第3話
第3話
東門の前に立ったとき、空はまだ薄暗かった。地平の際がようやく藍から茜へと滲み始めた頃合い。吐く息が白く、石畳の冷たさが靴底を通して足裏に伝わってくる。指先の感覚が鈍い。昨夜はほとんど眠れなかった。初めての実戦依頼を前にして、何度も寝返りを打ち、結局は夜明け前に宿を出た。レンは革鞄の紐を握り直し、門柱の影に身を寄せた。
先に来ていたのは二人。
壁に背を預けた長身の女が、短弓の弦を指で弾いていた。鳶色の髪を耳の上で短く刈り込み、革の胸当てに矢筒を斜めがけにしている。射手のニーナ。弦を弾く指には分厚い胼胝があり、爪は実用のために短く切り揃えられていた。もう一人は、地面にしゃがんで干し肉を齧る小柄な男。腰に短剣を二本差し、目つきだけが妙に鋭い。斥候のペトルだった。トーマの代わりに別班から借り受けた臨時要員だと、後でレンは知ることになる。
二人ともレンを一瞥し、それきり興味を失った。Fランクの魔法使いに期待するものなど何もないという態度が、視線の短さに滲んでいた。
日の出と同時に、ガルドが現れた。戦斧を肩に担ぎ、欠伸を噛み殺しながら。
「全員いるな。行くぞ」
東門をくぐると、石畳がすぐに土の道に変わった。街を囲む低い丘陵を越えれば、そこからはリグレの森が広がっている。楢と樫の老木が空を覆い、朝日は梢の隙間を縫って細い光の柱となって降り注いでいた。下生えの間を縫うように獣道が伸び、湿った土の匂いと、苔の匂いと、どこか遠くで朽ちた木が崩れていく匂いが混じり合っている。学院の書庫で読んだ植生図鑑の知識が、目の前の景色と重なった。この森には薬草の群生地がいくつもあるが、同時に牙狼の縄張りでもある。
「ペトル、先行しろ。ニーナは後方警戒。——魔法使い」
ガルドが振り返りもせずに言った。
「俺の後ろに張りつけ。勝手に前に出るな。撃っていいのは俺が合図を出したときだけだ。分かったか」
「分かった」
「魔力はいくつ持つ」
「火球なら十発が限度だ」
ガルドが足を止めた。振り返った顔には、呆れを通り越した何かが浮かんでいた。
「十発。——Cランクの魔法使いなら、五十は撃てる」
「知っている」
沈黙が落ちた。ガルドの視線がレンの全身を上から下へ走り、それから空を仰いだ。溜息のような、呻きのような音が喉の奥から漏れた。
「……死ぬなよ。死なれると報告書が面倒だ」
それだけ言って、ガルドは再び歩き出した。ニーナが小さく鼻を鳴らし、ペトルは無言で茂みに消えた。
牙狼の群れと遭遇したのは、森に入って二刻ほど経った頃だった。
ペトルの鋭い口笛が二度鳴り、ガルドが拳を上げて全員を止めた。木立の向こう、小さな沢を挟んだ斜面に灰色の毛並みが見え隠れしている。牙狼。成獣で人の腰ほどの高さがある森の捕食者。群れで獲物を追い込み、鋭い牙で喉を狙う。一頭なら熟練の戦士で対処できるが、群れとなると話が変わる。
「七頭。うち二頭が大きい。雄の成獣だろう」
ペトルが戻って報告した。ガルドは顎を撫でながら、短く頷いた。
「陣形通りだ。俺が前で引きつける。ニーナ、左翼から射て群れを分断しろ。ペトル、はぐれた個体を仕留めろ。——魔法使い、お前は後方から撃て。ただし俺たちに当てたら殺す」
最後の一言が冗談なのか本気なのか判断がつかなかったが、レンは頷いた。
ガルドが斧を構えて沢に踏み込んだ瞬間、牙狼たちが一斉に頭をもたげた。黄色い目が光り、低い唸り声が森の空気を震わせる。先頭の雄がガルドに向かって跳んだ。戦斧が弧を描き、横薙ぎに振るわれた刃が獣の突進を正面から叩き返す。重い打撃音。牙狼が地面を転がり、間髪入れずにニーナの矢が二頭目の肩を貫いた。
残りの五頭が散開する。二頭がガルドの側面に回り込み、一頭がニーナの方へ駆ける。ペトルが短剣を抜いてニーナへ向かった個体に飛びかかった。
レンの目の前に、残りの二頭が来た。
一頭が沢を跳び越え、真っ直ぐにレンへ向かってくる。牙を剥き出しにした灰色の塊。速い。学院の演習で見た標的人形とは次元が違う、生きた殺意の塊。心臓が跳ね上がる。足が竦みかける。喉の奥が干上がり、呼吸が浅くなる。
だがレンの指先は、既に術式を編み始めていた。
「《イグニス》」
火球は小さかった。ニーナがちらりと目をやった瞬間、あまりの小ささに顔をしかめたのが視界の端に映った。Cランクの魔法使いが放つ火球の三分の一もない。だがその火球は、突進してくる牙狼の——左目を、正確に貫いた。
獣が悲鳴を上げ、勢いのまま地面に突っ伏した。転がる体が沢の石に打ちつけられ、動かなくなる。即死ではない。だが戦闘不能にするには十分だった。目を潰された牙狼は方向を見失い、のたうつだけだ。
二頭目が右から回り込んでくる。レンは体の向きを変えず、腕だけを振った。
「《イグニス》」
今度は喉。走る獣の、呼吸のために開いた口腔の奥へ、火球が吸い込まれた。内側から焼かれた牙狼が、くぐもった叫びとともに崩れ落ちる。焦げた毛皮の臭いが鼻を突き、地面に倒れた獣の四肢が痙攣するように二度、三度と跳ねて、やがて止まった。
ガルドが斧で三頭目を叩き伏せながら、初めてレンの方を見た。
その目には、さっきまでの侮りはなかった。
戦闘は長くは続かなかった。七頭のうちガルドが三頭、ニーナが二頭、ペトルが一頭を仕留め、レンが二頭を無力化した。魔力の消費は火球四発。残り六発を温存している。
「四発で二頭か」
牙狼の素材を回収しながら、ガルドが呟いた。独り言のようだったが、レンには聞こえていた。
「普通は一頭に三発は要る。急所に当たらんからな。動く獣の目と喉を、あの小さい火球で——」
言いかけて、ガルドは口を閉じた。レンの方を見ず、黙って牙の付け根に刃を入れ始めた。だがその手つきが、出発前よりわずかに丁寧になっていることに、レンは気づいていた。ペトルが口笛を低く吹き、ニーナは何も言わなかったが、矢筒の位置をレンの近くから離す仕草——後方の味方を警戒対象から外す動作——を自然にやっていた。
帰路は来た道を辿った。陽が傾き始め、森の木々が長い影を落としている。牙狼の素材を詰めた麻袋が肩に食い込んだが、レンの足取りは朝より軽かった。初めて自分の魔法が戦場で通用した。その手応えが、骨の奥にまだ温かく残っている。
街道に合流する手前で、ガルドが足を止めた。
「……何だ、これは」
風が変わっていた。
南から吹いていたはずの風が止み、代わりに北から——廃坑のある山の方角から、ぬるい空気が流れてきている。季節にそぐわない温さ。そしてその風に混じる、かすかな異臭。硫黄でも腐肉でもない。レンが昨夜、河原で感じたものと同じ。土と鉄が混じった、地の底から這い出るような匂い。
だが今日は、昨夜よりもはっきりと感じ取れた。匂いだけではない。肌の表面を微かに刺すような、目に見えない圧。レンは知っている。これは魔力だ。だが、人や獣が発するものとは質が違う。もっと古い。もっと深い。岩盤を千年かけて浸した地下水のような、途方もなく重い魔力の残滓。腕の産毛が逆立ち、指先が微かに痺れた。体が本能的に警告を発している。
「ガルド。北の方角から、異常な魔力を感じる」
「分かっている」
ガルドの声は低く、硬かった。戦斧の柄を握る手に力が入っている。ニーナも弓に手をかけ、ペトルは既に短剣を抜いていた。
「廃坑だな。最近、あの辺りで妙な気配がするって噂は出ていた」
ペトルが眉を寄せて言った。ガルドは数秒、北の山の稜線を睨み、それから首を振った。
「Cランクの案件じゃない。ギルドに報告して上に回す。——行くぞ」
踵を返したガルドに、三人が続いた。レンも従った。だが歩き出す寸前、北の山をもう一度だけ振り返った。稜線の向こう、夕焼けに染まった空の下で、何かが脈打っている。昨夜よりも確かに、強く。あの封印陣のことを、レンはまだ知らない。千年の眠りが綻び始めていることも。
だが体の奥——魔力の器の底で、何かが微かに疼いた。応えるように。呼ばれるように。
その夜、ギルドに提出された報告書の末尾に、ガルドは一行だけ書き添えた。「北方廃坑付近、ランク外相当の異常魔力を確認。上位調査を要請する」。だがギルドのBランク以上はすべて、王都からの遠征要請で不在だった。報告書は受理され、棚に積まれ、そのまま三日間、誰の目にも留まることなく眠り続けることになる。