第3話
第3話
三日目の朝、バケツの水替えだけは迷わなくなっていた。
傾けて水だけ流す。新しい水を入れる。七つのバケツを順番に。初日は二十分かかった作業が、今日は十二分で終わった。水を替えるたびに、茎の切り口からふわっと青臭い匂いが立ちのぼる。最初は気になったその匂いも、三日目にはむしろ朝の合図みたいに感じ始めていた。腕はまだ重いけれど、重さの正体が分かっている分だけ楽になる。ハサミの跡は赤い筋から小さな豆に変わっていて、これはたぶん、そのうち硬くなるんだろうと思った。経理部にいた七年間で一度もできなかった豆だ。
店に戻ると、作業台の上に芍薬が十五本ほど束ねて置いてあった。入荷したばかりらしく、茎に水滴がついている。蕾はまだ硬く閉じていて、握り拳くらいの大きさがある。
「水揚げ」
黒瀬が一言だけ言って、奥の冷蔵ショーケースに消えた。
昨日教わった通りにやればいい。茎を斜め四十五度に切って、深水に浸ける。芍薬の茎は硬いけれど、昨日二十本切ったから感覚は残っている。ハサミを手に取って、一本目の茎に刃を当てた。
硬い。昨日より、ずっと。
昨日切ったのは水揚げ済みの芍薬の切り戻しだった。すでに水を吸って柔らかくなった茎と、入荷したての茎では硬さがまるで違う。力を入れると刃が滑って、断面が潰れた。繊維が押しつぶされて、切り口が白く毛羽立っている。もう一度切り直そうとして、今度は深く切りすぎた。茎が短くなりすぎて、バケツに入れたら花の頭が水面すれすれになってしまう。
焦った。二本目は慎重にいこうとしたら、今度は角度が浅すぎて断面がほとんど平らになった。水の吸い口が小さい。三本目は力加減を間違えて茎を割った。繊維がささくれて、白い管のようなものが露出している。
六本目まで切ったところで、手を止めた。バケツの中の芍薬を見下ろす。茎の長さがばらばらで、断面はどれも潰れたり裂けたりしている。昨日の「否定しなかった」が合格だったとすれば、これは明らかに不合格だった。
「……どうしよう」
声に出してから、周りを見た。黒瀬は冷蔵ショーケースの奥にいて、こちらを見ていない。残りの九本に目をやる。これ以上失敗するわけにはいかない。でも最初の六本はもう取り返しがつかない。茎を短く切りすぎた花は元に戻せない。経理なら修正仕訳を切ればいい。数字は消せる。でも切った茎は伸びない。
黒瀬が奥から戻ってきたのは、私がバケツの前で固まっていた時だった。作業台の上の惨状を一瞥して、足を止めた。
何か言われる、と思った。「見ればわかる」よりもっと厳しい言葉が飛んでくる。当然だ。仕入れた花をダメにしたのだから。花にも原価がある。経理脳がすぐに計算する——芍薬一本の仕入れ値がいくらか分からないけれど、六本分の損失。
黒瀬は何も言わなかった。
バケツから六本の芍薬を抜き取り、作業台に並べた。水が作業台の上に細い線を引く。それからハサミを取って、最初の一本の茎をさらに短く切った。私が切りすぎた、あの茎を、もっと短く。
「何を——」
「黙って見てろ」
茎を十五センチほどに揃えて、花の頭の位置をそろえる。潰れた断面を斜めに切り直す。短くなった分、切り口は新鮮だった。六本の芍薬が、小さな束になっていく。黒瀬の手つきには迷いがなくて、ハサミが茎に入るたびに、さくっと小気味いい音が店内に響いた。
黒瀬は棚からグリーンを二本取り、芍薬の周りにあしらった。モンステラ——昨日覚えた、大きな葉っぱの。短い茎の芍薬を葉が包むようにして、麻紐できゅっと束ねた。片手に収まるくらいの、小さなブーケだった。
「花が根から関係に振り分けた体力は、切り方で還せる」
黒瀬はブーケをバケツに挿しながら言った。私には向けていない目線のまま。
「茎が短くなった分、水を吸い上げる距離が短くなる。花に回る水の量は変わらない。むしろ切り口が新しい分、吸いはいい」
それだけ言って、残りの九本を自分で切り始めた。ハサミが茎に入る音は一定で、断面はどれも同じ角度だった。
私はしばらく、黒瀬が作ったミニブーケを見ていた。六本の芍薬の蕾が、小さな束の中でぎゅっと寄り添っている。失敗作を寄せ集めただけなのに、ちゃんと形になっている。
「これ、どうするんですか」
「表」
黒瀬は顎で軒先を指した。
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店の軒先には、バケツの並びの端に小さな木箱がある。初日から気になっていたけれど聞けずにいた場所。手書きの札がかかっている。「ご自由にどうぞ」。
ミニブーケを木箱に入れた。芍薬の蕾は水に浸けたことで少しだけほころび始めていて、硬かった握り拳がわずかに指を開いたような形になっていた。
午前中、お客さんは三人来た。どの人もブーケには目をくれなかった。昼過ぎの常連の女性——初日に「蓮ちゃん」と呼んでいた人も、今日は仏花だけ買って帰っていった。私は水替えと花の名前の暗記と、九本の芍薬の水揚げ確認を繰り返しながら、ときどき軒先を覗いた。ブーケはまだそこにあった。日差しが傾くにつれて木箱に影がかかり、芍薬の蕾が少しずつ色を深くしていくのが分かった。
十五時過ぎだった。
杖をついた老婦人が、店の前でゆっくりと足を止めた。バケツの花を順番に見ていたその人の視線が、木箱の上のミニブーケで止まる。
「あら」
老婦人はブーケを手に取った。両手で包むように持ち上げて、芍薬の蕾に顔を近づけた。しわの深い指が、モンステラの葉をそっと撫でた。
「きれいね」
小さな声だった。独り言みたいな、誰に向けたでもない呟き。老婦人はブーケを胸元に抱えて、札を確認してからもう一度「いいの?」と店の中をちらりと見た。黒瀬は奥で伝票を書いていて気づかない。私が「どうぞ」と頷くと、老婦人はゆっくりと頭を下げて、杖をつきながら歩いていった。ブーケを抱えた背中が、商店街の人混みに溶けて見えなくなるまで、私は軒先に立っていた。
ブーケが消えた木箱を見つめた。
経理部で数字を間違えたとき、修正仕訳を切って上書きした。間違いは消えて、正しい数字だけが残る。消す。それが修正だと思っていた。でも黒瀬がやったのは違った。切りすぎた茎を消したのではなく、切りすぎた茎のまま、別のものに変えた。失敗は失敗のまま残っているのに、形が変わって誰かの手に渡った。
あの「きれいね」は、もともと私が台無しにした六本の芍薬に向けられた言葉だ。
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閉店後、残りの九本の芍薬を確認した。黒瀬が切ったものは当然きれいに水を吸い上げていて、蕾がうっすらとほどけ始めている。朝の硬い握り拳が、ほんの少しだけ力を抜いたように見えた。
「明日からは深水にしたまま一時間置いてから長さを揃えろ。切る前に水を吸わせれば茎が柔らかくなる」
黒瀬はシャッターを降ろしながら言った。振り向かない。
「はい」
「あと、芍薬は湯揚げのほうが確実だ。切り口に熱湯を三秒当てる。やり方は明日見せる」
昨日まではなかった言葉だった。「見ればわかる」ではなく、「明日見せる」。それが配慮なのか単なる気まぐれなのか分からなかったけれど、私は「はい」とだけ答えた。
アパートに帰って、シャワーを浴びて、麦茶を飲んだ。いつもの手順。でも今日は、グラスを置いた後に自分の手のひらを見た。ハサミの豆と、爪の間にうっすら残った緑の筋。経理部にいた頃の手は、いつもきれいだった。ハンドクリームを塗って、爪を整えて、キーボードを打つのに最適な手。今の手はお世辞にもきれいとは言えない。でもこの手で切った茎が——切りすぎた茎が——別の形になって、知らない老婦人の「きれいね」になった。
数字は正しいか間違っているかのどちらかで、間違いは消すしかなかった。でも花は、切りすぎても終わりじゃなかった。短くなった分だけ別の生かし方がある。失敗が、失敗のまま残って、それでもどこかに届く。
スマートフォンの画面が光った。柚希からのLINE。
『三日目! 生きてる?笑』
三日で辞めるかも、と書いたのは二日前だ。親指が画面の上をさまよって、結局こう打った。
『まだいる』
笑、はつけなかった。送信して、それからもう一度手のひらを見た。爪の間の緑が、なかなか落ちない。落ちなくていいか、と思った。
目覚ましを七時にセットした。明日、黒瀬が芍薬の湯揚げを見せてくれる。失敗を消さない方法を、もうひとつ覚えられるかもしれない。指先のハサミ豆が、枕に当たって小さく痛んだ。その痛みが、少しだけ心地よかった。