第3話
第3話
昼過ぎから、ユーリは厨房に立っていた。
朝の蒸し物でタエが見せた涙の意味を、まだ咀嚼しきれていない。ただ、今夜の常連客に出す夕食を任されたという事実だけが、竈の前に立つ理由になっていた。宮廷であれば、百人分の宴席でも段取りは体に染みついている。だが今、目の前にあるのは蒸籠ひとつと、竈と、朝のうちに摘んできた山菜の残り。それだけで膳を整えなければならない。
裏口から外に出て、空を見上げた。午後の日差しが谷間に斜めに差し込み、宿の板壁を琥珀色に染めている。山の上のほうでは鳶が一羽、輪を描いていた。風は穏やかで、温泉の湯気が途切れることなく空へ溶けていく。この谷は時間の流れ方が違う、とユーリは思った。宮廷では刻限に追われ、一皿ごとに緊張が走っていた。ここには、その緊張がない。代わりにあるのは、山と湯と風が作る静かな圧力だった。急かすのではなく、待つことを許す類の圧力だ。
もう一度、沢に向かった。
朝と同じ獣道を辿り、小さな沢に降りる。午後の岩魚は朝より警戒心が強い。水中の影が岩陰に素早く逃げ込む。ユーリは膝まで水に浸かり、じっと動かなかった。流れの音だけが耳を満たし、足の感覚がゆっくりと冷たさに慣れていく。三尾。今夜の人数にはそれで足りるはずだ。一尾目を掴むまでに、朝の倍の時間がかかった。だが不思議と焦りはなかった。
宿に戻ると、タエが帳場の奥から顔を出した。
「今日は四人だよ。ゴウと、番屋のシゲ爺と、大工のハナと、その嫁さんだ」
「四人」
「毎月の十日前後に来るんだ。もう何年もね。じいさんが生きてた頃からの常連さ」
タエの声には、諦めに似た響きがあった。常連が通い続けているのは、料理ではなく、習慣のためだろう。亡き夫の湯治料理が消えてから、それでも足を運んでくれる人たちだ。期待はされていない。ただ、場所があるから来る。ユーリにはその空気が分かった。
厨房に戻り、献立を組み立てた。品数は多く出せない。素材も限られている。であれば、一品一品の輪郭をはっきりさせるしかない。
まず岩魚の下処理をした。腹を開き、内臓を抜き、骨に沿って包丁を入れる。身を開いて塩を薄くあて、竹の葉に載せた。竹の葉はタエの裏庭に生えていた笹から取ったものだ。香りづけと、蒸籠にくっつくのを防ぐ役目を兼ねる。
山菜は三種に絞った。うるいの葉、蕨の若芽、それから裏山で見つけた行者にんにく。行者にんにくは宮廷では使ったことがない。香りが強すぎて、王族の繊細な舌には不向きとされていた。だがこの土地の蒸気で蒸すなら、鉱物の風味が行者にんにくの尖った香りを丸く包むのではないか。朝の蒸し物で感じた、あの微かな鉱物の縁取りを信じてみることにした。
蒸籠を二段に重ね、下段に岩魚、上段に山菜を並べる。温泉の樋の上に据えると、じわりと蒸気が立ち上り始めた。
待っている間に、竈で粥を炊いた。タエの粥よりも水を少なめにし、米の粒が残る程度に仕上げる。塩はひとつまみ。それだけだ。だが米を炊く前に、ひと手間を加えた。温泉の湯を少量汲み、炊き水に混ぜたのだ。硫黄の匂いが飛ぶ程度のごく僅かな量だが、鉱物のほのかな味わいが米に移るはずだった。
日が傾き、谷間に薄紫の影が落ちる頃、玄関の引き戸が開いた。
最初に入ってきたのは、大柄な男だった。猟師のゴウだろうとユーリは察した。日に焼けた肌に深い皺が刻まれ、手は節くれ立っている。山を歩く人間特有の、重心の低い歩き方をしていた。その後ろから白髪の老人——シゲ爺と呼ばれた男が杖をつきながら入り、続いて四十がらみの女とその夫らしき痩せた男が並んで上がってきた。
誰もユーリに目を留めなかった。いや、正確には一瞥をくれたが、それだけだった。見知らぬ人間が厨房にいることに驚いた様子もない。タエが何か説明したのかもしれないし、あるいはこの温泉郷では、流れ者が一人増えたところで大した出来事ではないのかもしれなかった。
四人が座敷に上がり、いつもの席に着いた。それぞれの定位置があるのだろう、迷いなく腰を下ろす。タエが白湯を配り、ぽつりぽつりと世間話が始まった。鹿が里に降りてきた話。屋根板を替えなければならない話。どこそこの婆さんが腰を痛めた話。どれも小さな、この谷間の中で完結する話題だった。
ユーリは膳を整えた。
一人分の膳に載せたのは三品。温泉蒸しの岩魚、山菜の蒸し盛り、そして温泉水で炊いた粥。品数は少ない。宮廷の晩餐なら前菜にも満たない。だが、どの皿もこの土地の素材と蒸気だけで成り立っている。
膳を運んで座敷に置くとき、手が僅かに震えた。
宮廷では、配膳は下働きの仕事だった。ユーリ自身が客の前に皿を運ぶことはなかった。今、自分の手で膳を置くという行為が、不思議に緊張を伴う。作った人間と食べる人間の距離が、こんなにも近い。
四人は膳を前にして、一瞬だけ箸を止めた。蒸籠から移した山菜の色が鮮やかだったのか、あるいは岩魚の皮に浮いた塩の結晶が目を引いたのか。だが誰も何も言わず、静かに箸を取った。
ゴウが岩魚の身をひと箸、口に運んだ。シゲ爺がうるいの葉を噛んだ。大工のハナが行者にんにくの蒸したものを口に入れ、一度だけ目を閉じた。嫁さんが粥を一口すすり、匙を置いて、もう一口。
会話が止まっていた。
それまでぽつぽつと続いていた世間話が、膳が置かれた瞬間から途絶えている。聞こえるのは箸が器に触れる小さな音と、咀嚼の音だけだった。四人の視線は自分の膳に落ちたまま、顔を上げる者がいない。
ユーリは厨房の入口に立って、その光景を見ていた。
宮廷では、料理への反応はいつも明確だった。王族は口に合えば頷き、合わなければ皿を下げさせた。貴族の晩餐会では称賛が飛び交い、時には拍手すら起きた。美辞麗句。社交辞令。あるいは無言で皿を残すという、最も厳しい批評。どれであっても、反応があった。反応によって自分の料理の位置を知り、次の一皿を修正する。それが十五年間のやり方だった。
だが今、この座敷で起きていることは、そのどれとも違っていた。
称賛がない。批判もない。ただ、食べている。黙って、最後の一口まで、丁寧に食べている。
シゲ爺が粥の椀を傾けて、底に残った米粒のひとつまで匙で掬い取った。ハナの嫁さんが、蒸籠の底に溜まった汁を器に移し、それも飲んだ。朝、タエがやったのと同じ仕草だった。
沈黙が満ちている。けれどそれは気まずい沈黙ではなかった。重くもなく、冷たくもない。食べることに集中している人間が発する、温かい沈黙だった。ユーリはその沈黙の中に立ち尽くしていた。
胸の奥で、何かがほどけていく感覚があった。
十五年間、称賛を糧に皿を重ねてきた。「見事だ」「さすが宮廷料理長」——その言葉がなければ、自分の料理が正しいのかどうか分からなかった。言葉がなければ不安になり、言葉があれば安堵した。料理の価値を、いつも他人の言葉で測っていた。
この沈黙は、言葉を必要としていなかった。
四人が膳を空にするまで、誰ひとり口を開かなかった。やがてゴウが箸を置き、最後に白湯をひと口飲んで、息をついた。シゲ爺が膳を脇に寄せ、背筋を伸ばした。ハナが嫁さんと目を合わせ、小さく頷いた。
それだけだった。美味いとも不味いとも言わない。ただ、食べ終わった。完全に、残さず。
ユーリは膳を下げに座敷に戻った。空の器を重ねていると、ゴウが太い声で言った。
「あんた」
振り向くと、猟師の鋭い目がユーリを見ていた。値踏みではない。昨日タエがユーリの手の胼胝を見たときと似た、確かめるような目だった。
「明日、山の上の沢を教えてやる。ここのとは別の沢だ。岩魚より旨い魚がいる」
それだけ言って、ゴウは立ち上がった。他の三人も続いて帰り支度を始める。玄関で草履を履きながら、タエに「また来る」とだけ告げて、夜の温泉郷に消えていった。
厨房に戻ると、タエが洗い物を始めていた。ユーリは隣に立ち、椀を受け取って拭いた。しばらく無言で洗い物が続いた。水の音だけが響く。
「ゴウは気難しい男だよ」
タエがぽつりと言った。
「あの人が自分から誰かに声をかけるのは珍しいことだ。ましてよそ者にね」
ユーリは拭き終えた椀を棚に戻した。木の椀は軽く、手のひらに馴染んだ。
「じいさんが生きてた頃は、ゴウが獲物を持ち込んで、じいさんがそれを料理してた。あの二人は言葉なんかなくても通じ合ってたんだよ」
タエの声は淡々としていたが、その奥に、長い年月をかけて乾いた寂しさのようなものが聞こえた。
洗い物を終え、竈の火を落とした。厨房が暗くなり、裏口から差し込む月明かりだけが土間を照らしている。樋を流れる温泉の音が、夜になるといっそう澄んで聞こえた。
ユーリは厨房の隅に腰を下ろし、壁に背を預けた。膝の上に手を置くと、まだ岩魚を捌いたときの感触が指先に残っていた。
明日、山の上の沢へ行く。そこにはまだ知らない素材がある。猟師が「旨い」と言う魚がいる。この谷には、自分がまだ触れていないものがいくつもあるのだと、今日の沈黙が教えてくれた。
裏口の向こうで、湯気が月光に白く浮かんでいた。ユーリはそれをしばらく眺めてから、静かに目を閉じた。