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銀焔の魔女と原初の預言

第2話 第2話

第2話

第2話

領地の門が見えたとき、空はまだ白み始めたばかりだった。

一晩を駆け通した馬は泡を吹き、ヴィルヘルムの腕にも疲労の色が滲んでいる。それでも老御者は速度を緩めなかった。私が急げと言ったからではない。彼もまた、あの光を見たからだ。

北の空の銀光は、夜明けとともに消えていた。だが代わりに、別のものが見えた。

煙だ。

領地の北端──国境に近い村々から、黒い煙が何本も立ち昇っている。朝靄の中に溶け込むそれは、炊事の煙ではありえない。あの量は、何かが燃えている。風が南に吹くたびに、車窓の隙間から焦げた木材と、もっと嫌な──生き物が焼ける甘い匂いが忍び込んでくる。

「セラフィーナ様、あれは……」

リゼットが窓に張りつく。その声から昨夜の涙はもう消えていて、代わりに不安が滲んでいた。

「わからない。でも──」

門番が馬車に気づき、慌てて門を開ける。その顔が蒼白だった。普段なら丁寧な敬礼をよこす男が、礼儀を忘れて駆け寄ってくる。唇が乾き切って裂け、一晩中走り回っていたのだと一目で分かった。

「お嬢様! ようやくお戻りに……! 北の村が、魔獣に……!」

魔獣。

その言葉を聞いた瞬間、胸の奥であの熱が再び脈打った。昨夜、銀光を見たときと同じ──骨の底から湧き上がるような、得体の知れない共鳴。心臓が一拍だけ強く跳ね、指先にまで振動が伝わった。

「騎士団は」

「王都へ派遣要請を出しましたが、到着まで早くても二日かと。領地の守備兵だけでは数が──群れなのです、お嬢様。十や二十ではなく」

馬車を降りた。石畳を踏む靴音が妙に鮮明に聞こえる。朝の空気は冷たく、肺の奥まで染み込んでくる。宮廷の香炉に燻された空気とは違う。土と草と、微かに焦げた匂いの混じった、領地の空気。

領民が走っている。荷物を抱え、子どもの手を引き、南へ向かって逃げている。その顔はどれも恐怖に引き攣り、目は虚ろだった。泣き叫ぶ幼子を背負った男が裸足のまま石畳を蹴り、毛布一枚だけを胸に抱いた老人が壁伝いによろめいている。すれ違いざまに私を見た老女が、一瞬だけ足を止めた。「公爵様のお嬢様……」。その声は縋るようで、同時に諦めを含んでいた。令嬢が一人帰ってきたところで、何が変わるのかと。

私だって、そう思った。

剣は多少扱えるが、騎士には遠く及ばない。魔法の教育は受けたが、宮廷魔術師の水準にも達していない。少なくとも、そう思い込んでいた。父がそう仕向けたのだと、今は知っている──いや、まだ知らなかった。あの時の私は、自分の無力さだけを正確に把握していた。

それでも、足は北に向いた。

なぜかは分からない。理屈ではなかった。領地を守るという使命感ですらなく、もっと原始的な何か──あの煙の向こうにあるものを、この目で見なければならないという衝動。胸の底の熱が、行けと囁いていた。

北門を出ると、景色が一変した。

麦畑が踏み荒らされている。穂が折れ、土が抉れ、獣の足跡が無数に刻まれている。足跡は通常の野生動物のものではなかった。三本指の、異常に深い爪痕。地面に染みた体液が、鈍い紫色の光を放っている。魔獣の体液だ。宮廷の図鑑で見たことがある。だが図鑑に載っていたのは単独の下位種であり、これほどの数が群れを成すという記述は一度も目にしたことがなかった。

丘を越えた先に、それはいた。

十を超える魔獣の群れが、国境沿いの街道を埋め尽くしていた。体長は大きいもので馬ほどもある。黒い鱗に覆われた胴体、赤く発光する複眼、鉤爪のついた六本の脚。口腔から紫の瘴気を吐き出しながら、じわじわと南へ──領地の中心部へ向かって進んでいる。瘴気が地面に触れるたびに、草が黒く萎れ、小さな虫がぽとりと落ちて動かなくなった。

その先には、まだ逃げ切れていない人がいた。

転倒した荷車の陰に、母親が二人の子どもを抱えて蹲っている。魔獣の一体が首をもたげ、その方向に鼻面を向けた。匂いを嗅いでいる。

考えるより先に、身体が動いていた。

「逃げて!」

叫び、丘を駆け下りる。私の声に魔獣が反応し、複眼がこちらを向いた。六つの赤い光点が、無感情に私を捉える。

愚かだと思った。武器もなく、実戦経験もなく、役に立つ魔法の一つも使えない令嬢が、何をするつもりなのか。

魔獣が跳んだ。

黒い影が朝日を遮り、鉤爪が空を切り裂く。紫の瘴気が風に乗って顔を叩き、息が詰まる。甘ったるい腐臭が鼻腔を焼き、胃がせり上がる。あと数瞬で、あの爪が私を──。

そのとき、弾けた。

胸の奥で、何かが。

心臓の裏側、血管の内壁、細胞の一つ一つに眠っていた何かが、一斉に目を覚ました。痛みに似ていた。だが痛みではなかった。例えるなら、凍りついた川の表面を内側から叩き割るような──十八年分の氷が、一瞬で砕け散る感覚。耳の奥で何かが鳴った。高く、澄んだ、この世のものとは思えない音が。それは自分の血が奏でる音だと、理屈を超えて理解した。

銀色の光が、私の身体から溢れた。

制御はできなかった。意図もなかった。ただ生存本能が──いや、もっと深い何かが、魔力を叩きつけた。

銀の炎が渦を巻く。

放射状に広がった炎は、跳びかかってきた魔獣を空中で包み込んだ。悲鳴すら上げる間もなく、黒い鱗が灰になる。炎は止まらなかった。私の意思とは無関係に、次の獲物を求めて這い進み、二体目を、三体目を灼いた。地面が焼け、土が硝子のように溶けて固まる。空気が震え、遠くで鳥が一斉に飛び立つ音がした。

眩しい。自分の身体が発する光が、視界を銀一色に塗り潰す。

何が起きているのか、分からなかった。

私の中にこんなものがあったのか。こんな──暴力的で、圧倒的で、制御不能な力が。宮廷で教わった属性魔法とはまるで違う。あれは理論と詠唱で制御する技術だった。これは違う。これは技術ではない。噴火だ。十八年間封じ込められていたものが、蓋を失って一気に噴き出している。

四体、五体──銀の炎が触れた魔獣が、次々と燃え尽きていく。

群れが怯んだ。統率を失った残りの魔獣が、踵を返して北へ逃げていく。複眼の赤い光が遠ざかる。その背中を追おうとして──足が折れた。

違う。折れたのではなく、力が抜けたのだ。

膝が地面につく。視界が揺れる。銀の光が急速に薄れていき、身体の内側がからっぽになっていくのが分かった。さっきまで溢れていた熱が嘘のように引いて、代わりに凍えるような寒気が骨の髄まで染み渡る。歯の根が合わない。呼吸のたびに白い息が洩れ、それすら銀色に光って散った。

手を見た。

震えている。

止まらない。両手を握りしめても、膝の上に押し付けても、指先から肩まで走る震えが治まらない。爪の先から、銀色の光の残滓が蛍のように明滅して消えていく。

荷車の陰から、母親がそっと顔を出した。子どもたちを庇いながら、信じられないものを見る目で私を見ている。焦げた大地と、硝子化した轍と、灰になった魔獣の残骸と──その中心に跪く、一人の令嬢を。

「……お嬢様」

背後から、ヴィルヘルムの声がした。いつの間にか追いついてきたらしい。老御者の声が、初めて震えている。

「大丈夫……」

答えようとして、声が掠れた。喉が焼けたように乾いている。口を開いたら、もう一度あの炎が出るのではないかという恐怖が、一瞬だけ胸を過った。

自分の手を見つめる。まだ震えている。爪の下に、ほんの微かに銀色の光が残っている。脈拍に合わせて、弱々しく明滅を繰り返す。まるで心臓と直結した灯火のように。

これは──何?

私は何を持っていた? なぜ誰も教えてくれなかった?

父の顔が脳裏を過る。「嫌われ役を演じろ」。母の震える指先。答えてもらえなかった問い。すべてが──この力に繋がっていたのか。

遠くで、逃げていた魔獣の最後の咆哮が聞こえた。だがもう、それを追う力は残っていなかった。朝日が昇りきり、焦げた麦畑を金色に照らしている。黒い煤と銀の残光が混じり合い、戦場に似つかわしくない、奇妙に美しい光景を作り出していた。

リゼットが泣きながら駆けてくるのが見えた。その向こうに、守備兵たちが遅れて到着するのも。彼らの顔に浮かんでいたのは安堵ではなく、畏怖だった。

私は跪いたまま、自分の手を見つめ続けた。

震えは、まだ止まらない。

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