第3話
第3話
馬車がヴァイセンブルク邸の門をくぐったとき、私はようやくグレンの外套を肩から外した。
折り目正しく畳みながら、指先に残る温もりを意識の隅に押しやる。ここからは侯爵令嬢の顔に戻らなければならない。婚約破棄という現実を前に、感傷に浸っている暇はない。
車輪が玉砂利を踏む音が止まり、御者が扉を開けた。降り立つと、正面玄関に執事のヴィルヘルムが控えている。老執事の顔に刻まれた皺がいつもより深く見えたのは、既に知らせが届いているからだろう。
「お帰りなさいませ、お嬢様。——旦那様が、書斎でお待ちです」
その声の慎重さが、すべてを物語っていた。
書斎へ向かう廊下は、午後の陽が斜めに差し込んで埃が金の粒のように舞っていた。革靴が石床を叩くたびに、反響が背筋を正せと急き立てるようだった。
書斎の扉を開けると、父は窓辺に立っていた。背を向けたまま、中庭の薔薇園を見つめている。かつてこの庭は母が丹精を込めて育てたものだ。母が亡くなって五年、手入れは行き届いているものの、どこか寂しげに見えるのは気のせいではないだろう。
「——リーゼロッテ」
振り返った父の顔には、怒りがあった。けれどそれは殿下に向けられたものではなく、もっと複雑な、自分自身を責めるような種類のものだった。
「聞いた。ハインリヒ殿が使いを寄越した」
「左様でございますか」
「座りなさい」
父の書斎は、壁一面が書架で埋め尽くされている。革張りの長椅子に腰を下ろすと、革の軋む音が静寂に妙に大きく響いた。父は向かいの椅子に深く身を沈めた。指を組み、額に皺を刻み、しばし沈黙する。暖炉には火が入っていないのに、空気だけが重く淀んでいる。やがて口を開いたとき、その声には焦燥が滲んでいた。
「すぐに別の縁談を探す。お前の年齢と家格を考えれば、候補は限られるが——フェルディナント伯爵家の嫡男か、あるいはザクセン子爵家の」
「お父様」
「王家との縁は失われた。だがヴァイセンブルク家の血筋と、お前が受けた教育を考慮すれば——」
「お父様」
二度目の呼びかけで、父は口を閉ざした。私は背筋を伸ばし、父の目をまっすぐに見た。この人は不器用な人だ。娘を愛しているが、愛し方を家門の存続としか表現できない。母が生きていれば、もう少し違った言葉をかけてくれたかもしれない。
「縁談のお話、ありがたく存じます。けれど、今の私に必要なのは新しい婚約者ではございません」
「何を言っている。婚約破棄の汚名を——」
「汚名は、成果で塗り替えます」
父が眉を寄せた。私は一呼吸置いてから、この朝——いいえ、昨夜あの回廊を歩きながら、おそらくはもっと前から胸の奥で温めていた言葉を口にした。
「北方領の立て直しをさせてください」
書斎の空気が変わった。父の目が見開かれ、それから厳しく細められる。
「北方領だと? あの寒冷地を? 前の領主代行が匙を投げた土地だぞ」
「存じております。だからこそ、です」
ヴァイセンブルク侯爵家は王都近郊の豊かな領地と、北方辺境の寒冷地を治めている。北方領はかつて薬草と毛皮の交易で栄えたが、この十年で交易路が衰退し、先代の領主代行の怠慢も重なって荒廃が進んでいた。父の関心は常に王都の政治と南方の本領に向いており、北方は事実上放置されている。
「お父様。北方領の直近五年の税収推移をご存知ですか」
「……それは」
「七年前を頂点に、毎年およそ一割ずつ減少しています。昨年度はピーク時の三割にまで落ち込みました。このまま放置すれば、十年以内に領の維持費が税収を上回ります」
父の顔色が変わった。数字を突きつけられることを予期していなかったのだろう。組んでいた指の節が白くなるほど力が入ったのを、私は見逃さなかった。
「北方領には三つの潜在資源がございます。第一に、寒冷地特有の希少薬草の自生地。第二に、山間部の未開拓水源とそれを利用した灌漑の可能性。第三に、旧交易路を復活させた場合の隣国との通商利益。王妃教育で学んだ農政改革の事例にヴェストマルク辺境伯領の再興があります。荒廃した寒冷地を十二年で王国有数の穀倉地帯に変えた先例です。あの手法の根幹は、輪作体系の導入と用水路網の再整備でした。北方領の地勢と気候を考慮すれば、応用は十分に可能です」
言葉を重ねるごとに、父の反論の気配が薄れていく。三年間の王妃教育は、殿下の心を掴むことには役立たなかった。けれど財政と農政と外交の知識は、確かに私の中に根を下ろしている。無駄ではなかった。三年間は、無駄ではなかったのだ。
「さらに申し上げれば、北方領の立て直しはヴァイセンブルク家の評判回復にも直結いたします。婚約破棄された令嬢が閨閥にしがみつくのと、自ら領地を再興するのと——社交界がどちらを評価するかは明白です」
最後の一言は、父の琴線に触れたようだった。この人は何より家門の名誉を重んじる。その性分を、娘として知り尽くしている。利用するようで心苦しくはあったが、今は手段を選んでいられなかった。
長い沈黙が書斎を満たした。窓の外で鳥が一声鳴き、遠くで庭師の鋏の音がする。父は組んだ指をほどき、再び組み直し、深い溜息をついた。
「……お前は、母に似てきたな」
予想していなかった言葉だった。父は滅多に母の話をしない。胸の奥が不意に熱くなり、私は唇を引き結んで堪えた。
「あれも一度決めたら、梃子でも動かぬ女だった」
それは同意なのか、嘆きなのか。おそらくその両方だったのだろう。父は立ち上がり、書架から一冊の革装丁の帳簿を引き抜いた。北方領の管理台帳だった。
「半年だ。半年で成果が見えなければ、王都に戻って縁談を受けてもらう」
「——ありがとうございます、お父様」
帳簿を受け取る手が震えていないことを、自分でも不思議に思った。あるいは今朝、もっと重い宣告を受けたばかりだから、これくらいでは揺らがなくなったのかもしれない。
書斎を出ると、社交界の現実が早くも牙を剥いていた。
廊下ですれ違った使用人の目が泳ぐ。昼過ぎには早くも見舞いと称した客が訪れ始めた。言葉の端々に滲む好奇心と、扇の陰の囁き。「お気の毒に」という言葉が、これほど鋭い刃になるとは知らなかった。
「リーゼロッテ様、どうかお気を落とさずに。殿方などこちらから願い下げですわ」
伯爵夫人の慰めの言葉の裏で、その令嬢が侍女に「次の舞踏会が楽しみね」と囁くのが聞こえた。壊れた人形を覗きに来る子供のような目。私という見世物を楽しみにしているのだ。
すべてを無表情のまま受け流し、夕刻、私は自室で北方領の帳簿を開いた。数字は父の言葉以上に雄弁だった。人口流出、作付面積の縮小、未修繕の用水路。課題の山に、不思議と心が奮い立つ。少なくともこの帳簿は、私の努力を無駄にはしない。数字は裏切らない。人の心とは違って。
翌朝。
旅支度を整え、北方領行きの馬車に乗り込もうとしたとき、私は足を止めた。
御者台の隣に、見覚えのある長身の影が座っている。黒髪に灰色の瞳。飾り気のない革鎧。昨日、畳んで侍女に預けた外套を、再びその肩に纏っている。
「——グレン殿?」
「護衛の任は解かれていない」
抑揚のない声。説明でも弁明でもなく、ただ事実を述べるだけの簡潔さ。父から命じられたのか、あるいは自ら志願したのか。その灰色の瞳からは何も読み取れない。
北方領までは馬車で三日の道のりだ。寒冷地での暮らしは王都の比ではない。この男は、それを承知の上でここに座っている。
「……ご苦労をおかけいたします」
「任務だ」
それだけ言って、グレンは前方に視線を戻した。
馬車が動き出す。王都の石畳が車輪の下で歌い、やがて街道の土に変わる。窓の外に広がる麦畑を眺めながら、私は小さく息を吐いた。
不思議なものだ。殿下の傍にいた三年間、いつも喉元に張りついていた息苦しさが——今、少しだけ和らいでいる。行く先に待つのは荒廃した土地と、半年という猶予と、成果を出さねば縁談に縛られる未来。安穏とは程遠い。
それでも。
馬車の揺れに身を任せながら、私は帳簿の最初の頁を開いた。御者台から聞こえてくるのは、風の音と、馬の蹄の音と、時折御者が馬に声をかける穏やかなやり取りだけ。グレンの声はない。けれど彼がそこにいることだけは、不思議なほど確かに感じ取れた。
北の空は、王都より広かった。