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Fランクの守護精霊契約

第2話 第2話

第2話

第2話

緊急鐘が鳴り止んだのは、それから四半刻も後のことだった。

鐘の残響がカルドスの石壁に染み込むようにして消える頃には、傭兵ギルドの広間は人で溢れていた。普段は閑散とした受付の前に、武装もそこそこの傭兵たちが押し合いへし合い詰めかけている。壁際の蝋燭が人いきれで揺れ、革鎧と油と安酒の匂いが混じり合って、広間の空気は重く淀んでいた。天井の梁に染みついた煤の匂いまでが降りてくるようで、息を吸うたびに肺の底に何か湿ったものが溜まる。誰もが隣の者と目を見合わせ、しかし確かなことを知る者は一人もいない。未踏破ダンジョン。その言葉だけが口々に繰り返され、声が重なるたびに尾鰭がついて膨れていく。

レインは広間の後方、柱の陰に背を預けて立っていた。前に出る理由がない。Fランクの身で最前列に並んだところで、聞けるのは自分には関係のない話だけだ。それでも足がここまで運んだのは——渓谷の方角に見えたあの淡い光が、まだ網膜の奥にちらついていたからだった。あれは何だったのか。夕刻の依頼帰り、渓谷沿いの街道で荷車を引いていた時だ。地鳴りとともに東壁が崩れ、土煙の向こうに一瞬だけ、青白い燐光が脈打つのが見えた。本能的に足が止まり、荷車の轍が砂利を噛む音だけが妙に大きく耳に残った。

広間の正面、受付台の上に片足を乗せて立ったのは、ギルドマスターのハイダル・ガゼルだった。五十に届こうかという巨躯の男で、頭は禿げ上がり、顎鬚だけが白い針金のように逆立っている。現役を退いて久しいが、Aランクまで上り詰めた男の眼光は、広間を一睨みしただけで怒号混じりのざわめきを断ち切った。

「黙れ。一度しか言わん」

低いが、よく通る声だった。広間が水を打ったように静まる。蝋燭の芯が爆ぜる小さな音すら聞こえるほどの静寂が、人で埋め尽くされた空間に降りた。

「本日、日没の二刻前。グラン渓谷の東壁において大規模な地崩れが発生した。崩落した岩盤の奥に空洞——未踏破ダンジョンの入口が確認された」

ハイダルは手元の羊皮紙に目を落としもせず、淡々と続けた。

「渓谷の警備隊が入口付近を調査した結果、内部から微弱な魔素の流出を検知。ダンジョンの階層数、内部の魔獣の種類と数、いずれも不明。分かっているのは、放置すれば魔素の拡散により周辺の魔獣が活性化する可能性が高いということだ」

どよめきが広がりかけたが、ハイダルの目が光っただけで押し戻された。

「帝都からの増援を要請済みだが、到着まで最短でも十日はかかる。折悪しく、うちのB・Cランクの大半は帝都の秋季大型討伐に出払っている。手元にあるのは——ここにいる面々だ」

苦い沈黙が落ちた。広間を見渡せば、集まった傭兵の大半がDランク以下だった。辺境の街の懐事情がそのまま戦力に表れている。皆が心の中で同じ計算をしていた。未踏破ダンジョンの調査など、本来ならBランク以上の精鋭が組むべき任務だ。誰かが喉を鳴らす音がして、それが合図だったかのように、あちこちで唾を呑む気配が連鎖した。

「明朝、調査隊を編成する。目的はダンジョンの規模と危険度の把握のみ。深入りはしない。繰り返す、深入りはしない。Cランク以上の者は残れ。以下の者も、志願するなら申し出ろ。ただし——」

ハイダルの目が広間を舐めるように巡った。

「英雄になりたい奴は要らん。生きて帰れる奴だけ来い」

広間が騒然となった。我先にと受付台に詰め寄る者、仲間内で顔を見合わせて腕組みする者。レインは柱の陰から動かなかった。志願したところで何ができる。Fランクの荷物持ちが未踏破ダンジョンに何の用がある。

しかし胸の内側で、あの光がまた明滅した。渓谷の夜空に浮かんだ、あの——。

「レイン」

名を呼ばれて振り返ると、ミーナが帳簿を胸に抱えて立っていた。先ほどの穏やかな笑顔はなく、唇が薄く引き結ばれている。広間の喧噪が遠くなるほど、彼女の声は低く、硬かった。

「調査隊の補充要員の件で、ギルドマスターから指名が入ってる」

「指名? 俺に?」

「荷運びと、その——」ミーナは一瞬、視線を逸らした。「非常時の殿を務められる人員として。ダンジョン内で撤退が必要になった場合の、囮兼務の後衛。Fランクの経験年数と生存率から選定、って書いてある」

生存率。十年間、どんな依頼でも生きて帰った実績。それは誇るべきことだったのか、あるいは死ぬほどの依頼すら回ってこなかったという証左なのか。レインは唇の端を歪めた。

「要するに荷物持ち兼使い捨ての盾だろう」

ミーナの指が帳簿に食い込んだ。インクの染みた爪先が白くなるほどに。

「断れるよ。Fランクに調査隊参加の義務はない。私から、辞退の書類を——」

「受ける」

言葉は、考えるより先に口から出ていた。ミーナが目を見開く。レイン自身も驚いていた。だが、喉を通り過ぎた声は取り消せない。取り消す気もなかった。

「受けるよ、ミーナ。荷物持ちでも囮でも構わない」

「なんで。どうして、わざわざ——」

「さあな。馬鹿だからだろう」

答えになっていないことは自分でも分かっていた。屈辱がないわけがない。十年かけて積み上げたものの、その全てがFランクという三文字に集約され、果てに与えられた役割が「囮」だ。身体の奥で、苦い何かがゆっくりと渦を巻く。胃の底が焼けるような熱さと、喉の奥に張りつく鉄の味。だがそれと同じ場所から、別の何かが首をもたげていた。好奇心、と呼ぶには熱すぎる。渇き、と言った方が近い。

未踏破ダンジョン。あの渓谷の奥に、誰も見たことのない世界が口を開けている。それを自分の目で見られる。たとえ荷物持ちとしてでも、あの闇の入口に立つことができる。十年間、下水道の泥と街道の砂埃しか知らなかった足が、まだ人の踏み入れたことのない地面を踏める。その事実が、屈辱を飲み込んでなお余りある重さで胸を打っていた。

「……書類、持ってくる」

ミーナは何かを堪えるような顔で踵を返した。帳簿を抱え直す手が、微かに震えていた。その背中が広間の雑踏に紛れて見えなくなるまで、レインはただ立ち尽くしていた。柱に預けた背中越しに、石壁の冷たさがじわりと肩甲骨に染みてくる。心臓がまだ普段より速く打っているのが、自分でも分かった。

翌朝、レインは薄明の中でギルドの前庭に立っていた。

夜明け前の空気は刃のように冷たく、吐く息が白い靄になって顔の前をただよった。前庭の石畳には夜露が残り、革靴の底が踏むたびに湿った音を立てる。

調査隊の編成は十二名。隊長を務めるCランクの剣士ヴェルクを筆頭に、D・Eランクの傭兵が主力を成し、レインはその末席に名を連ねた。背には調査資材を詰め込んだ革嚢を二つ、腰には使い込んだ鉄の短剣を一振り。他の隊員が磨き上げた武具を点検する中、レインの装備だけが薄暗い前庭の中でひときわくすんで見えた。革嚢の肩紐が鎖骨に食い込み、ずしりとした重量が両足に伝わる。資材の中で瓶同士がぶつかる硬い音が、身じろぎするたびに鳴った。

「出発は半刻後だ。全員、足元を確かめておけ」

隊長ヴェルクの声が前庭に響いた。短く刈り込んだ灰色の髪に、鉄の色をした目。無駄のない体躯には古傷がいくつも走り、その一つ一つが語る経験の深さが、三十半ばという年齢以上の威圧を纏わせていた。ヴェルクの視線がレインの上を通り過ぎた。通り過ぎた、という表現が正しい。荷物が足りているかを確認しただけで、そこに人間がいることには興味を持たなかったのだ。

空が白んでいく。東の稜線が薄紫に染まり、グラン渓谷の方角だけが、いまだ深い影の底に沈んでいた。渓谷の裂け目は街から徒歩で三刻ほどの距離にある。そこに、誰も知らない暗闇が待っている。

レインは肩の革嚢の紐を締め直した。重い。だが、足は前を向いている。

首元の銅板が、朝の冷気に触れてひやりと肌を刺した。Fの刻印が、薄明の光を受けてかすかに——本当にかすかに——光ったように見えたのは、きっと気のせいだった。

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