第2話
第2話
黒牙の迷宮の入口は、山肌に開いた巨大な裂け目だった。
岩壁の断面が黒く変色し、まるで獣の顎のように左右に広がっている。奥から吹き上げる風は冷たく、かすかに腐臭を含んでいた。朝日を背にしても、入口から三歩先はもう闇に沈んでいる。風が通るたびに裂け目の縁が低く唸り、山そのものが呼吸しているように聞こえた。
リオンは背中の革袋を揺すって位置を直した。ポーション十五本に加え、ガルドの予備の大剣、セレナの触媒結晶の予備、ドルクの盾用の補修具。総重量は自分の体の半分に迫る。革紐が鎖骨に食い込み、肩の筋が引き攣るのを感じた。昨夜の肋骨はどうにか繋がったが、深く息を吸うと右の脇腹に鈍い痛みが走った。
「行くぞ」
ガルドが松明を掲げ、先頭を切る。ドルクが大盾を構えてその横に並び、セレナとフィーナが中衛。リオンは最後尾だ。いつもの隊列。いつもの位置。
迷宮に一歩踏み入れた瞬間、空気が変わった。外界の朝の冷気とはまるで異質な、粘りつくような冷たさが肌を覆う。松明の炎が揺らぎ、壁面の黒い鉱石がぬめるように光を反射した。足裏を通じて微かな振動が伝わってくる。迷宮が生きている——そう錯覚させるほどに、この場所は脈打っていた。
「瘴気が濃いな。さすがAランク上位だ」
ガルドが口の端を上げた。恐怖ではない。愉悦だ。強敵と戦えることへの純粋な高揚。松明の灯りに照らされた横顔は、これから地獄に踏み込む者のそれではなく、祭りに向かう子供のそれだった。この男のこういうところが、冒険者として一流である所以でもあった。実力は本物なのだ。ただ、その実力の何割かがリオンの犠牲で底上げされていることを、本人だけが知らない。
第一層の通路を進むと、壁の裂け目から黒い甲殻の魔蟲が湧いた。体長は人の腕ほど。一匹なら脅威ではないが、天井からも床からも次々に這い出してくる。節足が岩肌を掻く音が四方から迫り、甘酸っぱい体液の臭いが鼻を突いた。
「雑魚だ。押し通る!」
ガルドの大剣が弧を描き、三匹をまとめて叩き潰した。セレナの細剣が魔力を纏い、青白い軌跡で壁面の群れを薙ぎ払う。フィーナの矢が暗闘の奥を射抜き、甲高い悲鳴が反響した。ドルクの大盾が前方を完全に塞ぎ、後続の群れを押し返す。
四人の連携は、確かに美しかった。
リオンは最後尾で荷物を守りながら、足元に群がる魔蟲を踏み潰していた。甲殻が靴底で砕ける感触が、くぐもった音とともに足裏に伝わる。回復術師が前線に出る必要はない。そう言われて三年。実際には——
ガルドの右腕に魔蟲が噛みついた。甲殻の顎が鎧の隙間に食い込み、毒牙が肉を抉る。リオンの目がそれを捉えた瞬間、もう術は発動している。
痛みの肩代わり。
ガルドの右腕の裂傷と毒が、リオンの右腕に転写された。皮膚の下を毒が走り、神経を焼く激痛。リオンは奥歯を噛みしめ、左手で右腕を押さえた。袖の下で皮膚が赤黒く膨れ上がり、血管が浮き出るのが見えた。自己再生が毒を分解し始める。十秒。二十秒。脂汗が額を伝う頃には、傷は塞がり、毒も消えていた。
ガルドは自分の右腕をちらりと見て、首を傾げた。
「……あれ、噛まれた気がしたんだが」
「鎧が弾いたんだろ」
ドルクがそう言い、ガルドは「だな」と頷いた。
リオンは表情を殺したまま、右腕を背中の荷物の陰に隠した。痛みの残響がまだ腕の奥で燻っている。再生は終わっても、体が覚えている痛みは術では消せない。
第二層に降りると、通路の幅が狭まり、天井が低くなった。松明の炎が壁に大きな影を投げ、一歩ごとに足元の水溜りが跳ねた。
広間に出た瞬間、空気が震えた。
闇の奥から現れたのは、体長四メートルを超える巨大な蜥蜴だった。黒い鱗が瘴気を纏い、裂けた口からは紫色の霧が漏れている。「黒牙蜥蜴」——この迷宮の中層を支配する名付き魔獣。
「面白え! ドルク、受けろ! セレナ、左から回り込め!」
ガルドの指示は的確だった。ドルクが大盾で突進を受け止め、セレナが側面に回る。フィーナが後方から牽制の矢を放ち、黒牙蜥蜴の注意を分散させた。
ガルドの大剣が鱗の隙間を捉え、深く斬り込んだ。だが黒牙蜥蜴は怯まない。尾が横薙ぎにドルクを襲い、大盾ごと壁に叩きつけた。鎧が軋む音と、ドルクの呻きが重なった。
リオンの目が動く。ドルクの左肩が脱臼している。大盾を支える腕が震え、次の攻撃を受ければ構えが崩れる。
肩代わり。
ドルクの左肩の脱臼がリオンの左肩に移る。関節が外れる感覚に、視界が白く弾けた。骨と腱が本来あるべき位置から引き剥がされる、あの吐き気を催す浮遊感。リオンは壁に背をつけ、歯を食いしばりながら左腕を引いて自力で関節を嵌めた。鈍い音が自分の体の中で響いた。自己再生が損傷を修復するまでの数秒が、永遠に思えた。
ドルクは大盾を持ち直し、何事もなかったように構えを立て直した。本人は一瞬痛みを感じたはずだが、戦闘の興奮がそれを飲み込んだのだろう。
セレナの魔力を纏った細剣が黒牙蜥蜴の首筋を貫いた。絶命の咆哮が広間に反響し、巨体が崩れ落ちた。紫色の血が石畳に広がり、瘴気と混ざり合って甘い腐臭を放った。
「よし! 今日は調子いいな、俺たち」
ガルドが血に濡れた大剣を肩に担ぎ、笑った。
「傷一つねえ。やっぱりこのパーティは最強だ」
セレナが髪をかき上げ、薄く笑った。フィーナが安堵の息を漏らし、ドルクが黙って盾の凹みを確認している。
リオンは壁に寄りかかったまま、荒い呼吸を整えていた。右腕の毒と左肩の脱臼。どちらも再生は終わっているが、体力の消耗は蓄積する。背中の荷物が、さっきより重く感じた。
「おい、リオン。何突っ立ってんだ。ポーション配れ」
「ああ」
怪我はないはずの四人にポーションを渡す。念のための体力回復用だと、ガルドは思っている。実際には必要ない。リオンが全部引き受けたのだから。ポーションの瓶を手渡すとき、指先が微かに震えているのを悟られないよう、リオンは瓶の底を掌で包むようにして差し出した。
第三層への階段を降りると、空気が一段と重くなった。壁面の黒い鉱石が脈動するように明滅し、足元の水溜りが紫色に濁っている。瘴気だ。目に見えるほど濃い瘴気が、通路全体に立ち込めていた。
リオンの胸の奥で、何かが軋んだ。
最初は肋骨の古傷が疼いたのかと思った。だが違う。もっと深い場所——骨でも筋肉でもなく、体の芯そのものが震えている。瘴気を吸い込むたびに、その震えが大きくなる。まるで体の内側に無数の亀裂が走り、そこに瘴気が流れ込んでくるような感覚だった。
「瘴気がきついな。口布を巻け」
ガルドの指示で全員が布で口元を覆った。リオンも従ったが、布越しでも瘴気は容赦なく体に沁み込んでくる。いや——リオンにだけ、より深く沁み込んでいるような気がした。
理由は見当がついた。
肩代わりの術は、他者の傷を自分の体に転写する。三年間、無数の傷と毒と病を引き受け続けた体は、通常の人間とは体の構造が変わっている。自己再生を繰り返した細胞は過敏になり、外部からの侵食に対する感受性が異常に高い。
つまり、瘴気の影響をもっとも受けやすいのは、この場で自分だけだ。
第三層の通路を進むにつれ、症状は悪化した。指先の感覚が鈍くなり、視界の隅に黒い靄がちらつく。時折、耳の奥で誰かが囁くような音が聞こえた。言葉にはならない。だが、何かを訴えている。
足が、重い。
「リオン、遅れてんぞ。荷物持ちが遅れてどうする」
「……すまない」
リオンは足を速めた。背中の荷物が肩に食い込み、呼吸が浅くなる。額に浮いた汗が冷たい。これは疲労ではない。体の奥で、何かが変わり始めている。
瘴気が三年分の蓄積に反応しているのか。それとも、もっと別の何かが起きているのか。
わからない。わからないが、足を止めるわけにはいかない。
第四層への階段が見えたとき、リオンは自分の右手を見た。指先がかすかに、紫色に変色していた。瘴気の色だ。すぐに袖で隠す。誰にも気づかれていない。
——大丈夫だ。まだ動ける。
四人の背中を追いながら、リオンは階段を降りた。暗闇の奥から、より濃い瘴気が吹き上がってくる。壁の脈動が速まり、足元の水溜りから気泡が浮かんでは弾けた。
この迷宮の最深部には、呪いの罠がある。
リオンの体は、まだそこに辿り着いてすらいない。それなのに——
右手の指先の紫が、少しずつ手の甲へと広がっていた。