第3話
第3話
第五層に降りた瞬間、松明の炎が真横に倒れた。
風ではない。瘴気の圧だ。空気そのものが重さを持ち、炎を押し潰そうとしている。壁面の黒い鉱石が一際激しく脈打ち、紫色の光が通路全体を不規則に照らしていた。足元の水溜りはもはや水ではない。紫黒色の粘液が波打つように蠢き、靴底に絡みつく。一歩踏み出すたびに、引き剥がすような音が響いた。鼻腔を突く腐臭が層を増すごとに濃くなり、舌の奥に鉄錆のような味が張りついて取れなかった。
リオンの右手は、もう手首まで紫に染まっていた。
袖の奥に隠しているが、感覚が変わってきている。痺れではない。むしろ逆だ。指先の一本一本が過敏になり、空気中の瘴気の流れまで触覚で読み取れるほどに研ぎ澄まされている。三年分の蓄積が、瘴気と共鳴している。体の内側で何かが膨張し、皮膚の裏側を押し広げようとしている。右手を握り込むと、爪が掌に食い込む痛みすら遠い。代わりに、脈拍に合わせて紫の染みが明滅するのが見えた。まるで自分の体の中に、もう一つ別の心臓が宿ったかのようだった。
「最深部はこの先だ。気を抜くな」
ガルドの声に緊張はない。むしろ高揚している。大剣を握り直し、松明を高く掲げた。炎が瘴気に押されて小さくなり、ガルドの顔を下から照らした。影が深く刻まれた表情は、獲物を前にした猛禽のそれだった。
通路が開けた。
最深部は、巨大な円形の広間だった。天井は闇に消えて見えない。床一面に刻まれた魔法陣が紫色に発光し、中央には黒い石碑が屹立していた。石碑の表面を無数の文字が這い回り、読もうとすると視界が歪んだ。
「あれが噂の呪いの罠か」
ガルドが石碑を見据え、口角を上げた。
「近づかなければ問題ない。周囲を調べて宝物庫への道を探す。セレナ、感知を」
セレナが細剣を翳し、魔力の波動を広間に放った。波動が壁面に触れて跳ね返り、空間の構造を読み取る探査魔法だ。
「東の壁に隠し通路がある。……でも石碑の魔法陣が反応してる。迂回はできないかも」
「構わん。ドルク、前に出ろ。通路の入口まで一気に——」
ガルドが踏み出した瞬間だった。
床の魔法陣が炸裂した。紫色の光柱が石碑から噴き上がり、広間全体を飲み込んだ。リオンの目が捉えた。光柱の中に黒い筋が走り、それが蛇のようにガルドの体に巻きついていく。呪詛の糸だ。ガルドの肌に紋様が浮かび上がり、体が硬直した。大剣が手から滑り落ち、石畳に甲高い音を立てた。
「ガルドッ!」
セレナが叫んだ。ドルクが駆け寄ろうとするが、魔法陣の衝撃波に弾き飛ばされた。フィーナが矢を番えるが、射るべき敵がいない。罠だ。石碑そのものが呪いの発生装置であり、一定範囲に踏み込んだ者を自動的に呪う。
ガルドの顔が蒼白に変わった。紋様が首筋まで這い上がり、口から紫色の泡が漏れる。目が焦点を失い、体が傾いだ。
リオンは考えるより先に走っていた。
荷物を投げ捨てた。ポーションの瓶が割れる音が背後で鳴った。ガルドの体に手を触れた瞬間、呪いの全容が流れ込んできた。
——腐食の呪詛。生命力を侵食し、肉体を内側から崩壊させる高位呪術。解呪には最上位の聖職者が必要とされる。放置すれば三日で死に至る。
肩代わりの術が、反射的に起動した。
呪いがガルドの体から剥離し、リオンの体へ流れ込む。傷や毒とは次元が違った。骨の髄まで凍りつくような冷たさが全身を貫き、内臓が捻じれる感覚に視界が反転した。胃の底からせり上がる吐き気を奥歯で噛み殺した。ガルドの肌から紋様が消え、代わりにリオンの両腕に黒い紋様が浮かび上がった。
だが——終わらなかった。
呪いを引き受けた瞬間、三年分の蓄積が暴走した。リオンの体内に眠っていた無数の傷の記憶——肋骨の軋み、毒の灼熱、脱臼の浮遊感、裂傷の鋭さ——それらすべてが呪いと共鳴し、増幅し、一気に体の外へ噴き出した。
リオンの体から紫黒色の瘴気が爆発するように溢れた。
床が震えた。壁面の鉱石が砕け、天井から礫が降る。リオンの体を中心に瘴気の渦が巻き、広間の空気が紫に染まった。リオン自身、何が起きているのかわからなかった。体の制御が利かない。口から声にならない叫びが漏れ、膝が折れた。両手を床につくと、手のひらから瘴気が広がり、石畳に亀裂が走った。
「な——何が起きて……」
ガルドが呪いから解放され、呆然と立ち上がった。体に異常はない。紋様も消えている。だが目の前で、リオンから禍々しい瘴気が噴き出し続けている。
「リオンが……呪いをかけた!」
セレナの声が広間に響いた。
細剣をリオンに向け、碧眼が恐怖と確信に染まっている。
「見なさい、あの瘴気! あの紋様! リオンが石碑の呪いを操ったのよ! ガルドに呪いをかけて、今それを解放してる!」
「待て、セレナ——」
フィーナの制止は届かなかった。ガルドの目が変わった。呆然から、理解へ。理解から、怒りへ。
「……そういうことか」
ガルドは落ちた大剣を拾い上げた。刃先がリオンに向く。
「前から妙だと思ってたんだ。こいつがいるときに限って、変なことが起きる。ダンジョンの罠が不自然に発動する。瘴気が濃くなる。全部——全部こいつが仕組んでたのか」
「違う」
リオンは声を絞り出した。体から噴き出す瘴気を抑えようとするが、制御できない。両腕の黒い紋様が脈打ち、痛みが全身を貫いていた。
「違う、これは呪いの肩代わりで——」
「肩代わりだと? 笑わせるな」
ガルドの声に温度がなかった。嘲りすらない。異物を排除する、純粋な拒絶だった。
「回復術師が呪術を使う。なるほどな。だから腕が立たないふりをしていたのか。荷物持ちのふりをしながら、俺たちに呪いをかけ続けていた」
「聞いてくれ。俺は三年間、お前たちの傷を——」
「黙れ」
ドルクの声だった。
リオンの言葉が止まった。ドルクだ。三年間、罵倒もしなかったが庇いもしなかった男。その男が、初めて明確な敵意を目に宿していた。
「見りゃわかる。そいつは人間の出す瘴気じゃねえ。呪術師だ。間違いない」
フィーナが弓を下ろし、視線を彷徨わせている。迷っているのだ。だがその迷いは、リオンを助ける方向には動かなかった。弦を握る指が白くなるほど力が入っていたが、その矢が向くべき先を決められずにいるだけだった。四対一。三年間の信頼など、最初から存在しなかった。存在しないものは、崩れることすらない。
リオンは膝をついたまま、四人を見上げた。瘴気がまだ体から漏れ続けている。抑えようとすればするほど、呪いの紋様が脈打ち、痛みが増す。
ガルドの目。セレナの目。ドルクの目。フィーナの目。
そこに映っているのは、三年間共に戦った仲間ではなかった。化け物を見る目だった。
リオンは口を閉じた。
弁明は無駄だ。三年間の献身が何の証拠にもならないなら、言葉はもっと届かない。体から溢れるこの瘴気が、どんな説明よりも雄弁にリオンを「敵」だと語っている。
石碑の光が消え、広間が薄暗い松明の灯りだけに戻った。瘴気は少しずつ収まりつつあったが、リオンの両腕に刻まれた黒い紋様は消えない。呪いは確かにリオンの体に根を下ろしていた。ガルドから引き受けた呪いが、三年分の蓄積と融合して、もう剥がせなくなっている。
ガルドが大剣を肩に担ぎ直した。
「ここで始末するか……いや、証拠がいる。ギルドに突き出す」
セレナが頷いた。
「そうね。呪術師をパーティに入れていたなんて知れたら、私たちの信用に関わる。きちんと処分しないと」
処分。その言葉が、妙に軽く聞こえた。三年間の日々が、たった一言で片づけられる。ポーションを調合した夜も、野営で火の番をした朝も、すべてが「呪術師の偽装」として上書きされていく。リオンは立ち上がろうとして、膝が笑った。呪いの侵食が体力を奪っている。
それでも——
リオンは立った。
四人の刃と矢と盾と剣に囲まれたまま、黒牙の迷宮の最深部を歩き出した。足取りは重く、体は軋み、両腕の紋様は暗い光を放ち続けている。
背中に四つの視線が突き刺さっていた。三年間、一度も振り返らなかった背中に。
今はもう、振り返る理由すらなかった。