第2話
第2話
開店を告げる鈴の音が消えるより先に、黒瀬が口を開いた。
「バケツ。外のやつ、水全部替えて」
振り向くと、もう作業台に戻っている。質問を受け付ける気配がない。私は鞄をどこに置くかも分からないまま、とりあえず足元に下ろして店の外に出た。
軒先のバケツは七つ。花が入ったまま持ち上げると、想像の三倍重かった。水を含んだ花束と金属のバケツ。経理部で一番重いものはバインダーファイルだったから、腕がすぐに悲鳴を上げた。
裏口の水場を見つけるまでに二分かかった。一つ目のバケツの水を流し、新しい水を入れて戻す。二つ目、三つ目。四つ目のバケツを持ち上げたとき、茎の切り口から出たぬめりが指に絡みついて、思わず手を引っ込めた。
「花、落とすな」
いつの間にか店の入り口に立っていた黒瀬が、腕を組んだままこちらを見ている。
「す、すみません」
「バケツは傾けて水だけ流せ。花は出さなくていい」
言い終わる前にもう中に戻っていった。私はぬめりのついた手をエプロンで拭いて、言われた通りにバケツを傾けた。なるほど、こうすれば花を出さずに水だけ替えられる。最初から教えてくれればいいのに、と思ったけれど、口には出さなかった。
七つのバケツを替え終わる頃には、額に汗が浮いていた。五月の朝の空気はまだ涼しいのに、背中が湿っている。腕時計を見ると九時十分。開店は九時半のはずだ。
店に戻ると、黒瀬は冷蔵ショーケースの中を整理していた。私が突っ立っていると、顎で作業台を指した。
「そこにある花、名前言えるか」
作業台の上に六種類の花が並んでいた。カーネーションは分かる。芍薬も昨日の夜に画像検索して覚えた。あとの四つが分からない。白い小さな花の集まり、紫の穂のような花、大きな葉っぱつきの緑、細い枝に小さな実がついたもの。
「カーネーションと……芍薬」
「あとは」
「……分かりません」
黒瀬は作業台まで来て、一つずつ指差した。
「スプレーマム。デルフィニウム。モンステラ。ヒペリカム」
四つの名前を一度だけ言って、もう繰り返さなかった。
「覚えろ。明日また聞く」
スプレーマム、デルフィニウム、モンステラ、ヒペリカム。頭の中で三回唱えた。経理時代、勘定科目を覚えたときと同じやり方で。でも勘定科目と違って、目の前の花は色も形も匂いもあって、情報の入り口が多すぎた。スプレーマムの白い花弁に指先が触れると、紙みたいに乾いた感触がした。デルフィニウムは近づくとかすかに甘い匂いがする。
「水揚げ」
黒瀬が短く言って、バケツから芍薬を一本取り出した。茎の根元をハサミで斜めに切る。切り口から水が滲み出すのが見えた。
「茎を切り戻すと水を吸う。入荷したらまず切る。毎朝切り戻す。深水に浸けて一時間」
説明はそれだけだった。ハサミを渡される。
「残り全部やって。斜め四十五度」
芍薬の茎を握ると、思ったより硬い。ハサミの刃を当てて力を入れると、繊維が潰れたような断面になった。黒瀬が一瞬だけ目をやって、何も言わずに視線を外した。否定されなかったからたぶん大丈夫なんだろう、と思うしかなかった。
二十本ほど切り終わったとき、指の付け根に赤い筋ができていた。ハサミの柄が当たる場所。経理では絶対につかない痕だった。
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十時を過ぎた頃、最初のお客さんが来た。六十代くらいの女性で、黒瀬を見るなり声をかけた。
「蓮ちゃん、今日もカーネーション出てる? ピンクの」
蓮ちゃん。あの無愛想な男を「蓮ちゃん」と呼ぶ人がいることに、まず驚いた。
「奥のバケツに」
黒瀬は素っ気なく答えただけだったけれど、常連客は慣れた様子で店の奥に進み、自分でピンクのカーネーションを三本抜いた。
「お仏壇にね、いつもこれ。蓮ちゃんとこのが一番持つのよ」
「水ちゃんと替えてるからでしょう」
「あら、冷たい」
女性は笑った。黒瀬はレジを打ちながら目線を一切上げない。でもカーネーションを新聞紙で包むとき、茎の根元に濡らしたペーパーを巻いているのが見えた。持ち帰りの間に萎れないように。そういう気遣いを、一言も説明せずにやる人なのだと分かった。
「新しい子?」
女性が私に気づいて微笑む。
「今日からお世話になります。佐倉です」
「あら、よかったわね蓮ちゃん。一人で大変だったでしょう」
「別に」
黒瀬はお釣りを渡して、もう次の作業に移っていた。女性は私にだけ小声で「あの子、ああ見えて悪い人じゃないからね」と言い残して帰っていった。
その後も、午前中に四人ほどお客さんが来た。そのうち三人が黒瀬を名前で呼んだ。「黒瀬さん」「蓮くん」「店長」。全員、常連だった。黒瀬は誰に対しても同じ温度で、必要なことだけを短く返す。いらっしゃいませ、は一度も聞かなかった。
午後になって、作業台の温度計に気づいた。
「これ、何の温度ですか」
「ショーケース。五度」
「五度に保つんですか」
「見ればわかる」
見ても分からないから聞いてるんですけど——と喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。初日で噛みつくわけにはいかない。
代わりに、ショーケースの横に貼られた小さなメモを見つけた。手書きで「冷蔵五度 ユリは別 ドアは十秒以内に閉める」と書いてある。あの募集の貼り紙と同じ筆跡。几帳面だけどわずかに右に傾く字。
黒瀬は口では教えてくれない。けれど、こうして書き残してはいる。不親切なのか、不器用なのか、まだ分からなかった。
閉店は十九時。最後のお客さんが出た後、黒瀬は黙って花のチェックを始めた。萎れかけた花弁を指先で摘み、水の濁りを確認し、傷んだ葉を取り除く。一本一本、丁寧に。
私は何をすればいいか分からず、とりあえず朝と同じようにバケツの水を替え始めた。黒瀬は何も言わなかった。否定しないということは、合っているんだろう。この人とのコミュニケーションは、沈黙の中から正解を拾っていく作業に似ていた。
十九時半、黒瀬がシャッターを半分降ろしながら言った。
「明日も九時」
それだけだった。お疲れさま、もなかった。
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アパートに帰り着いたのは二十時過ぎだった。靴を脱いだ瞬間、足の裏が痛んだ。一日中コンクリートの土間に立っていたせいだ。経理時代は椅子に座りっぱなしだったから、足が悲鳴を上げている。指の付け根のハサミの跡がひりひりして、腕は肩から先がだるかった。
シャワーを浴びて、冷蔵庫から麦茶を出す。いつもの動作。いつもの部屋。でもエプロンを洗濯機に入れたとき、布についた青っぽい匂いがふわっと鼻に届いた。水と茎と、かすかな土の匂い。経理部の服にはなかった匂いだ。
スマートフォンを開くと、大学時代の友人、柚希からLINEが来ていた。
『初日どうだった???』
柚希には辞めることを話してあった。「花屋? え、葉月が?」と三回聞き返された。
親指が画面の上で止まる。何を打てばいいんだろう。楽しかった? 違う。つらかった? それも違う。店長は無愛想で、何も教えてくれなくて、名前も覚えてもらえたか怪しくて、手は痛いし足は痛いし、何が正解かも分からない。でも「最悪だった」とも打てなかった。あのカーネーションに濡れたペーパーを巻く指先とか、「見ればわかる」の突き放した声の裏に貼られた手書きのメモとか、そういう細かいものが引っかかっていて、まだ結論が出ない。
結局、こう打った。
『三日で辞めるかも笑』
送信してすぐ、画面を伏せた。笑、をつけたのは本気にされたくなかったからなのか、本気だったからなのか、自分でも分からなかった。
麦茶を飲み干して、グラスを流しに置く。指の付け根の赤い筋を見つめた。スプレーマム、デルフィニウム、モンステラ、ヒペリカム。四つの名前を声に出して呟いた。口に出すと、少しだけ自分のものになった気がした。
目覚ましを七時にセットして、電気を消した。
翌朝。アラームより十五分早く目が覚めた。カーテンの隙間から差し込む光がやけに白くて、一瞬ここがどこか分からなかった。天井のシミを見て、ああ自分の部屋だ、と思う。
布団の中で、今日は行かなくてもいいんじゃないか、と考えた。昨日の黒瀬の無愛想さを思い出すと胃の辺りが重い。「見ればわかる」がまた飛んでくると思うと気が滅入る。三日で辞めるかも、は半分本気だった。
なのに、気がつくと洗面所に立っていた。歯を磨いて、顔を洗って、白いシャツに袖を通している。昨日干したエプロンは乾いていて、まだかすかにあの匂いがした。
駅までの道を歩きながら、あ、と思った。足が勝手に動いている。考えるより先に、体がもう「行く」と決めていた。理由は分からない。花屋の仕事が好きだからでも、黒瀬に認められたいからでもなく、ただ——あの薄暗い店の空気を、もう一日だけ吸いたかった。
電車を降りて、商店街の角を曲がる。花卉店しづくの軒先に、今日もバケツが並んでいるのが見えた。芍薬の頭が朝露で重たそうに揺れている。昨日、水を替えたあの花だ。
ガラス戸に手をかけた。鈴が鳴る。薄暗い店内の奥で、黒瀬がバラの棘を落としていた。ぱちん、ぱちん、と同じリズム。昨日と寸分違わない光景。
黒瀬は私を見て、一秒だけ間を置いた。
「スプレーマム」
「……白い、小さい花の集まりのやつ」
「デルフィニウム」
「紫の、穂みたいな」
黒瀬は視線をバラに戻した。否定しなかった。
「バケツ」
「はい」
エプロンの紐を結んで、外に出た。今日は捩れていなかった。