第1話
第1話
「アンナリーゼ・フォン・ヴェルテンベルク」
王太子エドワードの声が、大広間の天蓋に反響した。何百という蝋燭の炎が揺れもしないほど、場は静まり返っている。金箔の天井画が蝋燭の光を受けて鈍く輝き、聖典の一場面を描いた天使たちが、まるでこの裁きを見物するかのように見下ろしていた。
「——我が婚約を、ここに破棄する」
その言葉が鼓膜を打った瞬間、頭の奥で何かが弾けた。
奔流だった。記憶と呼ぶにはあまりにも生々しい、別の人生の残像が一気に流れ込んでくる。蛍光灯の白い光。液晶画面に映る色とりどりのキャラクター。深夜のデスクで考察記事を書き殴る自分の手。缶コーヒーの苦い匂い、キーボードを叩く乾いた音、カーテンの隙間から差す朝焼けに気づかないまま没頭していた無数の夜。——『聖女の花園』。乙女ゲームのタイトルが、稲妻のように脳裏を貫いた。
『……ああ、そういうこと』
膝から力が抜けそうになるのを、奥歯を噛み締めることで堪えた。大理石の床が冷たい。薄い絹の室内履き越しにも伝わる底冷えが、足首から背筋へと這い上がってくる。磨き上げられた石の表面に、私自身の青ざめた顔がぼんやりと映っている。銀色の長い髪が頬に張りつき、蒼い瞳だけが異様に大きく見えた。——これがアンナリーゼの顔。何度もゲーム画面で見た、あの悪役令嬢の顔だ。
知っている。この場面を、私は知っている。
処刑エンド——ゲーム内で最も凄惨な結末に至る、最終分岐イベント。悪役令嬢アンナリーゼは、この大広間で王太子に婚約を破棄され、身に覚えのない罪を着せられ、最後には処刑台に送られる。涙を流す"聖女"マリエルの背中を、攻略対象たちが庇う構図で——エンドロール。
前世の私は、そのエンドロールを見て泣いた。悪役令嬢の処刑に、ではない。あまりにも杜撰な証拠で有罪が確定する司法の欠陥に、考察勢として怒りの涙を流したのだ。
そして今、私がその悪役令嬢の中にいる。
視線を上げた。壇上の王太子エドワードは、金糸の刺繍が施された礼装に身を包み、氷のような瞳でこちらを見下ろしている。端正な顔立ちには微塵の迷いもなかった。かつてこの男がアンナリーゼに微笑みかけた日々があったはずだが、今その面影は欠片も残っていない。その傍らに控えるのは、亜麻色の髪を揺らして涙ぐむ少女——マリエル。聖女と呼ばれるその人は、震える肩を騎士団長の息子に支えられながら、私に怯えた眼差しを向けていた。
完璧な被害者の顔だった。
前世でゲーム画面越しに何十回と見たあの表情——潤んだ琥珀色の瞳、白い指先で口元を覆う仕草、怯えているのに相手を責めまいとする健気さ。プレイヤーの庇護欲を刺激するために計算し尽くされたモーションデータ。それが今、目の前で生身の人間として再現されている。背筋が粟立った。
左右に居並ぶ貴族たちの表情は一様に冷たい。同情の色はない。蔑みと嫌悪、そしてわずかな好奇心。見世物だ。私の断罪を眺めるための、壮麗な見世物小屋。最前列の老婦人が隣の令嬢に何か囁き、扇で口元を隠しながら薄く笑っている。その視線の冷たさに、アンナリーゼの身体が本能的に竦んだ。
エドワードが手にした羊皮紙を広げ、罪状の読み上げを再開する。
「第一に、聖女マリエルに対する度重なる嫌がらせ及び脅迫。第二に、学院内における毒物の入手及び使用未遂——」
荒唐無稽だった。毒物など手に取ったことすらない。けれど前世の記憶が告げている。この罪状はすべて、聖女マリエルが周到に偽造した証拠によって組み立てられたもの。ゲーム中では処刑後のエピローグ——プレイヤーの大半が見逃す隠しテキストでしか明かされない真実。
前世の私は、その隠しテキストを誰よりも読み込んだ人間だった。
攻略勢ではなかった。推しキャラに夢中になるタイプでもなかった。『聖女の花園』の膨大なフラグ条件と分岐構造を解析し、矛盾点を洗い出し、考察記事にまとめることに没頭した——いわゆる考察勢。SNSのフォロワーは三桁止まりだったが、長文考察記事のブックマーク数だけは界隈でも上位に入っていた。処刑エンドに至る全十二のフラグ条件は、今でも諳んじることができる。
第一フラグ、学院入学式でマリエルとの最初の接触。成立済み。 第二フラグ、王太子との婚約期間中に三回以上の公的な口論。成立済み。 第三フラグ、社交界からの完全な孤立。——未成立、だがこのままいけば時間の問題。
頭の中で高速にフラグ一覧を走査する。前世の深夜、考察記事の草稿に赤字で書き込んだあのフローチャートが、驚くほど鮮明に蘇った。
そして今まさに進行しているのが——
『第七フラグ。公開断罪の場で、被告が沈黙もしくは涙で抗弁を放棄すること』
指先が冷たかった。心臓がうるさい。ドレスの裏地に汗が滲み、こめかみを冷たい雫が伝い落ちる。それでも頭の中だけは、不思議なほど明晰に回転している。まるで前世の深夜テンション——締め切り前に覚醒するあの感覚が、そのまま乗り移ったかのように。
処刑エンドの要は、被告——つまり私が、この場で精神的に屈服することにある。跪き、涙を流し、弁明の機会を自ら手放す。それが第七フラグの成立条件。そして同時に、第八フラグ「告発の証拠が公的に異議なく承認されること」も、私の沈黙によって自動的に満たされる。
二つのフラグが同時に立てば、処刑ルートはほぼ確定する。
エドワードの声が続いている。「——第三に、王家への不敬及び反逆の意志。以上の罪状により、アンナリーゼ・フォン・ヴェルテンベルクの一切の爵位と特権を剥奪し——」
広間の空気が重く沈む。貴族たちの間からひそひそ声が漏れ、マリエルがすすり泣く声が響く。すべてが台本通りに進んでいる。天蓋の天使たちが、哀れみとも嘲りともつかない表情で私を見下ろしている——もちろん、それは蝋燭の炎が揺れて陰影が動いただけだ。けれど今の私には、この世界のすべてが共謀してアンナリーゼを破滅に導こうとしているように感じられた。
ここで私が崩れ落ちれば、ゲーム通りの結末が待っている。
震えていた。認めよう、震えていた。この身体は十七歳の少女のもので、何百もの視線に晒され、愛した人に裁かれるという状況は、前世の記憶があろうとなかろうと恐ろしい。喉の奥が焼けるように熱い。涙腺が刺激され、視界がじわりと滲む。アンナリーゼの身体が、主人である少女の感情の記憶に引きずられて泣こうとしている。
けれど。
握り締めた拳の中で、爪が掌に食い込む感触があった。痛い。この痛みは本物だ。ゲームの画面越しではない、私自身の身体が感じる、紛れもない現実の痛み。
ならば——跪いて運命を受け入れるなどという選択肢は、存在しない。
深く、息を吸った。蝋燭の蝋が溶ける甘い匂いと、大広間に満ちる冷えた石の気配が、肺の奥まで沁みた。吐く息がかすかに白い。こんな広間では暖炉が焚かれているはずなのに、空気はまるで冬の墓地のように冷え切っている。
罪状の読み上げが終わり、一瞬の間が訪れる。エドワードが私を見下ろし、判決を言い渡す直前の沈黙。広間のすべてが私の膝が折れるのを待っている。蝋燭の炎が一斉に揺れた。窓の外で風が唸ったのか、それともこの場の緊張が空気そのものを震わせたのか。
その静寂の中で、私は顔を上げた。
滲みかけた涙を、瞬きひとつで押し戻す。背筋を伸ばした。アンナリーゼ・フォン・ヴェルテンベルクは公爵令嬢だ。たとえ世界中が敵に回ろうと、この背筋だけは折らせない。
真っ直ぐに、王太子の目を見た。
「——殿下」
自分でも驚くほど、声は澄んでいた。震えは、拳の中に閉じ込めた。
「お言葉の途中で恐れ入りますが、一つだけお尋ねしてもよろしいでしょうか」
広間がざわめく。被告が口を開くことなど、誰も想定していなかった。エドワードの眉がわずかに動く。マリエルの涙が一瞬止まったのを、私は見逃さなかった。ほんの刹那、怯えではなく驚愕が——いや、動揺がその琥珀の瞳を横切った。計算外の事態が起きたときの、素の反応。やはりこの聖女は、すべてを仕組んでいる。
ここからだ。第七フラグを折る。第八フラグを折る。そのための最初の一手を、今この瞬間に打つ。
考察勢の知識を総動員して、処刑エンドのフラグを——一本ずつ、折っていく。
私は静かに、けれどこの大広間の隅々まで届く声で告げた。
「その告発の根拠となったお手紙ですが——筆跡鑑定を、お受けになりますか?」
マリエルの顔から、一瞬だけ色が消えた。