、理由もなく熱を帯びた気がした。