第3話
第3話
彼が口を開いた。
「神殿典礼録、第三巻、第七条」
低い声だった。昨夜と同じ抑揚のない声。けれど大広間の空気を切り裂くには、それで十分だった。彼の声は広間の高い天井に届き、石壁に反響して、隅々にまで行き渡る。感情を一切含まない、ただ事実だけを伝える声。それがかえって、この場の誰よりも重かった。
壇上の老神官が目を細めた。銀の冠飾りの下で、灰色の瞳がわずかに鋭くなる。
「イオル」
名前だった。この人の名前。老神官の唇から零れたその響きを、私は刻みつけるように聞いた。イオル。翡翠の瞳を持つ、感情の読めない白い衣の人。
「大神官。続けます」
許可を求める言葉のかたちをしていたが、その声に許可を待つ気配はなかった。イオルは壇上を見据えたまま、淀みなく言葉を紡ぐ。
「神殿法第七条。『境渡りの者、すなわち界の狭間より神殿の領域に至りし者は、祭壇の認むる限りにおいて、神殿の保護下に置かれるものとする。いかなる神官もこれを侵すべからず』」
一語一語が、石の床に刻み込まれるように響いた。私の耳には意味の半分しか届かない。けれど「境渡り」という言葉だけが、不思議なほど明瞭に理解できた。境を渡る者。界の狭間から来た者。——私のことだろうか。
広間にざわめきが走った。壇上の神官の一人——痩せた中年の男が身を乗り出し、苛立ちを隠さない声で何かを言い返す。聞き取れたのは「穢れ」と「祭壇」と「反応していない」という断片だけ。
祭壇が反応していない。昨夜、イオルが呟いた言葉と同じだ。
イオルは半歩も動かなかった。痩せた神官の反論が止まるのを待って、同じ温度の声で答えた。
「第七条但し書き。『祭壇の反応の有無は、境渡りの認定において必要条件とせず。判断は封印管理者に委ねられる』」
封印管理者。その言葉が出た瞬間、広間の空気が変わったのが分かった。壇上の五人の視線が、一斉にイオルの背中に集まる。封印管理者とは——彼のことなのだ。昨夜、祭壇の文字を確認していた、あの目。この人は、この場所で何か特別な役割を持っている。
大神官が低く咳払いをした。それだけで、ざわめきが止んだ。灰色の目がイオルを見つめ、それから私を見た。品定めする視線は変わらない。けれどそこに、さっきまでとは違う何かが混じっている。計算だ。損得を秤にかけている顔。
長い沈黙だった。広間に満ちた人々の呼吸の音さえ聞こえそうな静けさの中で、大神官の皺だらけの指が、座の肘掛けを二度叩いた。
短い言葉が発された。決定の言葉だと分かったのは、壇上の神官たちが一斉に姿勢を正したからだ。私の腕を掴んでいた下級神官の手が、ゆっくりと離れた。
イオルは振り返らなかった。壇上に向かって一度だけ頭を下げ、それから踵を返した。来たときと同じ、規則正しい足音で。大広間の入り口へ向かって歩いていく。
私は取り残された。周囲の視線は消えていない。むしろ、さっきまでの嫌悪に加えて、新しい感情——困惑と、そしてかすかな怒り——が混じっているのが肌で分かった。イオルという存在が、彼らの決定を覆したのだ。規則という、感情よりも上位にあるものを使って。
誰も私に触れなかった。けれど誰も、私に声をかけもしなかった。
大広間を出たのは、自分の足だった。誰に案内されたわけでもない。ただ、イオルが歩いていった方向に、引き寄せられるように足を動かした。裸足の足裏が冷たい石を踏む感覚は相変わらず鈍く、自分の体が自分のものではないような心許なさが、歩くたびに揺れた。
回廊は朝の光に照らされて、昨夜とはまるで別の場所のようだった。壁面の石が淡い灰青色をしていること、柱の一本一本に細かな彫刻が施されていること、天井の梁に沿って蔓植物のような意匠が走っていること——暗闇に隠されていたものたちが、朝日の中で姿を現している。美しい場所だった。それは認めざるを得ない。
イオルは十歩ほど先を歩いていた。振り返りもしない。昨夜と同じだ。背中だけをこちらに向けて、規則正しい足取りで回廊を進んでいく。私は小走りに追いかけた。
「あの——」
声をかけた。イオルは足を止めなかった。
「さっきの……ありがとう、ございます」
言葉を選んだつもりだった。けれどこの世界の言葉はまだ私の中で安定しておらず、「ありがとう」に当たる音が正しいのか自信がなかった。たどたどしい発音が回廊の石壁に跳ね返る。
イオルの足音が、ほんのわずかに間隔を狭めた。立ち止まりはしない。けれどペースが落ちた。私との距離が、少しだけ縮まる。
回廊の角を曲がったところで、彼はようやく足を止めた。正確には、止まったのではなく、立ち止まる必要のある場所に着いただけだった。目の前に、小さな木の扉がある。回廊の壁に埋め込まれるようにして設えられた、目立たない扉。
イオルが扉を開けた。中は——書庫だった。天井まで届く棚が幾重にも並び、棚の一つひとつに革表紙の書物や巻物がぎっしりと詰まっている。窓は小さく、差し込む光は控えめだけれど、埃の中を泳ぐ光の筋が、狭い空間に不思議な温かみを与えていた。古い紙とインクの匂い。甘い香とは違う、乾いた、落ち着く香り。
イオルは書庫に足を踏み入れなかった。扉の前に立ったまま、私に背を向けている。
「ここにいろ」
短い言葉だった。命令の形をしている。けれど昨夜の「朝まで動くな」と同じ響きがあった。突き放しているようで、けれど——。
「食事は下級神官が運ぶ。書庫の外には出るな」
それだけ言って、イオルは歩き出そうとした。白い衣の裾が翻りかける。私は咄嗟に口を開いた。
「あの、名前——あなたの名前は」
知っていた。大神官が呼んだのを聞いていた。けれど、この人の口から聞きたかった。理由は分からない。ただ、あの広間で私と壇上の間に立った背中の持ち主の名前を、本人の声で知りたかった。
イオルは答えなかった。数拍の沈黙。回廊の空気が、朝の光の中でゆっくりと揺れている。
そして背を向けたまま、彼は小さく言った。
「毛布は……棚の裏にある。奥の、右から三番目の」
名前ではなかった。問いに対する答えにもなっていない。まるで的外れな、けれど——。
背中越しに見えた耳の先が、赤かった。
翡翠の瞳は見えない。表情も見えない。抑揚のない声も、いつもと変わらない。けれど耳だけが——白い衣と同じ色をした肌の中で、その先端だけが——明らかに色を変えていた。
私は息を止めた。
彼は気づかれたことに気づいていない。そのまま規則正しい足音を刻んで、回廊の奥へ消えていった。白い衣の裾が角を曲がるまで、私はその場に立ち尽くしていた。
書庫の中に入って、扉を閉めた。薄暗い空間に、古紙の匂いが満ちている。棚の間を進み、奥の右から三番目の棚を見つけた。その裏に回ると——確かにあった。畳まれた灰色の毛布。厚手の、けれど柔らかな布地。手に取ると、かすかに温もりが残っている気がした。気のせいかもしれない。石の上に長く置かれた布に、温もりなど残るはずがない。
けれど私はその毛布を胸に抱いて、棚の影に座り込んだ。
規則で守った。感情ではなく、論理で。あの広間で彼が使ったのは優しさではなく、正しさだった。私への同情でもなければ、好意でもない。ただ法が定めた条文を、淡々と読み上げただけ。
それなのに——毛布のことを覚えていた。
朝まで動くなと言った昨夜から、毛布のことを考えていたのだろうか。冷たい石の床で一晩を過ごす私のために、棚の裏に毛布があることを。名前を聞かれて答えず、代わりにそれを告げた。
あの赤い耳の先を思い出す。膝を抱えて、毛布に顔を埋めた。泣きそうだった。泣く理由が分からないのに、目の奥が熱い。怖かったからだろうか。安心したからだろうか。それとも——名も知らぬ人の、不器用すぎる親切が、凍えた体のどこか深いところに触れたからだろうか。
窓の外を見上げた。小さな窓から覗く空は、透き通るような青だった。この世界の空の色。見知らぬ場所の、見知らぬ光。
けれどその光の中で、私は確かにここにいることを許された。規則という冷たい盾に守られて。
棚の隙間から、回廊に面した窓が見えた。その向こうを、紺色の衣の神官が足早に通り過ぎていく。壇上にいた一人だ。その横顔に浮かぶ表情を、私は見逃さなかった。
苛立ち。そして、計る目。
規則は彼らを黙らせた。けれど納得させたわけではない。あの灰色の目の大神官も、痩せた中年の神官も、今はただ、法の前に引き下がっただけだ。
この静けさは、安全とは違う。
毛布を握る指先に、力がこもった。