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痛みの肩代わり、追放されて覚醒

第1話 第1話

第1話

第1話

血が、喉の奥からせり上がる。

 リオンは宿の寝台に倒れ込むなり、枕元の布を口に当てた。ごぼり、と湿った音がして、白い布が赤黒く染まる。腹の底から内臓を絞り出すような痛みが、波のように繰り返し押し寄せた。指先が痺れ、視界の端が白く明滅する。呼吸をするたびに胸の奥で骨が擦れる音がした。自分の体の中から聞こえるその音が、何よりも気味が悪かった。

 今日の依頼はBランクダンジョン「灰狼の巣穴」の掃討。パーティ「聖剣の盟約」にとっては日課のようなものだ。だが戦闘中、前衛のガルドが大型の灰狼に脇腹を抉られた。肋骨が三本折れ、肺に破片が刺さる致命傷。

 誰も気づかなかった。

 リオンが後方で回復魔法を唱えた瞬間、ガルドの傷はリオンの体に転写された。折れた肋骨も、肺を穿つ骨片も、すべてリオンの体が引き受け、自己再生で帳消しにする。「痛みの肩代わり」——回復術の禁忌にして、リオンが三年間隠し続けてきた本当の力。

 ガルドは自分が致命傷を負ったことすら知らない。「今日も楽勝だったな」と笑い、仲間と酒場へ消えた。

 リオンだけが、一人で血を吐いている。

 布を替えた。三枚目だった。宿の天井に染みが広がっているのを、もう何度見たかわからない。木造の天井板は湿気を吸って黒ずみ、蝋燭の灯りに照らされると人の顔のように見えることがある。激痛が引くまでに、短くても二刻はかかる。今夜は肋骨の分、もう少し長いかもしれない。

 三年。三年間、毎晩こうして血を吐いてきた。

 それでも構わないと思っていた。仲間を守れるなら。パーティが無事なら。

 ──そう思えた頃が、確かにあった。

 翌朝。酒場の隅で乾いたパンを齧っていると、聞き慣れた足音が近づいてきた。

「おい、リオン」

 リーダーのガルドが椅子の背を掴み、どかりと座る。金の髪を無造作にかき上げ、鍛え抜かれた腕を卓に投げ出す。Aランク冒険者の中でも屈指の剣士。王都の女たちが黄色い声を上げる英雄。

 その隣に、魔法剣士のセレナが立った。銀の長髪に切れ長の碧眼。腰の細剣に手を添えたまま、リオンを一瞥して視線を外す。目を合わせる価値もないとでも言うように。

 さらに後ろに、盾役のドルクと弓使いのフィーナ。四人が揃って、リオンを見下ろしている。

「明日、『黒牙の迷宮』に入る」

 ガルドが告げた。リオンの手が止まる。黒牙の迷宮——Aランク上位の高難度ダンジョン。最深部には呪いの罠があると噂される、王都近郊で最も危険な迷宮。先月、別のAランクパーティが挑んで壊滅したという話を、リオンはギルドの受付で耳にしていた。生還者はたった一人。その一人も、呪いに蝕まれて廃人同然だと聞く。

「ポーション多めに持てよ。お前の仕事はそれだけだ」

 ガルドの口元が歪んだ。嘲りですらない。本気でそう思っている顔だった。

「荷物持ち兼ポーション係。それがお前の役割だ。わかってるよな?」

「……ああ」

 リオンは短く答えた。口の中にまだ昨夜の血の味が残っている気がした。鉄錆に似た、あの味。パンを噛んでいるはずなのに、舌が拾うのは血の記憶ばかりだった。

 セレナが鼻で笑った。

「本当に、あなたって存在感がないわよね。パーティに回復術師がいるのに、結局ポーションに頼ってるんだもの。あなたの回復なんて、市販ポーションの劣化版でしょう?」

 劣化版。リオンは表情を変えなかった。昨日、その「劣化版」がガルドの致命傷を瞬時に消し去ったことを、目の前のこの女は知らない。知らないまま、一生を終えるのだろう。

 フィーナが小声で「言い過ぎじゃない?」と呟いたが、ガルドが「事実だろ」と切り捨てた。

「Aランクパーティに実力で入れたわけじゃないんだ。創設時にたまたまいただけの補欠だ。ありがたいと思え」

 ドルクだけが何も言わず、気まずそうに視線を逸らした。ドルクはいつもそうだ。加担はしない。だが、庇いもしない。その沈黙がときどき、罵倒よりも重く感じることがあった。

 リオンはパンの最後のひとかけらを口に入れ、水で流し込んだ。味はしなかった。三年前から、食事の味がわからなくなっている。毎晩の激痛で味覚が鈍っているのか、それとも別の理由か。考えても仕方がないことだった。

「ポーションは十二本、用意しておく」

「足りるのか? 十五にしろ」

「わかった」

 立ち上がる。椅子を引く音が酒場の喧騒に紛れた。周囲のテーブルでは別のパーティが朝食を囲み、今日の依頼について声高に議論している。誰もリオンを見ていなかった。背中にガルドの声が追いかけてきた。

「あと、重量配分を見直したからな。お前が予備の武器も担げ。前衛の負担を減らす」

 荷物持ち。ポーション係。予備武器の運搬役。

 三年かけて積み上げた、リオンの肩書きだった。

 酒場を出ると、王都の朝の空気が肌を刺した。石畳の通りを冒険者たちが行き交い、露店から焼き肉の匂いが漂ってくる。春先の陽光は明るいのに、リオンの影だけがやけに濃く、足元に張りついていた。

 ギルドの掲示板の前を通りかかると、「聖剣の盟約」の名がAランク依頼達成一覧に載っているのが目に入った。《灰狼の巣穴・掃討完了——聖剣の盟約(リーダー:ガルド)》。メンバー欄にリオンの名はあるが、活字は一番小さい。

 誰も知らない。

 昨日の戦闘で、ガルドが死にかけたことを。リオンが肋骨三本と引き換えに、その命を繋いだことを。

 知らなくていい——と、ずっと思ってきた。

 肩代わりの術は禁忌だ。もし露見すれば、呪術師と誤認される。回復魔法の根本原理を歪めた異端の技。教会の審問官に捕まれば、火刑は免れない。だからリオンは隠し続けた。仲間に打ち明ければ理解してもらえるかもしれない、という甘い期待は、最初の一年で捨てた。

 一年目、ガルドが背中を斬られたとき。リオンが肩代わりで即座に治したのに、ガルドは「大した傷じゃなかったな」と笑って終わった。

 二年目、セレナが魔法の反動で意識を失いかけたとき。リオンが代わりに倒れたのに、「あんた体力ないのね」と言われただけだった。

 三年目の今。もう何も期待していない。

 ただ——明日の黒牙の迷宮が、少しだけ引っかかった。

 呪いの罠。Aランク上位の高難度。肩代わりの術で呪いを引き受けた場合、何が起きるか。前例がない。自分の体がどうなるか、わからない。傷や病は自己再生で帳消しにできる。だが呪いは傷ではない。魂に刻まれる呪詛を、肉体の再生力で打ち消せるのか。その答えを持っている人間は、この世界のどこにもいないだろう。

 リオンは薬屋の扉を押し開けた。棚に並ぶポーションの瓶が朝日を受けて、赤や青に光っている。薬草の青臭い匂いと、蒸留器から立ち上る蒸気の温もりが店内に満ちていた。

「ポーションを十五本」

「また大量だね。明日も依頼かい?」

「ああ。黒牙の迷宮だ」

 薬屋の主人が目を丸くした。

「あそこは危ないよ。回復役がしっかりしてないと——」

「大丈夫だ。市販ポーションで十分らしいから」

 自嘲が滲んだ声に、薬屋の主人が怪訝な顔をした。何か言いかけて、やめた。長年この商売をしていれば、冒険者の事情に踏み込むべきでないことくらいわかっているのだろう。

 十五本のポーションを革袋に詰め、宿に戻る。部屋の隅に積まれた布の山——毎晩の吐血で汚れた布を、まとめて洗濯に出すための山。この三年で何百枚洗ったかわからない。宿の女将には「持病の咳で」と説明してある。最初は心配されたが、今ではもう何も聞かれない。人は他人の苦痛にすぐ慣れる。

 窓の外では、「聖剣の盟約」の面々が酒場の前で談笑している声が聞こえた。ガルドの豪快な笑い声。セレナの澄んだ声。フィーナの控えめな相槌。ドルクの低い唸り。

 四人の笑い声だ。五人パーティなのに、いつも四人の声しか聞こえない。

 リオンは窓を閉め、寝台に腰を下ろした。昨夜の肋骨の痛みがまだ微かに残っている。右の脇腹に手を当てると、皮膚の下で骨が軋んだ。完全には治りきっていない。

 明日までに、治さなければ。

 黒牙の迷宮で何が起きても、仲間を守れるように。

 目を閉じる。暗闇の中で、ガルドの言葉が反響した。

 ——お前の仕事はそれだけだ。

 リオンは奥歯を噛みしめ、横になった。眠れない夜が、また始まる。明日の迷宮には、呪いが待っている。三年分の痛みを背負った体で、リオンはその呪いにも手を伸ばすのだろう。

 誰に感謝されることもなく。誰に知られることもなく。

 それでも——

 布に滲む血の赤だけが、リオンが確かに生きている証だった。

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