第2話
第2話
外交晩餐の知らせが届いたのは、朝の祈りを終えた直後だった。
「今夜の宴に人手が足りない。お前も給仕に入りなさい」
侍女頭の声は、命令というより通達だった。断る余地など最初からない。私は頷き、渡された白い給仕服に袖を通した。聖女の正装ではない。神殿で下働きをする者たちが身につける、飾り気のない麻の衣。袖口がわずかに長く、手首まで隠れる。誰かのお下がりなのだろう、洗い晒されて生地が薄くなっていた。肌に触れる麻の感触はざらつき、首元から微かに石鹸と汗の混ざった匂いがした。前の持ち主がどんな人だったのか、考えても意味のないことが頭をよぎる。鏡を持たない物置の部屋では、自分がどんな姿をしているのか確かめようもない。ただ、胸元に聖印の紋章がないことだけが、指先の感触でわかった。紋章があった場所には、何度も洗われて色の褪せた布地が、かすかに凹んだ縫い跡を残しているだけだった。
宴の広間は、私の知る神殿とは別の場所のようだった。
天井から幾重にも垂らされた薄絹が、蝋燭の光を受けて淡い金色に揺れている。長いテーブルには銀の食器が並び、杯の縁が炎を映してちらちらと瞬いていた。花の香り——白百合だろうか——が空気の底に漂い、その甘さの中に蝋の溶ける匂いが混じっている。磨き上げられた石の床に自分の足音が吸い込まれるたびに、ここは私のいる場所ではないと、身体が訴えていた。
私に割り当てられたのは末席だった。
広間の最も奥、壁に近い席。主賓の座からは最も遠く、給仕として控えるにしても、存在を消すにはちょうどいい場所。銀の水差しをひとつ渡され、席についた客の杯が空になれば注ぐ。それだけが今夜の役目だった。水差しの取っ手は冷たく、両手で抱えると、その重みが腕にじんわりと伝わった。
客たちが入り始める。この国の貴族や高位の神官たち。そして、深い藍色の装いを纏った一団——隣国アルヴェーゼの使節。中庭で見たあの外套と同じ色。心臓がわずかに速くなるのを感じて、私は水差しを抱え直した。末席から主賓の座は遠い。顔までは見えない。見えなくていい。見てはいけない。
広間が静まったのは、神官長が壇上に立ったときだった。
「本日は、アルヴェーゼ王国よりカイル陛下をお迎えし、両国の絆を深める宴の場を設けられましたことを、神の御名において慶びといたします」
形式的な挨拶。けれどその声には、昨日までの神官長にはなかった張りがあった。外交の場で見せる顔。私が知る——聖印の儀式を淡々と打ち切ったあの声とは、別人のようだった。
「さて、本日はこの宴に相応しき存在を皆様にご紹介いたします」
神官長が横に手を差し伸べると、壇上の袖から一人の少女が現れた。
白い正装。胸元に金糸で刺繍された聖印の紋章。亜麻色の髪を丁寧に編み上げ、額には細い銀の飾り。年の頃は私と変わらないか、少し下だろうか。広間の光を浴びて、その姿は完成された一枚の絵のようだった。
「我が神殿の聖女、エリアーヌでございます」
拍手が広間を満たした。
私の手から、水差しの取っ手を握る力が抜けた。咄嗟に握り直す。銀の表面に、震える自分の指が映っていた。
聖女。あの子が、聖女。
知らない顔だった。少なくとも、私が神殿にいた数ヶ月の間に見た覚えはない。いつ現れたのか。いつ聖印を受けたのか。それとも——最初から用意されていたのか。私という失敗作の代わりに、壇上に立たせるための少女が。
エリアーヌと呼ばれた少女は、慎ましく頭を下げた。その仕草は完璧だった。教え込まれた完璧さ。祈りの形を知っている人間の、淀みのない所作。私が毎朝、空の祈りの間で膝をつくのとは違う——見せるための祈り。広間の誰もが見惚れていた。あの少女こそが聖女なのだと、疑う者は一人もいないのだろう。当然だ。壇上に立つ者が聖女であり、末席で水差しを握る者は誰でもない。
私は、消されたのだ。
偽聖女という汚名ですら、もう必要ない。最初からいなかったことにされている。聖印の儀式に三度失敗した少女は、この場のどこにも存在しない。末席で水差しを抱える給仕は、誰の目にも映らない透明な影にすぎなかった。
唇を噛んだ。泣くまいと思ったのではない。泣くほどの感情がどこにあるのか、自分でもわからなかった。ただ、胸の奥が冷たく凍っていくような感覚があった。悲しみともいえない。怒りでもない。もっと静かな——水底に沈んでいくような、音のない重さ。噛んだ唇の内側に、鉄の味がうっすらと広がった。舌先でなぞると、小さな傷の輪郭がはっきりと触れた。痛みだけが、自分がここにいる証のように思えた。
宴が進む。料理が運ばれ、杯が交わされ、広間は次第に華やいだ空気に包まれていく。私は末席の客の杯に水を注ぎ続けた。腕が疲れ始めていた。水差しの重みが、時間とともに少しずつ増していくように感じられた。注ぐたびに水面が揺れ、杯の中に蝋燭の光が小さく散った。客は杯を受け取るとき、私の顔を見なかった。当然のことだった。給仕とは、そういう存在だ。
主賓の座は遠い。けれど時折、話し声の合間に、低く落ち着いた声が耳に届くことがあった。聞き取れるほど大きくはない。ただ、その声が響くと、周囲の空気がほんのわずかに静まる。あの人の声だ、と思った。根拠はない。ただそう感じただけだった。
どれくらいの時間が過ぎただろう。宴も中盤を迎え、客の注意が料理と酒に向かう頃——広間の空気が、不意に変わった。
「ひとつ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
その声は、末席にまで明瞭に届いた。低く、穏やかで、けれど広間の隅々まで行き渡る確かな響き。主賓の席から発せられたその声を聞いた瞬間、私の心臓が跳ねた。あの中庭で、一瞬だけ交わした視線の記憶が蘇る。
カイル王が、立ち上がっていた。
末席からでも、銀灰の髪がはっきりと見えた。蝋燭の光を受けて、冷たい銀と温かな金の間で色を変えるその髪。壇上の神官長に向けられたその視線は、宴の和やかさとは異質の——何かを見定めるような静けさを帯びていた。
「先刻ご紹介いただいた聖女殿には、心よりお慶びを。しかし私は、到着の折にこの神殿の回廊で、祈りを捧げている別の少女を見かけました」
広間が、しん、と静まった。
「あの回廊で祈っていた少女は?」
沈黙が落ちた。それは、宴の最中に訪れるべき種類の沈黙ではなかった。食器の触れ合う音も、衣擦れの音も、すべてが凍りついたように止まっていた。神官長の顔から血の気が引くのが、末席からでもわかった。唇が微かに動いたが、声にならない。壇上のエリアーヌの横で、彼の両手がわずかに震えていた。隣に座る貴族たちの視線が一斉に壇上へ集まり、杯を口元に運びかけた手が宙で止まっていた。
カイル王は答えを急がなかった。ただ立ったまま、穏やかな微笑を浮かべて待っている。その穏やかさが、かえって逃げ場を塞いでいた。
水差しが、指の間で滑った。
あの人は知っている。柱の影で目が合ったあの瞬間を、覚えている。偽聖女が祈りの間で膝をついていたことを——いや、もしかしたら、私があの回廊にいた理由まで。何も知らないふりをして問いかけている、あの声。あの瞳の奥にある、慈悲とも残酷とも区別のつかない光。
私は水差しを胸の前に抱え、息を殺した。末席の影の中で、心臓だけが狂ったように鳴り続けていた。
誰も答えない沈黙の中、カイル王の灰色がかった青い瞳が、ゆっくりと広間を見渡した。あの視線がこちらに届くまで、あと何秒だろう。見つかりたくないのか、見つけてほしいのか、自分でもわからなかった。
ただひとつ、確かなことがあった。この宴の席で、あの人は意図して問うた。偽聖女の存在を、消させないために。
——なぜ。
その問いが、胸の中で小さな炎のように揺れた。あの人が私を見たのは、ほんの一瞬のはずだった。柱の影の、名前も知らない少女のことを、隣国の王がわざわざ宴の席で問う理由など、あるはずがない。
なのに、あの声は私を探していた。
水差しの銀が、蝋燭の光をひとすじ弾いた。その小さな閃きを、広間の誰かが見ただろうか。末席の影で、偽聖女の指が震えていることに、気づいた者はいただろうか。
答えのない問いを抱えたまま、私は息を止めて、あの灰色がかった青い瞳を待った。