第1話
第1話
三度目の光が、私の手のひらをすり抜けて消えた。
石の祭壇に刻まれた紋様が白く輝き、空気がぴんと張り詰め、やがて——何事もなかったかのように沈黙が戻る。その沈黙は、音がないのではなく、音を押し潰すような重さを持っていた。蝋燭の炎が揺れる微かな音すら、石壁に吸い込まれて消える。冷たい床に膝をついたまま、私は自分の両手を見下ろした。聖印が宿るはずの掌は、ただ白いだけだった。薄い皮膚の下に浮かぶ青い血管。それだけが、私がここに生きている証のような気がした。指先がかすかに震えていることに気づいて、私はそっと拳を握った。爪が掌に食い込む痛みだけが、はっきりとした現実だった。
「やはり降りぬか」
神官長の声は、もう失望すら含んでいなかった。最初の儀式では眉をひそめ、二度目には溜息をつき、三度目の今日はただ事実を読み上げるように告げた。私という存在に費やす感情が、もう残っていないのだと悟った。その声は書類の一行を読み終えたときのような、平坦な響きだった。私はもう案件ですらなく、処理済みの書類に等しいのだろう。
「偽聖女め」
誰が言ったのか、わからなかった。祭壇を囲む神官たちの間からこぼれたその囁きは、石壁に反響して消えた。けれど消えたのは音だけで、その言葉は私の胸の底に、小石のように沈んだ。
偽聖女。
その呼び名が、いつから公然と口にされるようになったのか、正確には覚えていない。最初はひそひそ声だった。廊下の角を曲がるたびに途切れる会話。私が近づくと目を逸らす侍女たち。それがいつしか、面と向かって言われるようになった。神に選ばれた聖女として異世界に召喚されたはずの少女は、三度の儀式を経てもその証を示せない。彼らにとって私は、期待外れの荷物でしかなかった。
儀式の翌日、私の部屋が変わった。
東棟の小さいながらも窓のある一室から、北棟の奥まった物置へ。案内した侍女は何も言わなかったが、扉を開けた瞬間、黴びた布と乾いた埃の匂いが鼻を突いた。喉の奥がひりつくような、長く人の出入りがなかった場所特有の空気だった。窓はない。天井近くに換気のための細い隙間があるだけで、そこから差し込む光は、部屋の暗さを際立たせるだけだった。
木箱が壁際に積まれ、その隙間に寝台が押し込まれている。シーツは清潔だったが、それは誰かの最後のやさしさなのか、ただの習慣なのか、判断がつかなかった。寝台に腰を下ろすと、薄い藁の詰め物がかさりと鳴った。壁に手を触れると、石の表面はひんやりと湿っていて、指先に薄い水滴がついた。ここは人が眠る場所ではなく、物が忘れられる場所だった。
「お食事は下働きの方々と同じものになります」
侍女はそう告げて、足早に去った。振り返ることはなかった。その足音が回廊の向こうに消えるまで、私は扉の前に立ったまま動けなかった。足音が完全に途絶えたとき、部屋の静寂が急に重さを増した気がした。
帰る場所はない。この世界に来る前の記憶は鮮明なのに、戻る方法を誰も教えてくれない。「本物の聖女が見つかるまで」——それが、私がここに置かれている理由だった。生かされている、と言い換えてもいい。必要とされているのではなく、処分する理由がまだないだけ。
それでも私は、毎朝ひとつだけ、やめられないことがあった。
祈りの間。
広い空間に祭壇がひとつ。高い天井からステンドグラスを通して光が降り注ぐその場所は、早朝には誰もいない。正式な祈りの時間は昼と夕にあり、神官たちはそこに揃う。けれど朝の祈りの間は、私だけの場所だった。偽聖女が祈ることを、誰も止めはしない。止める価値もないのだろう。
石の床は冷たい。膝を通して、その冷たさが身体の芯まで伝わる。手を組み、目を閉じる。祈る相手がいるのかもわからない。この世界の神が私の言葉を聞いているとは思えない。それでも手を合わせると、呼吸が少しだけ楽になった。組んだ指の隙間から、自分の体温がゆっくりと逃げていくのを感じる。冷えた指先が痺れるように痛む。けれどその痛みの中に、不思議な安らぎがあった。ここにいる理由を、自分で作っているような気がした。
祈りの形だけが、私を私にしていた。
光の角度が変わり始める頃、私は目を開ける。ステンドグラスを透かした朝日が、赤と青の模様を床に落としていた。その色彩の中に膝をついている自分が、どこか別の世界の絵画のように感じられて、ふと笑いそうになる。笑ったところで、誰に見せるわけでもないけれど。
立ち上がり、祈りの間を出る。回廊は長く、柱が等間隔に並んでいる。この時間帯は人通りが少ない。私はいつも柱の影を選んで歩く。目立たないように。誰かの視界に入らないように。偽聖女が堂々と歩くことは、ここでは許されない空気がある。
その日、回廊の途中で足を止めたのは、中庭から聞こえた声のせいだった。
複数の人の気配。馬の嘶き。金属がぶつかる硬い音。柱の影に身を寄せて覗くと、中庭に見慣れない一団がいた。深い藍色の外套を纏った騎馬の列。この国の神官や兵士が着るものとは明らかに異なる、重厚で洗練された装い。馬具の金属飾りが朝日を弾いて鋭く光り、蹄が石畳を叩くたびに乾いた音が中庭に響いた。
隣国からの外交使節団——その噂は、数日前から神殿の中を駆け巡っていた。アルヴェーゼ王国。豊かな学術と交易で知られる隣国から、王自らが使節を率いて来るのだという。私には関係のないことだと思っていた。偽聖女が外交の席に呼ばれることはないし、呼ばれたいとも思わなかった。
けれど。
一団の中心に、ひとりだけ外套を纏わない人物がいた。
銀灰の髪。長身。周囲の騎士たちより頭ひとつ分高い背が、朝の光の中に真っ直ぐ立っている。年の頃は——私よりずいぶん上だろう。四十に届くかどうか。けれどその立ち姿には、年齢という尺度がそぐわない、ある種の静けさがあった。騒がしい到着の喧噪の中で、その人だけが別の時間を生きているように見えた。風が銀灰の髪を微かに揺らしたとき、その横顔に落ちた影が、まるで精緻な彫刻に刻まれた陰影のように見えた。
中庭を横切る足取りは、急ぎもせず、遅れもしない。穏やかで、けれど迷いのない歩調。私は柱の影からその横顔を目で追っていた。見てはいけないものを見ている気がした。偽聖女が王族の姿を盗み見ることは、きっと許されない。
そう思って視線を逸らそうとした、その瞬間だった。
男がこちらを向いた。
正確には、歩きながらほんのわずかに首を巡らせただけだった。回廊の柱の影——人ひとり隠れられるかどうかの暗がりに、その視線が届いた。灰色がかった青い瞳。穏やかな光を湛えているのに、射抜くような鋭さを奥に秘めている。
息が止まった。
見つかった、と思った。何を見つかったのか自分でもわからないのに、心臓がひとつ大きく跳ねた。背中が柱に張りつき、指先が石の凹凸を無意識に掴んでいた。逃げなければと思うのに、足が動かない。あの瞳に捉えられた瞬間、身体中の血が一斉に立ち止まったような感覚だった。
男は——かすかに口元を緩めた。微笑み、と呼ぶにはあまりに淡い。けれど確かに、表情が動いた。私を認めたのか、それともただ視界の端に映っただけなのか。判断がつかないまま、男は元の方向に視線を戻し、何事もなかったかのように中庭を横切っていった。
残されたのは、柱に背をつけたまま動けない私だけだった。
心臓の音がうるさい。手のひらが薄く汗ばんでいる。あの一瞬の視線に、意味があったのかなかったのか。考えても仕方のないことだった。隣国の王と、偽聖女。交わるはずのない線が、ほんの一瞬だけ触れた——ただそれだけのこと。
それだけのことなのに、あの灰色がかった青い瞳が、まぶたの裏に焼きついて離れなかった。
私は唇を噛み、回廊を歩き出した。物置の部屋に戻り、薄い毛布にくるまり、目を閉じる。毛布の下で、自分の心臓がまだ速く打っているのがわかった。天井近くの隙間から差し込む細い光を見つめながら、あの視線の意味を考えまいとして、考えてしまう。明日もまた、祈りの間に行く。そうして日々をやり過ごす。それだけが私にできることだった。
けれどその夜、眠りに落ちる間際に浮かんだのは、神への祈りの言葉ではなく、中庭の光の中に立っていたあの人の横顔だった。
何も変わらない日々に、小さな棘が刺さったのだと、そのときの私はまだ気づいていなかった。