第2話
第2話
光で目が覚めた。
冷たい石の床に頬を押しつけたまま、いつの間にか意識を手放していたらしい。瞼の裏に薄い橙色が滲んでいる。目を開けると、高い窓から差し込む朝の光が、祭壇の表面を斜めに照らしていた。刻まれた文字の溝に光が入り込み、一つひとつの線が金色に縁取られている。夜の闇の中では不気味にすら見えたその文字列が、朝日の下ではどこか荘厳な美しさを帯びていた。
体が強張っていた。一晩中、石の上で丸くなっていたせいだ。首を動かすと鈍い痛みが走り、指先は感覚を失いかけている。ゆっくりと体を起こして、両手を擦り合わせた。息を吐くと、白くはならなかったけれど、空気の冷たさは骨まで届いていた。肩を抱いても震えは止まらず、自分の体温がどこか遠いもののように感じられた。
朝が来た。あの人は、朝まで動くなと言った。では——。
足音が聞こえた。昨夜のものとは違う。一人ではなく、複数の足音。硬い靴底が石を叩く音が重なり合い、回廊の向こうから近づいてくる。声も聞こえる。低い囁き、それから甲高い何か——笑い声だろうか。
私は咄嗟に立ち上がろうとして、足がもつれた。膝が石に打ちつけられる。痛みに顔を歪めた瞬間、回廊の角から三つの人影が現れた。
昨夜の彼と同じ白い衣。けれど仕立てが違う。布地は薄く、裾の銀糸の刺繍もない。代わりに腰に灰色の帯を巻いた、簡素な祭服。それを着た三人の——神官だろうか——若い男女が、祭壇の足元にうずくまる私を見つけて、足を止めた。
一拍の沈黙。それから、最初に声を上げたのは先頭にいた女性だった。
鋭い言葉だった。意味は——断片的にしか分からない。「何」と「ここ」と、あとは知らない音の連なり。けれど声に含まれた感情は、言葉が分からなくても理解できた。嫌悪。驚き。そして、汚いものを見たときの、あの反射的な後退り。女性の目が見開かれ、その瞳孔がわずかに縮むのが、朝の光の中ではっきりと見えた。
「待って、私は——」
日本語が口を衝いて出た。当然、通じるはずがない。三人の顔に困惑が広がり、すぐに別の何かに変わった。後ろにいた男性神官が、一歩前に出て私の腕を掴んだ。
強い力だった。手首に指が食い込む。痛い、と声が出たけれど、男は構わず私を引き起こした。もう一人の男性がもう片方の腕を取る。二人に挟まれるようにして、私は祭壇から引き離された。
女性神官が早口で何かを叫んでいる。繰り返し聞こえる一つの言葉があった。「ケガレ」——いや、違う。似た音だけれど、この世界の言葉だ。昨夜、意味が染みるように分かった感覚が、今朝はひどく曖昧で、靄がかかったように掴めない。けれどその言葉が私を指しているのは、視線の鋭さで分かった。
回廊を引きずられるように歩かされた。裸足の足裏に、磨かれた石の継ぎ目が一つひとつ当たる。角を曲がるたびに景色が変わり、壁の燭台は朝日に照らされて役目を終えた蝋燭だけを残していた。乾いた蝋の匂いと、昨夜から変わらない甘い香りが混ざり合う。
柱の間を通り過ぎるとき、何人もの神官とすれ違った。皆が足を止め、私を見た。好奇と警戒が入り混じった視線。ある者は衣の裾を引き寄せ、私に触れまいとするように身を引いた。まるで、病を持つ者を避けるように。
やがて、大きな扉の前に出た。両開きの、天井近くまで届く石の扉。表面にはあの文字が刻まれている。祭壇にあったものと同じ曲線と直線の組み合わせ。扉は既に開かれていて、その向こうに広い空間が見えた。
大広間だった。天井は祭壇のある部屋よりさらに高く、壁面の窓から差し込む光が、塵の粒子を金色に浮かび上がらせている。正面の壇上に半円形の席が並び、そこに五人の神官が座っていた。彼らの衣は白ではなく、深い紺色。金糸の刺繍が光を受けて重々しく輝いている。その中央に座る老年の男は、額に銀の冠飾りを載せていた。
——評議、という言葉が浮かんだ。なぜ分かるのか。昨夜と同じだ。言葉の意味だけが、理由もなく頭に落ちてくる。
私は大広間の中央に立たされた。両腕を掴んでいた二人の神官が左右に退き、代わりに広間を埋めた数十の視線が、その重さを私に預けてきた。息が苦しい。冷たい空気を吸い込んでも、肺の奥まで届かない気がした。足元の石の冷たさが、裸足の指先からじわじわと全身に染み上がってくる。
中央の老神官が口を開いた。低く、しかし大広間の隅々まで届く声。私を見てはいなかった。壇上の他の神官たちに向けて、淡々と何かを述べている。聞き取れた単語は僅かだった。「祭壇」「異物」——そして何度も繰り返される、あの言葉。回廊で女性神官が叫んだのと同じ音。
穢れ。
その意味が、ようやく輪郭を結んだ。私がここにいること自体が、彼らにとっての汚染なのだ。
弁明しなければ。何か言わなければ。けれど口を開いても、この世界の言葉は喉の奥で形を失い、代わりに出てくるのは彼らには意味をなさない音の羅列だった。
「お願いします、聞いて——」
日本語が広間に響いた。一瞬、ざわめきが止む。数十の目が私を見る。そしてすぐに、困惑が嘲りに変わるのが分かった。壇上の老神官が片手を上げ、静寂を命じる。それからゆっくりと、初めて私に視線を向けた。
古い樹皮のような顔に刻まれた皺の奥で、濁った灰色の目が私を品定めする。何かを短く言った。その声には温度がなかった。石を転がすような、乾いた響き。
左右の神官たちが頷く。決まったのだ、と直感した。何が決まったのかは分からない。けれど私に関する何かが、たった今、この半円形の席で確定した。
広間の空気が動いた。壇上の一人が立ち上がりかけ、両脇にいた下級神官たちが再び私の腕に手を伸ばす。
——そのとき、扉の向こうから足音が聞こえた。
規則正しい、迷いのない足音。昨夜、暗い回廊で聞いたのと同じ音。硬い靴底が石を叩くその響きを、私は一度しか聞いていないのに、もう忘れようがなかった。
広間のざわめきが、潮が引くように静まっていく。
足音が近づく。一歩ごとに、空気が変わるのが分かった。下級神官たちの手が、わずかに緩む。壇上の灰色の目が、私を通り越して、扉の方を見た。
大広間の入り口に、白い衣の裾が翻った。
昨夜と同じ白。けれど朝の光の中で見ると、その白はただの白ではなかった。仕立ての良い布地が柔らかく光を含み、裾を彩る銀糸の文字が回廊の神官たちのものとは比べものにならないほど精緻で、一目で位の違いが分かる。
翡翠の瞳が、広間を一度だけ見渡した。壇上の神官たちを、立ち尽くす下級神官たちを、そして中央に立たされた私を。その視線が私の上を通過したとき、昨夜と同じだった。認識した、という静かな事実だけ。それ以上でも以下でもない。
けれど——足は、止まらなかった。
彼は大広間の中央へ向かって、真っ直ぐに歩いてくる。等間隔の足音が、石の床の上で正確に刻まれていく。広間を埋めた神官たちが、まるで見えない力に押されるように左右に道を開けた。誰一人として、彼の歩みを遮ろうとしない。
壇上の老神官の顔に、かすかな緊張が走ったのが見えた。
彼は私の隣を通り過ぎ——いや、半歩だけ前に立った。私と壇上の間に、白い背中が入る。大きな背中ではない。華奢とさえ言える肩幅。けれどその背中が壇と私の間にあるだけで、向けられていた数十の視線が一枚の壁に遮られたように感じた。
沈黙が降りた。広間全体が、彼の次の言葉を待っている。
私は彼の背中を見つめていた。白い祭服の布地越しに、肩甲骨の線がうっすらと見える。その背中が、昨夜の闇の中で遠ざかっていった背中と同じものだとは、朝の光の中では不思議なほど違って見えた。闇の中では突き放すように冷たかったその輪郭が、今は数十の視線を一身に受けて、微動だにしない。
あの人が来た。あの翡翠色の瞳の人が。
名前も知らない。味方かどうかも分からない。
それでも——足音が聞こえた瞬間、止まっていた息がようやく動いたのは、確かだった。