第1話
第1話
「お前には才能がない」
その一言が、三年という歳月のすべてを塗り潰した。
宮廷魔導士グレイヴの執務室は、王立魔法学院の最上階にある。窓から差し込む午後の陽が、壁一面の書架と、床に散らばる古代語の写本を照らしていた。埃が光の柱の中をゆっくりと舞い、革表紙の匂いと古いインクの匂いが混じり合って、この部屋だけの空気を作っている。かつてこの部屋に初めて招かれた日、レンは書物の海に目を輝かせたものだった。田舎の村では見たこともない金箔押しの装丁、触れるだけで指先がぴりりと痺れる封印付きの禁書。この人の下で学べるなら、どんな苦行にも耐えられると思った。
だがいま、師の顔を見上げるレンの瞳に光はない。
グレイヴは椅子に深く腰を沈め、銀縁の眼鏡越しにレンを見据えていた。壮年の魔導士にしては若々しい容貌。だがその灰色の瞳は、弟子に向ける温度を完全に失っていた。机の上では書きかけの論文のインクがまだ乾ききっておらず、羽根ペンが無造作に置かれている。レンが入室したとき、グレイヴはほんの一瞬だけ眉をひそめた。まるで予定外の来客を迎えたような、その微かな苛立ちが、これから告げられる言葉の前触れだった。
「三年だ。十分に見た。魔力量は同期の十分の一、詠唱速度は学年最下位。これ以上の時間を費やす意味がない」
「師匠——」
「破門だ、レン。今日中に寮を出ろ」
それだけ言うと、グレイヴは手元の写本に視線を落とした。もう弟子の姿は目に入っていないかのように。レンの口が何かを紡ごうとして、けれど言葉にならず、唇が震えるだけで閉じた。喉の奥に鉛の塊が詰まったようだった。言いたいことは山ほどあった。毎晩の自主鍛練のこと、術式制御の精度が上がっていること、あと半年あれば——。だがそのどれもが、師の背中に弾かれて床に落ちた。グレイヴが写本をめくる乾いた音だけが、沈黙の中でやけに大きく響いた。
三年。毎朝誰よりも早く起き、誰よりも遅くまで鍛練し、指先がひび割れるまで術式を繰り返した三年。凍える冬の朝、息が白く染まる練武場で、感覚のなくなった指を握り締めて詠唱を続けた日々。その日々を、たった二つの文で切り捨てられた。
執務室の扉を閉めたとき、廊下に笑い声が弾けた。
「やっぱりな。グレイヴ師の弟子なんて分不相応だったんだよ」
同期のセドリックだった。金の巻き毛を揺らし、取り巻きを従えて壁に寄りかかっている。腰に下げた杖飾りが光を弾いて、それが彼の実家の紋章——四大貴族ラングレー家の双獅子であることを誇示していた。その隣には、学年首席のリーゼ。彼女は嘲笑こそしなかったが、レンから目を逸らした。それが哀れみだと分かるぶん、余計に堪えた。
「荷物、早くまとめたほうがいいぞ。寮長が鍵を回収しに来るってさ」
セドリックの言葉に背を向け、レンは歩いた。長い石廊下を、一歩ずつ。背後でセドリックが何か追い打ちをかけたようだったが、もう耳には入らなかった。壁の燭台に灯された魔法の炎が、少年の影を長く引きずっていた。
寮の部屋は狭かった。木の寝台と、小さな書き物机。それだけの空間に三年分の時間が詰まっている。机の端には鍛練記録をつけていた羊皮紙の束が残っていた。日付と術式と、その日できたことできなかったことを几帳面に書き連ねた、千日分の記録。これも学院の備品だから置いていかなければならない。革の鞄ひとつに荷物を押し込むのに、さほどの時間はかからなかった。教本は学院の備品だから置いていく。着替えは二着。あとは、父の形見である火打石だけ。
掌の中で火打石を握ると、使い込まれた金属の冷たさが肌に馴染んだ。父が生きていた頃の記憶はもう薄い。だがこの火打石を打つ音——カチリ、という硬い音だけは、はっきりと耳の奥に残っている。魔法なんか使わなくても火は起こせる。村を出る日の朝、母がそう言って持たせてくれた。
学院の正門をくぐるとき、振り返らなかった。振り返れば、何かが折れると思った。
夕暮れの街を抜け、冒険者ギルドの裏手にある安宿に転がり込んだ。宿賃は手持ちの銅貨で三日分。それを過ぎれば路頭に迷う。明日からギルドの雑用仕事を探さなければならない。
だがそれは、明日の話だ。
今夜はまだ、やることがある。
街の東を流れるメルド川。その河原に降りたとき、日はとうに沈んでいた。空には星が散り、川面が月光を細い帯にして揺らしている。昼間の喧騒が嘘のように、水の音だけが静かに響いていた。
冷たい風が首筋を撫でる。初春とはいえ、夜の河原は身を切るほどに冷えた。吐く息が白く滲み、指先の感覚がじわじわと失われていく。レンは鞄を足元に置き、両手を前に構えた。
詠唱は短い。基礎中の基礎、火球の術式。魔法学院に入って最初の一ヶ月で習う、最も単純な攻撃魔法だ。だがレンにとって、この術式には特別な意味がある。入学して初めて成功した魔法であり、三年間で最も多く繰り返した魔法だった。何千回と唱えたその詠唱は、もはや呼吸と同じくらい自然に唇から零れる。
「——《イグニス》」
指先から小さな炎が生まれ、弧を描いて飛んだ。対岸に積まれた古い丸太——レンが的として置いたもの——のちょうど中心に、火球は吸い込まれるように命中した。焦げた木の匂いが川風に乗って漂ってくる。
もう一度。
「《イグニス》」
同じ場所に、寸分違わず。丸太の中心。
三度。四度。五度。
繰り返すたびに魔力が削られていく。もともと少ない器だ。十発も撃てば、指先の感覚が鈍くなり、額に汗が滲む。同期なら五十発は軽く撃てる術式を、レンはたった十発で限界を迎える。息が荒くなり、視界の端が暗く翳る。体の芯から何かを搾り取られるような、あの嫌な感覚。魔力枯渇の手前特有の、骨の髄が軋む痛み。
それでも——一発たりとも、的を外したことがない。
師が何と言おうと、学院が何と評価しようと、この精度だけは誰にも否定できない。レンはそう思っていた。いや、そう思わなければ、立っていられなかった。
十一発目。指先が震え、火球の形が歪みかける。それでもレンは術式を手放さない。歪んだ炎を意志の力で押し留め、狙いを定め——放つ。
命中。中心から髪の毛一本ほどもずれていない。
膝が折れた。河原の小石が膝小僧に食い込む痛みが、やけに鮮明だった。両手を地面につき、荒い呼吸を繰り返す。冷えた石の感触が掌に伝わり、川の水音がすぐ近くに聞こえた。
「才能がない、か」
呟きは川の音に飲まれて消えた。
この三年間、何度も聞いた言葉だ。同期から。教官から。そして今日、師匠から。だが不思議と、涙は出なかった。泣くほどの驚きがなかった。心のどこかで、いつかこう言われると分かっていたのかもしれない。
それでもレンは立ち上がった。砂利を払い、もう一度両手を構える。魔力はほとんど残っていない。絞り出すように、最後の一発を。体が拒否しているのが分かる。これ以上は危険だと、本能が警告を鳴らしている。だが構わなかった。今日この夜に、自分が何者であるかを確かめておきたかった。たとえ証人が星しかいなくても。
「《イグニス》」
蒼白い小さな炎が——それでも真っ直ぐに飛んで、丸太の中心を焼いた。
レンは知らなかった。この異常な命中精度が何を意味するのかを。魔力量でも詠唱速度でもない、もっと根源的な何かが彼の術式を導いていることを。そしてその「何か」が、やがて世界の在り方すら揺るがすことになることを。
川の上流から、微かに風が変わった。冷たさの質が違う。土と鉄の混じった、地の底から這い出るような匂い。レンは無意識に廃坑のある北の山を見上げた。闇に沈んだ稜線の向こうで、何かが脈打っているような——そんな錯覚を覚えて、首を振った。
疲労だ。考えすぎている。
鞄を拾い上げ、安宿への道を歩き始める。明日からは冒険者ギルドの雑用で生きていく。学院とは違う、泥臭い世界だ。だがレンにとって、魔法を捨てるという選択肢だけは存在しなかった。
破門されようと、嘲笑われようと。
この手から火を放てる限り、自分はまだ、魔法使いだ。
月明かりの下、少年の背中が安宿の方へ消えていく。河原には焼け焦げた丸太だけが残された。十二の焼痕は、すべて寸分違わず同じ一点に重なっていた。それを見届ける者は、この夜、誰もいなかった。
だが北の山の奥——廃坑の最深部では、千年の眠りについた封印陣が、微かに、脈動を始めていた。