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神殿の灯と境渡りの少女

第1話 第1話

第1話

第1話

冷たい、と思った。それが最初の感覚だった。

頬に触れているのは石だ。滑らかで、ひんやりとした石の表面が、意識の底から私を引き上げていく。目を開けると、視界いっぱいに灰色が広がっていた。石の床。継ぎ目のない、磨き上げられた一枚岩のような床が、どこまでも続いている。

体を起こそうとして、腕が震えた。力が入らない。まるで長い間眠っていたかのように、指先の感覚が鈍い。手のひらを石の床に押しつけると、冷気が皮膚の奥まで浸透してくるのがわかった。体の芯まで冷え切っている。どれくらいこうして横たわっていたのだろう。それでもどうにか上体を持ち上げて、私は自分がいる場所を見渡した。

高い天井だった。見上げると、首が痛くなるほど遠くに、薄暗い闇が広がっている。壁には燭台が等間隔に並び、小さな炎がゆらゆらと揺れていた。その光が照らし出すのは、私の目の前にそびえる巨大な祭壇。灰白色の石でできた祭壇の表面には、見たこともない文字がびっしりと刻まれている。渦を巻くような曲線と、直線的な記号が組み合わさった、どの言語にも似ていない文字。

ここは、どこだろう。

記憶を手繰り寄せようとした。最後に覚えているのは——何だったか。アパートの、あの狭い部屋。蛍光灯の白い光。テーブルの上に置きっぱなしのコンビニ弁当の空容器。洗い物をしなきゃ、と思いながら布団に潜り込んだこと。スマホの画面に表示された深夜二時の数字。それだけだ。それと、この冷たい石の床との間に、何の繋がりも見つけられない。

立ち上がろうとして、膝が笑った。裸足の足裏に石の冷たさが直接伝わってくる。靴は——ない。見下ろすと、着ているのはいつものTシャツとスウェットのまま。眠る前の格好だ。けれど周囲に広がるのは、中世の教会か遺跡のような石造りの空間で、その不釣り合いさが、現実味を奪っていく。

祭壇の向こうに、回廊が伸びていた。等間隔の柱が列をなし、その奥は闇に呑まれて見えない。空気は乾いていて、かすかに甘い——お香のような、花のような、けれどどちらとも違う匂いがした。鼻の奥にまとわりつくような、一度嗅いだら忘れられない種類の香り。嫌ではない。けれど心のどこかを不安にさせる甘さだった。

夢だろうか。そう思いたかった。けれど石の冷たさも、乾いた空気が喉を通る感触も、あまりにはっきりしている。

私はゆっくりと、祭壇に手をついて立ち上がった。指先が文字の刻まれた表面に触れる。溝の一つひとつが深く正確で、これを彫った誰かの気の遠くなるような労力を想像させた。

——足音がした。

回廊の奥から、規則正しい足音が近づいてくる。硬い靴底が石の床を叩く、静かだけれど確かな音。私は祭壇の陰に身を隠そうとして、けれどもう遅かった。回廊の闇の中から、一つの灯りが浮かび上がる。

燭台を手にした人影が、柱の間を縫うようにこちらへ歩いてくる。

白い衣だった。足元まで届く長い祭服。布地は燭台の光を受けてほのかに輝き、裾には祭壇と同じ文字が銀糸で縫い取られている。その衣をまとっているのは、若い男性だった。私より少し年上くらいの——いや、年齢がよくわからない。整った顔立ちには表情と呼べるものがほとんどなく、それが実際の歳を曖昧にしていた。

燭台の灯りが、彼の瞳を照らした。翡翠色。深い緑の中に、炎の光が小さく映り込んでいる。その瞳が、まっすぐに私を捉えた。

逃げることも、声を上げることもできなかった。恐怖というのとは違う。彼の視線には敵意がなかった。かといって、温かさがあるわけでもない。ただ、そこにいるものを認識した、という静かな事実だけが、翡翠の瞳の奥に浮かんでいた。

数歩の距離を残して、彼は足を止めた。燭台を持つ手は微動だにしない。炎の揺らぎだけが、彼の白い祭服に薄い影を落としている。

「——迷い人か」

低い声だった。抑揚がほとんどない。問いかけているようでもあり、独り言のようでもある。言葉の意味は——不思議なことに、理解できた。聞いたことのない響きなのに、意味だけが頭の中に染みるように入ってくる。けれど完全ではない。彼が何語を話しているのか、なぜそれが分かるのか、その仕組みは見当もつかなかった。

「あの……ここは——」

声を出そうとして、喉がかすれた。乾いた空気のせいだ。咳き込む私を、彼はただ見ていた。助けるでもなく、突き放すでもなく。まるで、雨の日に軒先で雨宿りをしている小動物を見つけたときのような——そんな距離感。

「あなたは、誰ですか」

ようやく絞り出した問いに、彼は答えなかった。代わりに、燭台をわずかに持ち上げ、灯りで私の顔を照らした。眩しさに目を細める。彼の翡翠の瞳が、私の顔を、服を、裸足の足先を、順に辿っていくのが分かった。観察している。品定めでもなく、心配でもなく、ただ情報として確認しているような視線。

「……祭壇が反応していない」

彼は小さくそう呟いた。私に向けた言葉ではなく、自分自身に確認するような口調。視線が私から祭壇の表面へ移り、刻まれた文字列をなぞるように動いた。何かを確かめているらしい。眉一つ動かさない顔の中で、翡翠の瞳だけがわずかに揺れたように見えた。それから燭台を下ろし、背を向けた。

「待って——」

思わず手を伸ばしかけた。けれど指先は白い祭服の裾に届かず、空を掴む。彼はそのまま回廊の奥へ歩き出していた。規則正しく、迷いのない足取りで。燭台の灯りが少しずつ遠ざかっていく。

行かないで、と言いそうになった。我ながら情けないと思う。見知らぬ相手に、出会って数十秒で縋ろうとしている。けれど、この広い石の空間に一人で残される恐怖は、見知らぬ相手への警戒を簡単に上回った。

灯りが回廊の曲がり角に差しかかる。あと数秒で、闇に呑まれる。

「……朝まで動くな」

声が届いた。振り返りもせず、背中だけをこちらに向けたまま。低く、平坦な声。感情の読めない、けれどどこか——突き放しきれていない響き。

「ここは夜の神殿だ。回廊に出れば、見回りの者に見つかる」

それだけ言って、白い衣は闇に消えた。

燭台の灯りが完全に見えなくなると、祭壇の周囲はほとんど真の暗闘になった。壁の燭台だけが心もとない光を落としている。炎が揺れるたびに、祭壇に刻まれた文字が浮き上がり、また沈む。意味の分からない文字の羅列が、生き物のように蠢いて見える。

私は祭壇の足元に座り込んだ。膝を抱えて、小さくなる。石の冷たさが、スウェット越しに体温を奪っていく。指先はとうに冷え切って、自分の膝に触れても感触がぼんやりとしか伝わらない。

朝まで動くな、と彼は言った。では朝になったら、どうなるのだろう。助けてくれるのだろうか。それとも——。

分からない。何も分からない。ここがどこなのかも、なぜ自分がここにいるのかも、あの青年が何者なのかも。

けれど、ひとつだけ確かなことがある。彼は私を追い払わなかった。

それが優しさなのか、無関心なのか、あるいはもっと別の理由なのかは分からない。ただ、「朝まで動くな」という言葉の裏には、少なくとも「朝までここにいてもいい」という意味が含まれていた。そう解釈するのは、都合が良すぎるだろうか。

膝に顔を埋めて目を閉じた。暗闇の中、遠くから鐘の音が聞こえた。低く、長く、石の壁に反響しながら何度も重なり合う深い音色。その振動が床を伝って、祭壇を通じて、私の体にまで届く。骨の奥に染み入るような重い共鳴が、胸の中で波紋のように広がっていく。

何の鐘だろう。時を告げているのか、儀式の合図なのか。

鐘の余韻が消えるまで、長い時間がかかった。余韻が消えたあとの静寂は、さっきよりも深い。けれど不思議と、最初に目を覚ましたときほどの恐怖はなかった。

あの翡翠色の瞳を思い出す。感情の読めない、冷たいとすら映る瞳。なのに私は、あの目に怖さを感じなかった。理由は分からない。ただ、あの瞳のどこかに、私が知っているものと同じ色があった気がする。

何の色かは、まだ分からないけれど。

冷たい石の床に頬を預けたまま、鐘の余韻の名残を聞いている。眠れるはずがなかった。それでも目を閉じた。朝が来るまで、この暗闇の中で、あの短い言葉だけを握りしめるようにして。

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