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Fランクの守護精霊契約

第1話 第1話

第1話

第1話

麦酒の泡が消えるのを、レイン・ハルゲートはただ眺めていた。

酒場〈傾いた槍亭〉の片隅、壁際の一人席。窓から差し込む夕暮れの赤光が、手垢のついた木卓の上でゆるく揺れている。卓の表面には無数の刃傷がついていた。酔った傭兵が短剣で刻んだ戦果の数か、あるいはただの八つ当たりか。どちらにせよ、この席に座る者の大半は似たような境遇だった。杯の中身はもう温い。泡が消え、琥珀色の液面に自分の顔がぼんやりと映る。疲れた目をした、どこにでもいる男の顔だ。それでも注ぎ足す気にはなれなかった。懐の銅貨を数えれば、今日の害獣駆除の報酬から宿代と明日の食い扶持を引いて、残るのは麦酒もう一杯分にも足りない端数だけだ。

カルドス——帝都ヴァルディアスから馬で二十日はかかる辺境の街。大陸の東端、グラン渓谷の手前にへばりつくように広がる石積みの街並みは、華やかさとは無縁だった。商隊が月に二度ほど通過し、渓谷から吹き下ろす風が年中砂埃を運ぶ。石壁の隙間には砂が噛み、窓枠は乾いて反り返り、どの建物も渓谷の風に削られて角が丸くなっている。この街で暮らすということは、その風に少しずつ磨り減らされるということだ。人間も、建物も。この街の傭兵ギルドで扱う依頼の大半は、下水道に巣食う牙鼠の駆除か、街道筋の荷運び護衛だ。

レインはその両方を、十年やってきた。

Fランク。傭兵ギルドの最底辺を示す銅板の身分証が、首から下がった革紐の先で小さく光る。銅板の縁はすり減り、刻印された「F」の字もかすれかけている。十年分の汗と泥がこの薄い金属片に染みついていた。十年前、十八の歳にこの街のギルドに登録した日から、その色は変わっていない。剣の腕は中の下。魔法の素養は検査で零と出た。検査官が測定器を二度叩いて首を傾げたのを、今でも覚えている。壊れているのかと思ったのだ——壊れていたのは、自分の方だったのだが。それでも依頼だけは一度も投げ出さなかった。下水道の泥に這いつくばって牙鼠の巣穴を塞ぎ、商人の荷車が渓谷道で立ち往生すれば、黙って肩で車輪を押した。膝が軋み、掌の皮が裂け、翌朝は体の節々が悲鳴を上げる。それでも次の朝にはギルドの掲示板の前に立つ。誰に褒められるわけでもない。ただ、受けた仕事は最後までやる。それだけが、レイン・ハルゲートという男の矜持だった。

酒場の奥で賭け牌に興じる常連たちの笑い声が、低い天井に反響する。牌が卓を叩く乾いた音、勝った者の歓声、負けた者の毒づき。そんな音の波が、レインの席まで繰り返し押し寄せては引いていく。入り口近くの掲示板には、今月のランク昇格者の羊皮紙が新しく貼り出されていた。

——ジーク・ベルンハルト、Cランクへ昇格。

その名を視界の隅で捉え、レインは杯に口をつけた。温くなった麦酒が、喉に妙な苦みを残して落ちる。ジークはかつて同じ班で依頼をこなした仲間だった。大柄で声が大きく、牙鼠退治のたびに文句を言いながらも誰より先に下水道に飛び込む男だった。別れ際に「次はお前の番だ」と肩を叩かれた手の感触が、まだ右肩に残っている気がする。五年前にDランクへ上がり、三年前にはCランクの遠征資格を得て、今ごろは帝都近くの大型討伐に参加しているはずだ。

同期で組んでいた四人のうち、レイン以外は全員がとうにCランク以上へ上がっていた。一人また一人とカルドスを離れ、手紙すら来なくなった。最後に届いたのはジークからの走り書きで、「帝都の飯は高いが美味い」とだけあった。返事は書いた。出さなかった。何を書けばいい。こちらは相変わらず牙鼠を数えている、とでも。置いていかれたのではない、と思おうとした。ただ自分が立ち止まっていただけだ。

「レイン、今日の報告書、受け取ったよ。お疲れさま」

受付嬢のミーナが、帳簿を小脇に抱えて席のそばに立っていた。淡い亜麻色の髪をひとつに束ね、くたびれた傭兵たちにも常に穏やかな笑顔を向ける娘だ。インクの匂いがかすかに漂う。一日中羽根ペンを握っていた指先が、帳簿の革表紙に軽く食い込んでいた。ギルドの受付としてはまだ二年目だが、書類仕事の正確さではすでに古株を凌いでいる。

「ああ。牙鼠十二匹、巣穴三つ。ちゃんと数えたか」

「数えたよ。尻尾もちゃんと十二本。……ねえ、たまには受付で一緒にお茶でも飲まない? いつもここで一人じゃ寂しいでしょ」

「一人が落ち着くんだ。それに」レインは杯の縁を指で弾いた。澄んだ音が小さく鳴って、すぐに酒場の喧噪に呑まれた。「茶を飲む銅貨があるなら、明日の飯にまわす」

ミーナは苦笑した。その目が一瞬、掲示板の昇格通知に向けられたのをレインは見逃さなかった。気遣いだと分かっている。だからこそ居心地が悪い。同情されるほど落ちぶれてはいない——いや、落ちぶれてすらいない。最初から這っているのだから、落ちる余地がなかっただけだ。

「分相応ってやつさ」

呟いて、残りの麦酒を一息に干した。

ミーナが何か言いかけ、しかし口を結んで踵を返した。束ねた髪が揺れ、帳簿を抱え直す衣擦れの音がして、常連たちの間を縫うように受付の方へ戻っていく。その背中を見送りながら、レインは目を閉じた。酒場の喧噪が遠のき、代わりに古い記憶が瞼の裏に浮かぶ。

あの夜のことだ。

八つの歳だった。季節外れの嵐がカルドスを襲い、渓谷から溢れた濁流が街の外壁を打った。家々の屋根が飛び、人々が叫び、母の腕に抱かれたレインは、ただ怯えて目を塞いでいた。雨が横殴りに叩きつけ、母の心臓の音と嵐の咆哮が混ざり合って、世界がばらばらに壊れていく音に聞こえた。

そのとき、光が走った。

金色の光。嵐の闇を切り裂くように、街の大門の上に一人の傭兵が立っていた。纏った鎧が光を放ち、振り上げた剣が閃くたび、暴風が道を空けた。まるで嵐そのものと対話しているかのような剣筋だった。一太刀ごとに風が割れ、雨粒が弾かれて光の粒に変わる。轟音の中にあって、その傭兵の背中だけが揺るがなかった。恐ろしいほどに、静かだった。八つの子供が、母の指の隙間からそれを見つめていた。涙も、震えも、そのとき止まっていた。

名前は知らない。嵐が去った朝にはもういなかった。母に尋ねても「覚えていない」と首を振られた。近所の者に訊いても、嵐の夜に大門に立つ傭兵など見なかったと言う。夢だったのかもしれない。だが、あの金色の背中だけは——自分がなりたかったものの形として、レインの胸の底に二十年間沈み、消えなかった。

現実はどうだ。二十八になり、Fランクの銅板を首に下げ、牙鼠の尻尾を数える毎日。金色の背中とは、何もかもが遠い。

「……馬鹿げてる」

自嘲が唇から漏れた。あの光景を思い出すたびに、胸の奥が疼く。期待でも希望でもない。ただ、あのとき灯ったものが今も消えていないという事実が、静かに痛い。憧れを捨てきれないまま十年を費やした。捨てられる人間の方がよほど賢い。分かっている。分かっていて、なお——

「もう一杯くれ」

ありったけの銅貨を卓に出し、酒場の主人に声をかけた。銅貨が卓の傷に引っかかり、からからと乾いた音を立てた。主人は太い腕を組んだまま銅貨を一瞥し、何も言わずに樽の栓を抜いた。明日の飯は依頼を受けてから考える。今夜くらいは、この苦い泡で記憶を洗い流してしまいたかった。

新しい杯が届く前に、それは鳴った。

——ガァァン、ガァン、ガァァン。

甲高く、不吉な金属音。酒場の喧噪が一瞬で凍りつき、賭け牌の音が止まった。誰もが天井を見上げ、あるいは入口の方を振り返る。主人の手が樽の栓を握ったまま止まり、注ぎかけの麦酒が杯から溢れて卓を濡らした。誰も、それに気づかなかった。

ギルドの緊急鐘。

カルドスに駐留する傭兵全員の即時招集を意味する鐘だ。レインの記憶が正しければ、前に鳴ったのは六年前、渓谷の橋が魔獣の群れに落とされたときだった。あのときは街全体が三日間眠れなかった。

酒場の扉が荒々しく開き、ギルドの伝令が駆け込んできた。息を切らせた若い男の顔は青ざめ、声が震えていた。冷たい夜風が扉の隙間から吹き込み、蝋燭の炎が一斉に傾いだ。

「グラン渓谷で——大規模な地崩れが起きた。岩盤の奥から、ダンジョンが出現した。未踏破の、ダンジョンが——」

ざわめきが波のように広がった。未踏破ダンジョン。それは伝承や冒険譚の中の言葉であって、辺境の街の傭兵たちには縁のないはずのものだ。椅子を蹴って立つ者、隣の者の肩を掴んで確かめる者、ただ口を開けたまま動けない者。酒場が一つの生き物のようにうねった。

レインは立ち上がっていた。理由は分からない。胸の奥で、二十年間消えなかった何かが、鐘の音に呼応するように脈打っていた。首元の銅板が、心臓の鼓動に合わせるように揺れた。

窓の向こう、グラン渓谷の方角の夜空が、かすかに——ほんのかすかに、淡い光を帯びていた。

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