第2話
第2話
朝は鶏の声ではなく、安宿の薄壁を通り抜ける酔漢の怒鳴り声で始まった。
レンは固い寝台の上で目を開けた。体のあちこちが鈍く痛む。昨夜、魔力を絞り尽くすまで火球を撃ち続けた代償だ。指先にはまだ微かな痺れが残っている。だが不思議と、気分は悪くなかった。窓の隙間から差し込む朝日が、染みだらけの天井に細い線を引いている。この宿に寝泊まりするのは今日で二日目。手持ちの銅貨はあと二日分。今日中に仕事を見つけなければ、明後日には橋の下で寝ることになる。
冒険者ギルドは、街の中央広場に面した石造りの建物だった。学院の優雅な尖塔とは似ても似つかない、実用一辺倒の無骨な構え。正面扉を押し開けると、朝から酒気と汗と革の匂いが入り混じった空気が押し寄せた。壁一面に羊皮紙の依頼書が貼り出され、武装した男女がそれを品定めしている。学院にいた頃は足を踏み入れたこともない場所だった。魔導士の卵にとって冒険者ギルドとは、魔法を体系的に学べなかった者たちが腕力で糊口をしのぐ場所——そういう偏見が、学院の空気には確かにあった。
受付窓口に立つ女性が、近づいてきたレンに目を向けた。栗色の髪を後ろでひとつに束ね、胸元にギルドの紋章を留めている。目元には疲労の影があったが、声には職業的な明るさがあった。
「初めてのお顔ですね。登録ですか?」
「雑用でも何でも。仕事がほしい」
レンの言葉に、受付嬢——後に名をマーレンと知ることになる——は一瞬だけ目を細めた。学院の寮服の下に着るような白い襯衣、使い込まれた革鞄、そして何より、武器を持っていない。冒険者としての装備が何ひとつない少年を、彼女はひと目で「訳あり」と見抜いたのだろう。だが何も訊かず、登録用の羊皮紙を差し出した。
「Fランクからの出発になります。最初は戦闘なしの雑用依頼のみ。薬草採取、荷運び、清掃。報酬は日銭程度ですが、実績を積めばランクは上がります」
それで十分だった。今のレンに選り好みをする余裕はない。
最初の五日間は、泥のような日々だった。
東門近くの薬草園で朝露に濡れた薬草を摘み、市場の荷運びで背中に麻袋を三つ重ねて石畳を往復し、ギルドの倉庫整理で埃にまみれた。どの仕事も体力勝負で、魔法の出る幕はない。報酬は一日銅貨八枚。宿代を引けば、残りで買えるのは硬いパンと干し肉だけだった。
だがレンは、日が暮れるたびに河原へ向かった。
メルド川の河原は、いつしかレンだけの鍛練場になっていた。対岸の丸太に向かって火球を撃ち、魔力が尽きるまで繰り返す。十二発が限界だった量は、五日経っても十三発にしかならない。器の小ささは変わらない。それでも、一発一発の精度を研ぎ澄ませることはできた。角度を変え、距離を変え、風の強い夜にはその風を読んで軌道を微調整する。火球が的の中心に吸い込まれる感覚——それだけが、レンの矜持を繋ぎ止めていた。
六日目の朝、異変が起きた。
薬草採取の依頼でギルドを訪れたレンに、マーレンが声をかけてきた。いつもの受付窓口ではなく、わざわざカウンターを回り込んで。
「レンさん。少しお時間いいですか」
促されるまま、ギルドの裏手にある小さな中庭に出た。井戸と古い木のベンチがあるだけの、簡素な空間。マーレンは腕に抱えていた羊皮紙の束——レンの依頼達成報告書だった——をベンチに広げた。
「薬草採取の報告書、五日分を確認しました。気になることがあります」
レンは眉をひそめた。不備があったのだろうか。数量は毎回正確に数えたはずだが。
「薬草の品質等級が全件、最上位です」
「……それは、たまたま良い群生地を見つけただけで」
「違います」
マーレンの声に、普段の柔らかさはなかった。受付嬢としてではなく、かつて自身も冒険者だった者の目でレンを見ていた。
「薬草採取で品質等級が最上位になるのは、摘み取る位置と角度が完璧なときだけです。茎のどこで切るか、葉をどの方向に折るか。熟練の採取師でも十に三つ最上位が出れば上等。あなたは五日間、すべて最上位だった」
間を置いて、マーレンは続けた。
「荷運びの報告も見ました。あなた、麻袋を積むとき一度もバランスを崩していない。配置の重心計算が完璧だと倉庫番が驚いていました。——これは偶然ではない。あなたには、対象の急所というか、最適な一点を見抜く力がある」
レンは答えなかった。答えようがなかった。自分では当たり前のことをしているだけだった。丸太の中心に火球を撃つのと同じように、薬草の最適な切り口が見えるだけ。麻袋の重心が釣り合う位置が分かるだけ。それが異常なことだという自覚は、レンにはなかった。
「戦闘依頼に出てみませんか」
マーレンの提案は唐突だった。
「Fランクの実績だけでは推薦は出せません。ですが、人手不足のパーティに臨時参加する制度があります。あなたの精度なら——」
「俺は魔力量が同期の十分の一だ。戦闘では足手まといになる」
「足手まといかどうかは、戦場が決めることです」
その言葉に、レンは少しだけ目を見開いた。学院では一度も言われなかった類の言葉だった。数値ではなく、実地で証明しろ。それは学院の論理とはまるで違う、泥臭い世界の論理だった。
マーレンが紹介したのは、Cランクパーティ「鉄の矢」だった。
ギルドの酒場で引き合わされたリーダーのガルドは、レンを一瞥して鼻を鳴らした。日焼けした肌に古い傷跡をいくつも刻んだ大柄な戦士。使い込まれた戦斧を壁に立てかけ、木のジョッキを片手に、値踏みするような目でレンを見下ろした。
「魔法使い? この痩せっぽちが?」
「学院を出たばかりだそうです」
マーレンの言葉に、ガルドは声を上げて笑った。
「学院崩れか。そりゃ傑作だ。魔法使いが雑用でFランクってのは初めて聞いたぞ」
周囲のテーブルからも失笑が漏れた。レンは黙っていた。嘲笑には慣れている。学院で三年、浴びるほど浴びた。いまさら冒険者に笑われたところで、痛む場所はもう残っていなかった。
「ガルドさん。斥候のトーマが足を折って離脱したと聞いています。明日の討伐依頼、後衛が一人足りないのでは」
マーレンの指摘に、ガルドの笑みが消えた。図星だった。舌打ちをひとつ、ジョッキの麦酒を一息に干して、改めてレンを睨んだ。
「……条件がある。足を引っ張ったら即追い出す。報酬の取り分は一割。文句があるなら断れ」
「構わない」
レンは即答した。一割でも、薬草採取の三日分に相当する。それに——理由はそれだけではなかった。学院の外で、自分の魔法が通用するのかどうか。それを知りたかった。理屈ではなく、体で。
ガルドは不機嫌そうに顎をしゃくった。
「明日の朝、東門に来い。日の出と同時に出る。遅刻したら置いていく」
それだけ言って、空になったジョッキを叩きつけるようにテーブルに置き、酒場の奥へ消えていった。残されたレンに、マーレンが小さく頷いた。
「無理はしないでください。ただ——あなたの力は、雑用で終わるものではないと、私は思っています」
その夜、レンは河原での鍛練をいつもより早く切り上げた。明日に備えて魔力を温存する必要があった。十二発の火球を十発で止め、残りの二発分を体に留めておく。安宿の寝台に横になり、天井の染みを眺めながら考えた。
明日は初めて、魔獣と対峙する。
火球は的の中心を外さない。だが相手が動かない丸太ではなく、牙と爪を持つ獣だったとき、同じことができるのか。学院の訓練でさえ、実戦形式の演習に参加させてもらえたことは一度もなかった。魔力量の基準を満たしていないという理由で、常に見学席に座らされた。
だから明日が、本当の意味での初陣になる。
恐怖がないと言えば嘘になる。だがそれ以上に、胸の奥で熱い何かが脈打っていた。学院が測れなかったもの、師が見なかったもの。それを明日、戦場に叩きつける。
火打石を握り締め、目を閉じた。カチリ、と金属が鳴る音を心の中で聞きながら、レンは浅い眠りに落ちていった。
東門の向こうには、森が広がっている。その森の奥で牙狼の群れが街道を脅かしているという報せが、今日のギルド掲示板に貼り出されていた。Cランク討伐依頼——レンにとっては二階級上の仕事だ。
明日、太陽が昇ったら。
少年は知らない。その森の先、廃坑へと続く獣道で、かつてない数の魔獣が地の底から這い上がり始めていることを。