第3話
第3話
軟禁初日の夜は、静寂が重かった。
自室に戻り、背中で扉を閉めた瞬間、張り詰めていたものが一気に崩れた。膝から力が抜けて、そのまま扉に凭れかかるようにしゃがみ込む。冷たい樫の木の感触が背中に伝わる。広間で堪えていた震えが、今になって全身を支配していた。
どれくらいそうしていただろう。窓の外で夜番の兵が交代する靴音が聞こえて、ようやく意識が戻った。暖炉には火が入っていたが、薪が足されていない。いつもならこの時刻には侍女のカタリナが湯と軽食を用意してくれているはずだった。けれど寝台の脇のテーブルには何もなく、呼び鈴の紐だけが暗がりの中で白く垂れ下がっている。
『……そう。もう始まっているのね』
侍女たちの態度が変わるのは予想していた。公爵令嬢が断罪されたという事実は、仕える者たちにとって沈む船の合図に等しい。忠誠心で踏みとどまる者もいるだろうが、大半は嵐が過ぎるまで距離を置くか、あるいはもっと安全な主家へと鞍替えを考え始める。それが貴族社会の現実だ。
立ち上がった。震える手で燭台に火を移し、書斎机の引き出しから羊皮紙と羽根ペンを取り出す。インク壺の蓋を開ける指先がまだ冷えていたが、構わなかった。今夜やるべきことは、震えている暇などないほど明確だった。
処刑エンドに至る全十二のフラグ。前世の私が深夜のデスクで何十時間もかけて解析し、考察記事にまとめ上げたあのフローチャートを——今度は羊皮紙の上に、一本ずつ書き出していく。
羽根ペンの先がインクを含み、羊皮紙の繊維を引っ掻く音だけが部屋に響く。
第一フラグ——学院入学式でマリエルとの最初の接触。成立済み。これはもう覆しようがない。過去の出来事だ。
第二フラグ——王太子との婚約期間中に三回以上の公的な口論。成立済み。アンナリーゼの記憶を辿れば、少なくとも四回は衆目の前でエドワードと言い争っている。マリエルへの嫉妬を煽られた結果だが、今さら取り消せる性質のものではない。
第三フラグ——社交界からの完全孤立。
ペンが止まった。未成立。だが軟禁令によって社交の場から物理的に隔離された今、このフラグは時間の問題で成立する。いや、正確に言えば「完全孤立」の定義はもう少し狭い。ゲーム内のフラグ条件を思い出す。『社交界において被告を擁護する貴族が一人もいない状態が三十日以上継続すること』——つまり、たった一人でも味方がいればフラグは立たない。
第四フラグ——実家(公爵家)からの勘当もしくは義絶。未成立。お父様はまだ何も言ってきていない。ヴェルテンベルク公爵は寡黙で厳格な人だが、娘を証拠も精査せず切り捨てるような方ではないはずだ。——はずだ、と願いたい。アンナリーゼの記憶の中の父は、いつも書斎の奥にいて、表情を読み取りにくい人だった。
第五フラグ——学院からの退学処分。成立済み。断罪と同時に処分が言い渡されている。
第六フラグ——聖女マリエルの「赦し」の宣言。成立済み。ゲームではこの「赦し」こそが最も巧妙な罠だった。マリエルが公の場で「私はアンナリーゼ様を赦します」と涙ながらに宣言することで、被害の存在が既成事実化される。赦す対象がなければ赦しは成立しない——つまりこの宣言自体が、アンナリーゼの有罪を暗黙のうちに確定させる仕掛けだ。
第七フラグ——公開断罪の場で被告が抗弁を放棄すること。不成立。今日、折った。
第八フラグ——告発の証拠が公的に異議なく承認されること。不成立。これも今日、折った。
ここまで書いて、私は一度ペンを置き、指先を揉んだ。インクの染みが右手の中指に残っている。暖炉の火が弱まり、部屋の隅に影が濃くなっていた。薪を足さなければ。けれど薪は暖炉脇の籠にもう数本しか残っていない。普段なら使用人が補充しているものだ。
『……些細なことから、綻びは始まる』
小さく息を吐いて、ペンを取り直した。
第九フラグ——裁判において弁護人が現れないこと。未成立。まだ正式な裁判は開かれていない。保留のまま宙に浮いている。
第十フラグ——王家が処刑令状に署名すること。未成立。これは最終段階、他のフラグが十分に成立した後でしか発動しない。
第十一フラグ——公爵家の領地収入が凍結されること。未成立。だがこれも軟禁が長引けば政治的圧力で実現しかねない。
第十二フラグ——被告が逃亡を試みること。未成立。逃げれば反逆の証とみなされ、残るフラグを一気に成立させる暴挙になる。これだけは絶対に踏んではいけない地雷だ。
全十二本を書き終えた羊皮紙を、燭台の光にかざした。
成立済みが六本。今日折ったものが二本。残る未成立のフラグは四本——第三、第四、第九、第十一。
処刑エンドの成立条件は、全十二フラグのうち十本以上が成立すること。現在六本。私が折った二本を除けば、あと四本のうち二本でも成立すれば王手がかかる。猶予は決して広くない。
羊皮紙の余白に、優先順位を書き加えていく。
最も危険なのは第三フラグだ。社交界からの完全孤立。軟禁によって私は物理的に閉じ込められ、味方を作る手段が極端に限られている。三十日の猶予があるとはいえ、社交界では一日ごとに記憶が薄れ、同情が冷め、噂が事実にすり替わっていく。
次に第四フラグ。公爵家からの勘当。お父様の判断に懸かっている。だが家名を守ることと娘を守ることが衝突した場合、貴族の当主がどちらを選ぶかは——考えたくない問いだった。
第九フラグは正式裁判の開廷が前提なので、当面は保留でいい。第十一フラグも、政治的な動きを注視する必要はあるが即座に動くものではない。
つまり、最優先で潰すべきは第三フラグ。そのために必要なのは——
ペン先がインクを引きながら、四つの文字を書いた。
味方。証拠。時間。そして——
三つ目まで書いたところで、ペンが止まった。窓の外から夜風が吹き込み、燭台の炎が大きく揺れる。壁に映る自分の影が歪んで、一瞬だけ見知らぬ誰かの輪郭に見えた。
四つ目。接点。軟禁された状態で外の世界と繋がる手段。手紙は検閲されるだろう。訪問者も制限される。この檻の中から、どうやって社交界に手を伸ばすのか。
考え込んだまま、どれほどの時間が経っただろう。蝋燭が半分ほど溶け、暖炉の火はもう熾火になっていた。羊皮紙の上に散った文字列を見下ろしながら、私はある種の焦燥と奇妙な高揚感の間で揺れていた。前世で考察記事を書いていたときと同じだ。難解なフラグ条件を前にして途方に暮れながら、それでも解法がどこかにあるはずだと信じてキーボードを叩き続けたあの夜更けの感覚。違うのは——今度は画面の向こう側ではなく、自分の命が賭け金だということだけ。
そのとき、控えめな扉の音がした。
身体が強張る。こんな夜更けに誰が——反射的に羊皮紙を裏返し、インク壺の蓋を閉じた。
扉が細く開き、隙間から差し込む廊下のランプの光とともに、小柄な影が滑り込んできた。見覚えのある栗色の髪と、そばかすの浮いた丸い頬。
「……リゼット様。お休みのところを申し訳ございません」
ソフィだった。侍女の中で最も若く、最も経験の浅い少女。他の侍女たちが距離を置き始めた今、この子だけがまだ——
その手に載せられていたのは、簡素な陶器の盆だった。湯気の立つスープと、硬いパンが一切れ。温かい飲み物の入った杯。ひどく質素で、普段の公爵令嬢の夜食とは比べるべくもない。けれどソフィの手は震えていた。こっそり厨房から持ち出してきたのだろう。他の使用人の目を盗んで。
「カタリナが……その、今夜は体調が優れないと申しておりまして」
嘘だ。カタリナは距離を置いたのだ。けれどソフィはそれを嘘で覆い、主人の体面を守ろうとしている。この幼い侍女に、そんな気遣いができるとは思わなかった。
「ありがとう、ソフィ」
声が少し掠れた。労りでも感傷でもない——この子を巻き込む重さを、一瞬だけ考えてしまったのだ。没落しかけた主に尽くす侍女は、共倒れの道を歩くことになる。それでも今、この温かいスープの湯気が、凍えかけた何かを溶かしていく。
ソフィが下がった後、私は裏返した羊皮紙を元に戻し、四つ目の言葉を書き加えた。
——接点。
そしてその下に、小さく書き足す。
『第三フラグ、成立期限まで三十日。味方が一人でもいれば阻止できる。だが今夜この部屋を訪れたのは、ソフィただ一人だった』
ペンを置いた。スープを一口含む。塩気が舌に沁みて、身体の芯がわずかに温まった。
窓の外では、夜が深まっていく。星のない曇天の下、公爵邸の庭は闇に沈み、その輪郭すら見えない。この屋敷の中で、私の味方と呼べる存在が何人いるのか。お父様は沈黙している。使用人たちは離れ始めている。社交界の知人たちは、関わりを避けるだろう。
羊皮紙の隅に記した第三フラグの条件が、燭台の最後の光の中で揺れている。
——社交界からの完全孤立。
その六文字が、処刑台の影よりもなお暗く、私の上に覆い被さろうとしていた。