第1話
第1話
「婚約破棄を申し渡す」
玉座の間に響いた声は、思いのほか軽かった。まるで今夜の夕餉の献立でも告げるように、王太子アルベルトは私の名を呼び、その一言を落とした。
周囲がざわめく。扇の陰で口元を隠す令嬢たち。わざとらしく眉を顰める文官たち。けれどその目はどれも同じ色をしている──待ちかねていた見世物が、ようやく始まったという愉悦の色。天井から吊るされた魔石灯の光が、彼らの瞳の中で下卑た輝きを帯びていた。百を超える視線が私の肌を撫でる。品定めするように、値踏みするように。私はその一つ一つを、硝子越しに眺める蝶のように感じていた。
「聖女マリアベルの降臨により、王家の守護はすでに盤石となった。よって、セラフィーナ・ヴァルシュタイン公爵令嬢との婚約は、本日をもって解消とする」
聖女。その言葉が出た瞬間、広間の空気が決定的に傾いた。誰かが小さく息を呑み、それが波紋のように広がっていく。香炉から立ち昇る白檀の煙が、かすかに揺れた。まるでこの場の空気そのものが、聖女という名の重力に引き寄せられたかのように。
私は王太子の隣に立つ少女を見た。柔らかな亜麻色の髪、露草色の瞳。胸の前で祈るように手を組み、申し訳なさそうに俯いている。完璧だった。慈悲深い聖女として、これ以上ないほどに完璧な所作だった。唇がかすかに動いている。おそらく「ごめんなさい」とでも呟いているのだろう。声にならない程度の、周囲にだけ伝わる謝罪。あれは誰に向けたものだろう──私にか、それとも、自分の良心に向けた免罪符か。
そして私は──公爵家の名に恥じぬよう背筋を伸ばしたまま、何も感じていなかった。
悲しみも、怒りも、屈辱すらも。胸の奥にあったのは、長い長い息を吐き出すような、静かな安堵だけだった。
「……承知いたしました、殿下」
たった一言。それだけを返し、私は踵を返した。
背後で嘲笑が弾ける。「やはり冷たい女だ」「涙の一つも見せぬとは」「悪役令嬢の名に相応しい退場ではないか」。声は刃のように飛んでくるのに、不思議と肌を切らなかった。もう十八年も浴び続けた言葉だ。刃はとうに錆びている。それでも足を止めなかったのは、強さではなく、ただの慣れだった。
十八年間、ずっとこうだった。
嫌われ役を演じろ。冷酷であれ。誰にも心を許すな。父がそう言い、母がそう望み、私はそのとおりに生きてきた。理由は教えてもらえなかった。ただ「家を守るために必要なことだ」と繰り返されるだけで、私はその言葉を疑うことすら許されなかった。幼い頃、一度だけ訊いたことがある。「なぜ私は笑ってはいけないの」と。父は答えなかった。母は私の手を握り、その指先が震えていたことだけを覚えている。あの日、母の瞳には薄い涙の膜が張っていた。けれど母もまた、何も言わなかった。言えなかったのだと、今ならわかる。
社交界では氷の令嬢と囁かれた。王太子の婚約者という立場がなければ、誰一人として私に近づこうとはしなかっただろう。実際、今まさにそうなっている。婚約という鎖が外れた途端、この広間に私の味方は一人もいない。
大理石の回廊を歩く。靴音だけが響く。すれ違う侍従たちが目を逸らすのが分かった。昨日まで丁寧に頭を下げていた者たちが、もう私を見ようともしない。壁に掛けられた歴代王妃の肖像画が、等間隔に並んで私を見下ろしている。いつかこの中に加わるはずだった。そんな未来が、たった今、跡形もなく消えた。不思議と惜しいとは思わなかった。
それでいい。
むしろ清々しいとさえ思った。偽りの敬意より、正直な無関心のほうがずっと心地よい。
王宮の正門を抜けると、公爵家の馬車が待っていた。御者のヴィルヘルムが何も言わずに扉を開ける。その目に憐憫はなく、ただ静かな忠義だけがあった。この老人は、私が生まれる前から公爵家に仕えている。深い皺の刻まれた顔は、何があっても同じ表情を保つ。それが私には、宮廷のどんな美辞麗句よりも信頼に値した。
「出して」
短く告げて、馬車に乗り込む。扉が閉まった瞬間、世界が遮断された。宮廷の喧騒も、嘲笑の残響も、すべてが厚い樫の扉一枚の向こうに閉じ込められた。
揺れ始めた車内で、私はようやく深く息を吐いた。コルセットが軋む。宮廷用の正装は、いつだって私の身体を締め付けていた。この衣装を着るたびに、自分が鋳型に押し込められた人形のように感じていた。絹の手袋を外すと、汗で湿った掌が露わになる。無意識に拳を握っていたらしい。爪の痕が、赤い三日月を刻んでいた。
──もう、着なくていい。
その事実が、じわりと染みてくる。
「セラフィーナ様……」
向かいの席で、侍女のリゼットが声を震わせていた。まだ十五の少女だ。公爵家に仕えて二年、いつも私の後ろを怯えながらついてきた。悪役令嬢の侍女という立場が、どれほど肩身の狭いものだったか。他の侍女たちは次々と暇を願い出たのに、この子だけが残った。理由を訊いたことはない。訊けば、きっと答えに困るだろうと思ったから。
その頬を、涙が伝っている。
「なぜ泣くの」
「だって……セラフィーナ様は、何も悪いことをしていないのに……」
少女の声が、不意に胸の奥の何かに触れた。
十八年間、誰にも言ってもらえなかった言葉だった。何も悪いことをしていない。ただそれだけのことを、この小さな侍女だけが、声に出して言ってくれた。
私は何も言わず、肩に掛けていた外套を外した。春とはいえ、日が落ちれば冷える。リゼットの小さな肩に、銀灰色の布をそっと掛けてやる。
「……え」
「寒いでしょう。王都を出れば、もっと冷える」
リゼットが目を見開く。それはそうだろう。氷の令嬢が、こんなことをするはずがない。十八年かけて築き上げた仮面には、優しさという罅など一本も入れてこなかったのだから。
けれど、もういい。
「リゼット。私はもう、悪役令嬢ではないの」
言葉にした瞬間、自分の声が震えていることに気づいた。泣いてはいない。ただ、身体の芯から何かが解けていくような、そんな感覚があった。
鋳型が、砕ける音がした──気がした。
窓の外を見る。王都の尖塔が遠ざかっていく。夕焼けに染まる空の下、あの華やかな嘘の世界が小さくなっていく。
もう誰の駒にもならない。
王太子の飾りにも、父の計画の道具にも、宮廷の嘲笑の的にも。私はこれから、自分の足で歩く。何の当てもない。原初魔法のことも知らない。ただ、鎖が外れたという事実だけが、今の私のすべてだった。
馬車は街道を西へ走る。領地までは丸一日。リゼットがいつの間にか泣き疲れて眠っている。外套を握りしめた小さな手を見て、私は少しだけ口元を緩めた。
こんな顔をするのは、いつ以来だろう。
夜が降りてきた。窓の外には星が瞬き始めている。このまま静かに領地へ帰り、公爵令嬢としての残務を片付け、それから──。
そこまで考えたとき、視界の端で何かが光った。
北の空。領地がある方角だ。
一瞬、稲妻かと思った。だが違う。稲妻は白い。あの光は──銀だ。
銀色の閃光が、地平線の向こうで脈打つように明滅している。空気が震える。馬車の窓枠がかたかたと鳴り、馬が怯えたように嘶いた。
「ヴィルヘルム、あれは何?」
御者台に声を投げる。返ってきたのは、老練な御者の、初めて聞く動揺した声だった。
「分かりません。ですが──あの方角は、領地の北端。国境付近かと」
魔力だ。あの光は魔力の放出だ。宮廷の魔術師が演習で見せるものとは桁が違う、圧倒的な量の魔力が、夜空を引き裂いている。
胸の奥で、何かが脈打った。
心臓ではない。もっと深い場所──骨の髄、血の底、魂の根のようなところで、何かが呼応するように熱を持つ。初めての感覚だった。けれど同時に、ひどく懐かしい。まるで長い眠りから叩き起こされた何かが、身体の内側で目を開けたような。指先が痺れる。視界の端が銀色に滲む。これは恐怖ではない。もっと根源的な何か──血が、覚えている。
リゼットが目を覚ました。銀光に照らされた少女の顔が、不安に歪んでいる。
「セラフィーナ様、あの光……」
「大丈夫」
そう答えた自分の声が、奇妙なほど確信に満ちていた。根拠はない。けれど胸の奥の熱が、あの光の先に行けと告げている。
「……急いで」
私は自分でも驚くほど低い声で言った。
「領地へ。全速力で」