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考察勢、断罪の場で攻略開始

第2話 第2話

第2話

第2話

私の言葉が大広間の空気を裂いた。

 筆跡鑑定——たった五文字が、蝋燭の炎すら凍りつかせたかのような沈黙を生んだ。貴族たちのひそひそ声が途切れ、扇で口元を隠していた老婦人の手が止まる。大広間の高い天井に吊るされた鉄燭台の炎が、誰かの息を受けてじりと揺れた。蝋の焼ける甘い匂いだけが、止まった時間の中をゆるやかに漂っている。誰もが次の展開を読めずに息を詰めている。

 エドワードの氷の瞳に、かすかな困惑が走った。台本にない台詞を聞かされた役者のように、一瞬だけ視線が揺れる。けれどすぐに冷厳な表情を取り繕い、壇上から私を見下ろした。

「……筆跡鑑定だと?」

「はい、殿下。私がマリエル様に送ったとされる脅迫の手紙——あの手紙が確かに私の筆であるならば、鑑定を経ても何一つ困ることはないはずです」

 声が震えないよう、腹の底に力を込めた。爪が掌に食い込むほど拳を握りしめていることに、自分では気づかなかった。前世の記憶が囁いている。この手紙こそが告発の要だ。ゲーム本編では、プレイヤーがどのルートを選んでも手紙の真贋が問われることはなかった。なぜなら、アンナリーゼがこの場で反論しないからだ。沈黙が追認となり、偽造された証拠がそのまま公的事実として承認される——第八フラグの成立条件。

『だから、黙らない。手紙そのものに疑いの光を当てる。それだけでいい』

 マリエルが動いた。

 亜麻色の髪を揺らし、涙に濡れた琥珀の瞳を大きく見開いて、震える声を絞り出す。

「そんな……っ、わたくしが嘘をついていると、おっしゃるのですか……?」

 見事だった。声の震わせ方、潤んだ瞳の角度、胸元で握りしめた指先の白さ。あらゆる要素が「傷つけられた無垢な少女」を完璧に演出している。前世でこの場面のスクリーンショットを撮ったなら、間違いなく考察記事の「聖女の演技力分析」に引用していただろう。

 広間の空気が揺れた。マリエルに同情する視線が集まり、私に向けられる目がさらに冷たくなる。騎士団長の息子がマリエルの肩にそっと手を添え、こちらを睨みつけた。

 けれど——私が見ていたのはマリエルではなかった。

 貴族たちの、最後列だ。

 前列の者たちは感情で動く。断罪の見世物に酔い、聖女の涙に流される。だが後列——とりわけ年配の当主たちは違う。彼らは感情ではなく利害で物を考える。公爵令嬢の処刑は、貴族社会全体の前例になる。証拠が杜撰なまま判決が下れば、明日は自分の家が同じ目に遭うかもしれない。

 最後列の白髪の老伯爵が、わずかに眉をひそめたのを私は見た。その隣の壮年の侯爵が腕を組み直し、隣席の夫人と目配せを交わしている。——疑念の種は、まだ芽吹いてすらいない。けれど土壌に落ちた。それで十分だ。

「嘘とは申しておりません」

 私は努めて穏やかに、けれど広間に通る声で続けた。

「ただ、これほど重大なご告発であれば、筆跡の照合は当然の手続きかと存じます。私の日頃の書簡と照らし合わせていただければ、真偽は明白になるはず。マリエル様の潔白を証明する機会にもなりましょう」

 最後の一言がマリエルの選択肢を狭めた。鑑定を拒めば「証明を恐れている」と映る。受ければ偽造が露見する危険を負う。どちらに転んでもマリエルにとって不利な二択——前世で考察記事に書いた「最適反論の分岐構造」そのままだ。まさか自分で実践する日が来るとは思わなかったけれど。

 マリエルの唇がわずかに引き結ばれた。ほんの一瞬——本当に刹那の間だけ、琥珀の瞳から涙の膜が消え、冷たい計算の光が覗いた。けれどすぐに睫毛を伏せ、堪えきれないように両手で顔を覆う。

「ひどい……っ、こんな場で、まだわたくしを苦しめるのですね……!」

 嗚咽が広間に響いた。肩を震わせ、崩れ落ちるようにエドワードの足元に跪く。完璧な被害者の造形。攻略対象たちが即座にマリエルを囲み、敵意のこもった視線を私に集中させた。

 ——けれど。

「殿下」

 声を上げたのは、最後列にいた白髪の老伯爵だった。細い身体を杖で支え、皺だらけの顔にどこか物憂げな表情を浮かべている。広間がふたたび静まった。

「老骨がしゃしゃり出る無礼をお許しいただきたい。——しかし、筆跡の照合という提案そのものは、至極真っ当ではないかと存じます」

 空気が変わった。老伯爵は三代にわたって王家に仕えた名門の当主であり、その発言は重い。エドワードの顔にかすかな苛立ちが滲んだが、老臣の言葉を頭ごなしに退けることはできない。

 その横で、壮年の侯爵も小さく頷いている。二人の重鎮が同時に疑義を示した——この事実は、マリエルの涙よりもはるかに重い意味を持つ。

『第八フラグ、不成立。証拠の無条件承認は阻止した』

 胸の内で静かに呟く。まだ処刑ルートから完全に外れたわけではない。けれど、フラグの一本を確実に折った。

 エドワードは長い沈黙の後、マリエルの肩を優しく起こしながら、硬い声で宣言した。

「……筆跡の照合については、後日改めて検証の場を設ける。本日の裁定は保留とする」

 保留。処刑でも無罪でもない、曖昧な宙吊り。けれどそれこそが、今の私に許された最善の結果だった。この場で白黒つけようとすれば、エドワードの面子を潰すことになる。面子を潰された王太子は、証拠など関係なく感情で処刑を命じかねない。保留は——時間を買うということだ。

 ただし、次の言葉は予想の範囲内だったとはいえ、やはり重かった。

「アンナリーゼ・フォン・ヴェルテンベルクには、検証が完了するまでの間、自邸からの外出を禁ずる。一切の社交を控え、王家からの召喚にのみ応じよ」

 自邸軟禁。社交界との接触を断たれるということは、第三フラグ「社交界からの完全孤立」に向けて静かに時計の針が進み始めるということでもある。一本のフラグを折った代償に、別のフラグが育つ余地を与えてしまった。

『……でも、生きている。まだ、手は打てる』

 深く頭を下げた。形式上の恭順。けれど膝は折らない。王太子の視線を背中に受けながら、大広間を退出する私の足取りは、震えこそすれ確かだった。

 大扉が重い音を立てて閉じる直前、振り返らずに広間の気配だけを感じ取った。背後のざわめきの中に、先ほどまでとは微かに異なる色がある。蔑みと嫌悪の一色だった空気に、ほんのわずかだけ——疑念という別の色が混じっている。

 それは風に乗った種子のようなものだった。目に見えるほどの変化ではない。けれど一度土に落ちた種は、条件さえ整えば芽吹く。

 馬車の硬い座席に身を沈めたとき、ようやく全身の力が抜けた。こめかみを冷や汗が伝い落ち、組んだ指先がまだ細かく震えている。あの大広間で張り詰めていた糸が一斉に緩んで、喉の奥から押し殺した息が漏れた。指の関節が、拳を握りしめ続けた痛みをようやく訴え始めている。掌には、爪の跡が赤く弧を描いて残っていた。

 窓の外を、王都の灯りが流れていく。石畳の上を走る車輪の音が一定のリズムを刻み、それだけが今の私にとっての現実の手触りだった。

『第七フラグ、不成立。第八フラグ、不成立。……でも、代わりに軟禁。社交界から切り離される』

 処刑フラグ十二本のうち、今日折れたのは二本。成立済みが六本。残りの四本は、まだ宙に浮いている。

 軟禁という檻の中で、残りのフラグをどう潰すか。証拠をどう集めるか。そして何より——味方を、どうやって見つけるか。

 馬車が石畳の継ぎ目を越えたとき、不意に思い出した。前世の考察記事に書いた一文。

 ——『このゲームの真の難所は、断罪イベントではない。断罪後の社交的孤立をいかに打破するかにある』

 あのとき画面の向こう側から気軽に書いた言葉が、今は胸の奥に鉛のように沈んでいる。攻略サイトには「ここで侯爵家ルートを選べば最短クリア」と書いてあった。けれど現実には選択肢のウィンドウなど表示されない。自分の足で歩き、自分の声で語り、自分の判断で切り拓くしかない。

 自邸の門が近づいている。鉄柵の向こうに見慣れた石造りの館が暗く沈み、出迎えの使用人たちの姿はまばらだった。すでに噂は届いているのだろう。公爵令嬢の断罪という衝撃は、この屋敷にも冷たい影を落としているに違いない。

 馬車が止まった。御者が扉を開ける気配がして、夜気が流れ込んでくる。四月だというのに、風は真冬のように刺すように冷たかった。

 降り立つ足元で、敷石の隙間から名も知らぬ雑草が一本、頑なに伸びていた。踏まれても抜かれても、石の隙間にしがみついて芽を出す——そういう種類の、強い草だった。

 私は今夜から、この檻の中で戦う。

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