第1話
第1話
決算書を閉じるとき、いつも同じ音がする。バインダーの金具がかちりと鳴って、蛍光灯がじいっと唸って、それで三月が終わる。四月が来て、五月が来て、また三月が来る。七回目の、かちり。
佐倉葉月、三十歳。大手家電メーカー、管理本部経理部。七年間、この席に座っている。
隣の島では新入社員が電話の取り方を教わっていて、その声が妙に遠い。ああ、私にもあんな頃があった。初めてExcelの関数を組めた日、嬉しくて先輩に報告したら「当たり前のことで騒ぐな」と言われた。それから少しずつ、嬉しいとか悲しいとかの感覚に蓋をすることを覚えた。数字は正確であればよくて、感情は邪魔になる。そう思って七年やってきた。
十九時二十分、フロアに残っているのは私と、向かいの席で黙々とモニターを見つめる上司だけだった。空調が切れた後のオフィスは妙に静かで、キーボードを叩く音も、電話の呼び出し音もない。遠くで警備員がフロアを巡回する足音だけが、リノリウムの床を微かに鳴らしていた。
「佐倉さん、今期もお疲れさま。正確だったよ、いつも通り」
いつも通り。その四文字が、褒め言葉なのか何なのか、もうよく分からなくなっていた。
「ありがとうございます」
口角を上げて、会釈する。パソコンの電源を落とすと、モニターに一瞬だけ自分の顔が映った。蛍光灯に慣れすぎた顔。化粧直しをする気力もなかった頬。私の人生、このまま決算書と一緒に締まっていくのかな——ふと、そんなことを思った。
思っただけだった。その夜は。
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四月七日、月曜日。朝の通勤路はいつもと同じはずだった。
駅から会社まで徒歩十二分。信号を二つ渡って、コンビニの角を曲がる。毎朝同じ道を歩いているのに、その店のことを私はずっと知らなかった。いや、知っていたのかもしれない。ただ、目に入っていなかっただけで。
小さな花屋だった。間口は二間もないくらいで、軒先にバケツがいくつか並んでいる。そのひとつに、鮮やかな黄色の花が溢れていた。丸い粒のような花が枝にびっしりとついて、朝の光を受けて揺れている。
名前を知らなかった。ただ、黄色だった。蛍光灯の白に慣れきった目に、その黄色が刺さった。
立ち止まったのは、たぶん三秒くらいだと思う。通勤の人波が左右を流れていくのが足元の振動で分かった。誰も花を見ていない。誰もこの黄色に気づいていない。なのに私だけが動けなくなっていて、鞄の持ち手を握る指先が白くなっていた。風が吹いて、ミモザの枝が小さく揺れた。甘くて青い、土の混じった匂いがふわりと届いた。七年間、トナーと再生紙の匂いしか嗅いでこなかった鼻が、その一瞬で目を覚ましたように感じた。でもその三秒で、ガラス戸に貼られた紙が目に入った。
「スタッフ募集 未経験可 週五日」
手書きだった。几帳面だけどどこか不器用な字で、「募」の字がわずかに右に傾いている。経理部のきっちりした書類に囲まれた七年間で、手書きの文字にこんなに引っかかったのは初めてだった。
その日は、そのまま会社に向かった。いつも通り席に着いて、いつも通り仕訳を切った。でも昼休み、コンビニのおにぎりを食べながらスマートフォンで検索していた。「ミモザ」。あの黄色い花の名前を、画像検索でようやく知った。
花卉店しづく。食べログにもGoogleマップにもレビューはほとんどない。小さすぎて、誰の目にも留まらない店。それなのに、あのミモザの黄色だけがずっと目の奥にちらついていた。
火曜日も、水曜日も、私は出勤途中にあの店の前で足を緩めた。木曜日には、バケツの花がチューリップに替わっていた。赤と白のチューリップに朝露がついていて、コンクリートの歩道にぽつんと水溜まりができていた。
金曜日の夜、残業を終えてアパートに帰り、冷蔵庫から麦茶を出して飲んだ。部屋はきれいに片付いている。洗濯物は畳んである。食器は洗ってある。何も散らかっていない。何も、散らかっていない。
ベランダのカーテンを引くと、向かいのマンションの明かりがいくつか灯っていた。誰かの夕飯の匂い、テレビの音、子どもの笑い声。他人の生活の気配だけが、やけに鮮明に届いてくる。私の部屋には音がない。時計の秒針すらデジタルだから、しんと静まり返っている。
ふと気がつくと、スマートフォンを握っていた。「花卉店しづく」の情報ページに表示された電話番号。親指が画面の上で止まっている。
——何をやっているんだろう。花の名前もろくに知らないのに。三十歳で未経験で、できることといえば仕訳と減価償却の計算くらいなのに。
でも、と思った。あの黄色を見た三秒間、私は息をしていた。七年ぶりに、ちゃんと息を吸った気がした。
麦茶のグラスに残った結露が、テーブルの上にじわりと輪を描いていた。冷蔵庫のコンプレッサーが低く回る音だけが、暗い部屋に響いている。親指が画面に触れた。呼び出し音が三回鳴って、低い男の声が出た。短い会話だった。名前と年齢と、いつから来られるか。それだけだった。電話を切った後、心臓がどくどくと喉の奥まで脈打っていた。手のひらが汗で濡れていて、スマートフォンの画面に指紋がべったりと残っていた。
翌週の月曜日、私は上司に辞意を伝えた。
「佐倉さんが? どうして」
理由をうまく説明できなかった。花屋に転職します、と言ったら上司は目を丸くして、それから困ったように笑った。「経理と花屋じゃ、ずいぶん違うね」。ええ、と答えた。ずいぶん、違います。だから行くんです——とは言えなかった。
引き止めは思ったよりあっさりしていた。人事部に届けを出し、引き継ぎ資料を作り、有休を消化して、五月の頭に最終出社を終えた。送別会で花束をもらった。カスミソウとピンクのカーネーション。「佐倉さんらしい、優しい感じにしました」と後輩が言った。私らしい花が何なのか、自分では分からなかった。
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五月十九日、月曜日。
花卉店しづくの前に立っている。初出勤の朝。
白いシャツにデニムのエプロン。面接のときに渡された、少しだけ大きいサイズ。紐を後ろで結ぶとき、手が震えた。嘘じゃない。本当に震えていた。
店の前には今日もバケツが並んでいる。ミモザの季節はとうに終わっていて、今は芍薬とカーネーションが主役らしい。名前を覚えたばかりの花たちが朝日を浴びて、水の匂いと一緒に香っている。土と緑と、かすかに甘い匂い。オフィスのトナーと空調の風しか知らなかった鼻が、情報量に少し戸惑っている。
ガラス戸を引いた。からん、と古い鈴の音がする。
店内は思ったより薄暗かった。天井から吊るされたドライフラワーが影を作り、左の壁には切り花の冷蔵ショーケース、右手には鉢物が棚に並んでいる。足元はコンクリートの土間で、うっすらと湿り気を帯びていた。水を吸った苔のような、青い匂いがどこかからする。正面の作業台の奥に、人影があった。
振り向いた男の顔を、私はこのとき初めてまともに見た。面接は電話だけで終わっていた——「未経験?」「はい」「月曜から来て」。それだけだった。まともな面接じゃない。それすら気にならないほど、私はどうかしていたのだと思う。
黒瀬蓮。三十代半ばくらいだろうか。短く刈った黒髪に、飾り気のない黒いエプロン。目つきは鋭いというより、何かを拒んでいるように見えた。感情の窓口を閉めている目だ、と思った。経理部の上司よりもずっと無機質で、けれど手元にはバラの棘を丁寧に落としている指がある。その指先だけが、この人の中で唯一柔らかいもののように思えた。
私が「おはようございます。今日からお世話になります、佐倉です」と言ったとき、黒瀬はバラから目を上げて、一秒だけこちらを見た。
「エプロン、紐が捩れてる」
それだけ言って、またバラに視線を戻した。
いらっしゃいませも、よろしくも、何もなかった。私は捩れたエプロンの紐をもたもたと直しながら、心の中で呟いた。
——この人、接客業向いてないでしょ。
開店時間まであと二十分。花の水を替える方法すら知らない私は、薄暗い店の真ん中に立ち尽くしていた。棚の芍薬が、やけに重たそうに頭を垂れている。蛍光灯の下にいた七年間とは、何もかもが違う場所に来てしまった。黒瀬は相変わらず無言で、棘を落とす小さな音だけが店内に響いている。ぱちん、ぱちん、と一定のリズムで。その音に混じって、ショーケースの冷蔵機が低く唸っている。蛍光灯の唸りに似ていて、少しだけ安心した自分がいた。
ここで、やっていけるんだろうか。
その答えを持たないまま、開店を告げる鈴がもう一度鳴った。